4.体と相撲
化粧品が届く日が土曜日なので、今日は朝からずっと舞菜と家にいる。彼女が泊まる事は別に珍しくもないが、如何せん俺も男だからか無性に心臓が痛い。
しかも今の時間帯は夜だ。そして彼女は有名なパジャマブランドのあざとい寝巻きを着ている。いつも髪の上部分だけ縛っているのが今日は三つ編みでよく似合っている。
おい、ベビーシッターだぞ俺は。手を出したら俺は会社から追い出されて、世間からの罵詈雑言を受け、舞菜からは激しく拒絶され、親御さんには痰を吐かれるのだ。
そんな被害妄想を垂れ流して、風呂から上がった。下は全部履いたが、丁度いい綺麗なダル着はないだろうか。探していると、急に自室の扉が開いた。
「あぁ、舞菜ちゃんか」
近くのコンビニでアイスを買って来て、戻ってきたのだろう。妙に目を見開いているが、どうしたのだろうか。
「なんかまたさ…なんか、痩せた?」
「会社に束縛されて飯食う時間もないんだよ。最近は食欲もなくなってきたし、睡眠欲だけが増していくな」
筋肉のつかない自身の体を見る。腕には細い血管が巡っていて、気持ちが悪い。最近は鎖骨が三本増えたかと思うほど肋も浮いてきた。
彼女は部屋には入ってこず、扉の横から後ろ姿だけ見える。
「三大欲求は満たさなきゃダメ、体壊すよ」
「ちゃんと食生活は見直すようにするが……何で顔を背けるんだ?」
言い終わった後に気づいた。そうだ、上だけ何も着てなかった。もしかして恥ずかしがっているのか。かわいい奴だが、ひょっとしてこれは露出魔として捕まるんじゃないか。
すぐに近くにあった適当なトレーナーを着た。濡れた髪の状態で着るのは気持ち悪かったが、仕方ない。俺は捕まりたくない。
「着替えてる途中でしょ」
「もう着替えた」
「そう、それならいいけど」
部屋に入ってきた高校生は、湯上りのせいか、はたまたウブなせいか。少し顔が赤い。
そして近くにあるベットに座った。彼女は自分の隣を座れと言わんばかりに手で布団を叩いている。渋々座ると、気まずい空気が流れる。落ち着け絶対に手は出すな。
この気まずい空気だからまだ自制できている。なんでこいつはベットに座ったんだ。近くで見ても本当に可愛いな、この子は。
「…ちゃんと喉仏あるし、胸ぺったんこだし…髭を剃った跡もある」
「十年前から言ってんだろ、男だって」
「本当にマイの体と違うね。あーあ骨ストって何でこんなに上半身に肉つくわけ? 華奢で小さい子になりたかったー」
彼女は俺の膝の上に仰向けの状態で倒れた。俺は両手をあげた。触れてしまえば社会のクズになるからだ。
「はぁ……いいだろ高身長。ガリガリより多少筋肉や脂肪がある方が歳いった時に良い老い方をするんだから」
「うっさいルサンチマンめ」
「誰か妬み嫉みマンだ」
いつもの調子が戻ってきたが、この体制はやめて欲しい。この願いはすぐに叶い、彼女は起き上がってくれた。
「腕相撲でも指相撲でも普通の相撲でもマイには勝てないでしょ。毎回負けてたよね」
「今まで手加減してやってたのを忘れたのか?」
「はい嘘つかない、負けてたじゃん」
「じゃあやろう。どっちが強いか」
二人はリビングへと行き、机の上で固い握手をする。そして腕相撲のゴングを口で鳴り響く。俺としては負けようが勝とうがどちらでも良かった。
昔から負けず嫌いの舞菜は俺に勝つまで何度も挑戦してくるのがウザくて、何回も負けてあげたことがあったなぁ。しかし今は本気でやるしかない。
本気でやっても勝てるかどうか分からないからだ。こんなにも力が強くなって嬉しい限りだが、俺は二十七の社会人だ。もう相手は高校生なのだから腕相撲ごときで手加減しなくてもいいだろう。
「田外さぁーん手ぇ震えてますよぉ? やーい筋肉なし〜」
俺もまた負けず嫌いなのかもしれない。力を込めて彼女の手の甲を机にくっつけた。そして手を離して、勝利のガッツポーズを鬱陶しいほどにゆっくりとする。
「はい俺の勝ち、何で負けたか明日までに考えてください」
「今のは手加減してあげただけだし」
膨れっ面を見ると、ストレスが溶けていくようだ。子供を負かせるのはいい気分だ。
手をグーにしていると、その上から華奢な手が乗せられる。驚いて握っていたのが、開けると彼女は手の平を合わせてくる。
関節一つ分も指が短く、また手の平自体小さい。手の細かいキメが疲れきった成人男性とは全く違う眩い青春が詰められている。
「十年前から手のサイズ変わってないんじゃないか? 小さいな」
「骨ストだし?」
「それ格ゲーか?」
彼女は目を大きく見開いた。俺の上裸を見た時とは全く違う驚き方だが、いつもこんな感じだったな、君は。
「うっそー骨スト知らないの? 骨格診断とかパーソナルカラーとか顔タイプとか有名じゃん」
「知らないものは知らない」
「田外さんはイエベ春だからそのインナーカラー入れてると思ってた」
俺は美容室で勝手に脱色されて、勝手に追加料金を取られたことを舞菜に話すと、彼女は市販のカラー剤を買ってきた。
これが一番似合う色だと言って、オレンジを入れられたことを思い出した。正直何色でも良かったが、喋りにくい同僚や後輩と雑談する時によく役に立った。
着飾ることには一つも興味はないが、最近の若い人は髭跡を化粧で隠したり、眉毛を描いたりしているから時代は変わったものだ。
さて、入れた本人はきょとんとしている。染めている時はあんなにテンションが高かったのに。
「この色入れたの舞菜ちゃんだろ?」
「そうだっけ? そうだったかも」
「記憶力ミジンコが」
彼女は俺の髪束を一房、手に絡めている。間には机があるにしろ、彼女の距離の詰め方は凄まじく、体を前のめりにしている。
またこの子は勘違いさせるような行動ばかり取る。そろそろやめさせなければならない。
「あと近いって」
「これぐらい普通だって」
「あのなぁ。パフェカラという自覚と愛してくれる彼氏が居るって事を忘れるなよ。こうやって俺の家に居るのも規約違反もしくは浮気を疑われる要因になる。今後一切、軽はずみな行動はやめろよ」
この厳しい言葉は間違っていないはずだ。しかし、高校生の肩はゆっくりと上がり、口からは息が零れる。目はどこか下の方を見ていた。そんな顔をして欲しい訳ではないが、それでも理解してくれ。
ダメなものはダメなんだ。それは覆らない。根底のコンプレックスが一生消えないのと同一で、彼女は本来こんな奴の人生に介入してはいけない。
「……もーパパじゃん言ってること」
苦笑い。その意味を追求すれば、この関係は壊れてしまうので俺は気付かないふりをして、そのままいつもの茶番へと持っていく。
「君のパパに何かなりたかないね。俺はただのベビーシッターだぞ」
そう言うと彼女は椅子から立ち上がって俺の両頬を握って「生意気」と言い、はにかむ。またこんなことをしてと思ったが、もうこれ以上冷たい言葉を舞菜に投げかけたくはない。そのまま届いた化粧品を瞼に塗られたりと、土曜日の月は朝日の淡い空模様へと沈んでいく。
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