おまけ 初音視点②(釜石編)
逮捕されてから十日ほど過ぎた日、うちへの取り調べは風向きを変えた。それまでは男子四人への暴行と犯行現場からの逃走について、男子たちの言い分にそって罪を認めるようにと誘導する雰囲気だったのに。この日から、男子四人に受けた暴行の詳細と現場からの失踪の真相を求められた。正直、わけが分からなかった。
被害届けの出された警察署へ収監されてから、当然スマホも取りあげられていた。うちが外の情報を持てる機会は、数日おきにやってくる弁護士先生との面会のときだけで。だから雲行きが変わった理由を弁護士先生から聞けたのは、その日付が変わってからになった。
――五十嵐さんは暴行を受けた被害者です。
――暴行した男子たちが誤魔化すために、先手を打って被害届を出したのです。
――五十嵐さんを悪者に仕立て上げたおかげで、ややこしい話になっています。
――これを見た、日本全国の皆さん。
――五十嵐さんが警察の取り調べに負けないよう、応援をお願いします。
弁護士先生が見せてくれた一本の動画。仙台駅前のペデストリアンデッキ。そこでビラ配りをする、女子テニス部のエースこと長谷山穏風さんがインタビューを受けていた。その背景には、部で見知った面々が大勢いて。インタビューの終わりに――五十嵐さん、あなたを待ってる!――声をそろえていた。
テニスは個人競技。競争相手のうちが空けた席をめぐって、熾烈に争ってると思っていた。いや、それはそれで起きているんだろう。けれど、一歩テニスコートを出れば、争いなんてなかったのかもしれない。最近のうちは恋人を――恋人の見つめる未来を見すぎ目指して、足元が見えていなかった――そんなこと、なんだろう。
この面会の日、うちは大泣きしてしまい、面会を一時中断させてしまった。けど、あらためて弁護士先生と難局を乗りきると決意を固めあい――警察の取り調べには協力的に、だからといって正当防衛の主張は曲げない――そう話しあった。うちが出頭すると同時に、男子四人をうちへの暴行の罪で訴えかえしているのだから。
うちへの追及は緩くなった割に拘留期限ぎりぎりまで粘られた。そして――うちは起訴猶予処分で釈放された。
◇◆◇
「初音さん、少しお太りになったかしら?」
うちの乗る乗用車がとあるコンビニに入り、駐車スペースに停められた。それと同時に、隣のスペースに停めていた高級車の窓が全開になって、乗っていた少女から声がかかった。
「……長谷川さん……」
「水琴で良いですのよ?」
名前で呼ばれることがあるなんて思いもしなかった。だから、しばし応答も忘れてしまって。そんなうちへも、名前呼びを許してくれる。
「……ありが、とう。うんん、色々と今回はお世話になりました。大変にありがとうございます」
「そんなに畏まらなくて良いのですよ? それより名前を呼んでくださいな?」
「あっ! えっと……水琴、さん?」
「はい、水琴ですよ。同じ男子を好きなって争った水琴です」
つい感謝の言葉を紡いでしまったけど、彼女は名を呼んで欲しいという。よどみながら、視線をさまよわせながら、それでいてほほに熱を持ちながら、水琴さんの名を呼んで。彼女はからかうように朗らかな笑顔を見せてくれた。でも――
「本当はもっとお話をしていたいのですが、出向く用事が出来てしまいました。わたしも一緒にご家族のところへ送って差し上げることが出来なく、申し訳ありません」
「あ、いえ、そんな……気づかいありがとう、ございます」
一転して、水琴さんは表情をくもらせた。気の進まない用事なのがうかがい知れるから、また感謝の言葉がこぼれてしまう。
「ふふ、初音さんがそんな顔をするような用事ではありませんよ。言ってしまえば、野暮用です。だから気にしないでくださいね。それよりも、久しぶりに初音さんのご家族が揃うのです。夕食は大変豪勢にされると伺っていましてよ? だから楽しみにされてはどうかしら?」
表情を笑みに戻した水琴さんが言いきると、彼女を乗せた高級車が発進した。ゆっくりとコンビニ駐車場の出口へ進み一旦停車したところで――クラクションを一つ鳴らして、車通りへ出ていった。
◇◆◇
道すがら、弁護士先生から収監中の出来事を教わった。一つは森久保くんのこと。反訴と同時に提出したDNA鑑定書が有効だったらしい。森久保くん本人は鑑定要請を嫌がったそうだけど、そのお父さんが拒否を許さなかったらしく、最期はしぶしぶと受けたようで。そして二つの検体のDNA型が一致したから、彼も警察署へご招待された。取り調べの様子は……聞かないことにした。
ところで、森久保くんの話のとき――リョータくん――昔馴染みだからと口にしたら、弁護士先生から他人行儀な呼び方にするよう勧められた。今後裁判などで彼と係わることになる可能性も高い。もしも法廷で参考人で出たとき、リョータくんと呼んでいては裁判官の心象に影響がでそうだから――そんな理由だった。その後は名字呼びを心がけている。
また一つは、男子三人組のこと。彼らはいずれもDNA鑑定に協力的だった。それもそのはず、こちらの提出鑑定書の記載は一種類のDNAに関するもの。彼らは予想できていたのだろう、ただ一つのDNA型しか出ないと。
では、あの五回感じた辱めはなんだったんだろう?――目かくしされたとはいえ、五度も貫いた感触に間ちがいはなかったのだけど。
男子三人たちはうちから逃げきった――そう思ったからか受けたの暴行の訴えは、男子三人たちから取り下げていた。その理由を深く聞こうとすると、弁護士先生にやんわり受け流された。これ以上は聞かないほうが良い――大人の事情を察した。
ただ三野宮という男子だけ別件で裁かれることになった。うちの逮捕から少し遅れて宮城県警にとある訴えがあって。合宿でうちと同部屋になるハズだった一年女子、その家族が訴えの声を上げたから。逮捕されるときも、取り調べを受けるときも、三野宮くんは素直そうに応じている――弁護士先生は、そう教えてくれた。森久保くんの往生際の悪さと比べると、何かの理由があると感じられてならない。これも大人の事情かもしれない。
お話はつきること無くても、とうとう家族の待つ場所にたどり着くとき、終わりを告げた。弁護士先生にはお世話になった感謝をのべ、今日も運転手を買ってでてくれた水琴さんの親戚さんにも労いの言葉を贈って。そして、あらためて弁護士先生にお願いを聞いてもらう。
「今度、ビデオレターを作るので、女子テニス部のみなさんに見せていただけませんか?」
あの長谷山さんを筆頭とした面々にお礼を伝えたくて。弁護士先生は笑顔で応じてくれた。こうして家族の元へと、うちは戻れた。ただ内心では、とある決意もしていて。それは――
――もう二度と、仙台に立つことはしない――
◆◇◆◇◆
釜石での生活が始まってもう四か月が過ぎた。こちらの高校への編入は諦めて、アルバイトを始めた。火の車ではないと家計はぎりぎりのハズ。お金のことは気にするな――両親は言ってくれるけど、来年には弟が小学校へ通いはじめるから、お金は必要で。それに大学進学は、うちの人生計画らしきものになかった。なので、お金を稼ぐことにした。
仙台と違って人の多くない釜石。人の数にならうように働き口も多くない。けれど震災以降は若い人がぐっと減ったらしく、体力のいる仕事は人手が足りないとか。だからか、アルバイト探しには困らなかった。
ただ思っていたよりお給料が安く、ついつい仙台の相場と比べてしまう。そんな考えでは働く場の空気を悪くしそうで、アルバイト中に仙台風を吹かせないように心がけた。それが良かったのか悪かったのか、アルバイト先のスーパーのオーナーさん夫婦に気に入られてしまい、それからというもの――
「今日もありがとうございます」
「いいさ。おやじに殴られるよりは万倍マシさ」
寒風吹きすさぶ日の暮れた道を、自転車を押して一緒に歩いてくれる男子。
「でも大学受験に影響が出てないか心配なんですけど」
「第一志望の大学からは、もう合格をもらえたからね。とっくに左うちわだよ」
ここ最近、高校生とすれ違えば志望大学の話はよく耳にする。落ちた受かったまだ結果は出てないエトセトラ。小佐野さんも同じはずでうちを送る余裕なんて――そう思っていただけに、ふくれっ面が顔を出した。それを見てか、小佐野さんは朗らかに笑いながらもからかってくる。
「あっ、嘘だと思ったでしょ? ホントだからね、岩手大に春から通うから」
「……ふふ、嘘とは思ってません。ただ……さみしいですね」
からかいをかわした流れで、ふと思いつきを口にした。それだけなのに、小佐野さんの笑顔が凍りついた。うちにはそう見えた。
「……そ、そう。あー、そのまー、まさかだけど……おれのこと?」
しばらくして氷解した小佐野さんから問いかけが返ってきて気づく、うちの発した言葉に隠された意味が乗ってるように聞こえることに。まだ昌幸君のこと、うちは忘れていない。この胸のポケットにも忍ばせている、それなのに……ただの思いちがいであれば……
「ん? うち、何か言いました?」
「あ、いや、なにも……」
内心では誤魔化すのに精いっぱいで、小佐野さんの表情が陰っていたことには気づくこともなく。昨日までとちがい、見送りの場所――今の自宅近くの十字路まで、二人無言のまま連れだって歩く。その間、うちが思いかえしたのは――小佐野さんと打ち解けた日のこと――
◇◆◇
うちがアルバイトを始めてしばらくのこと。陳列作業をしていたところに、大学生らしい男性客二人が絡んできた。釜石地域の秋祭りの日で、男性客たちはもうお酒を飲んでいたようで。お酒の追加購入でここのスーパーを訪れていたようだった。
来たことのないスーパーだったからか、陳列棚の案内をお願いされて。でも、うちが働きはじめて間もなくて、だから陳列棚の場所がすぐに思いつかなかった。さっと見回しても近くに他の従業員もいない――だから、他の従業員を呼んでくるとその場を離れようとすると、男性客たちに行く手を阻まれた。
逃げるなよ――男性客たちから強めに圧をかけられる。この頃のうちは、自分と近い年齢の男性を怖がっていると知らなかった。暴行事件を起こしてから釜石で落ちつくまで、さながらジェットコースターに乗りっぱなしのようにフワフワする心持でいた。だから感じらとれれなかったんだと思う、うちが男性に恐怖心を持ってしまっていたことに。
男性や男子に恐れを感じる自覚を持ったときの出来事――けれど、より強い恐怖心にはいたらなかった出来事。男性客たちのうち一人に近づいたかと思うと、アッという間に投げ転がした人――それが小佐野さんだった。そんな小佐野さんに恐れをなしたか、男性客たちは店外へとすぐに逃げて行った。
小佐野さんとはアルバイトの面接でスーパーを訪れた日に出会っていた。けれど、男性が怖いという深層意識から、素っ気なく接してしまった。おかげでこちらが嫌われたように思っていたのだけど、まさか助けてもらえるだなんて。昌幸君にケガを未然に防いでもらったときのように――
――トクン、トクンッ!
うちの鼓動が不確かな脈を打ちはじめていて。小佐野さんの心配する声に、嫌悪ではなく安堵を感じた――最初の日となった。
◇◆◇
釜石は春を迎え、大学生となった小佐野さんは盛岡へ引っ越した。うちはアルバイト先のスーパーが移転して自宅と遠くなった。移動手段を得るため小型自動二輪の免許を取得した。
原付免許でも良かったのだけど、親の勧めもあってのこと。原付の速度制限三十キロは、自動車と速度差があり過ぎて、追い越される際に怖い思いをするのだとか。ゆえに速度差の少ない免許とバイクを揃えるべし、だそうで。口をはさんだ責任感のおかげで、自動車学校とバイク購入の費用は両親が折半にしてくれた。
徒歩から乗り物に通勤手段が変わったせいか、季節の流れも速く感じる。あっという間に一年が過ぎて、また春を迎えた。うちも高校生を続けていれば卒業していただろう季節。テニスを続けられていれば進路はどうしただろう?――たぶん昌幸君の近くに居れるか居れないか、それで決めていたように思う。居れた確率は低いと思っているのだけど。
そんなときにアルバイト先のオーナーさんから、一つの提案を受けた。正社員にならないかと。ただ高校は卒業していて欲しいらしく、釜石の高校に通ってみてはどうかと勧められた。けれど強めにお断りさせていただいた。この年ごろの一年二年の年齢差は大きい。特に集団の輪への入りつらさは相当だろうと推測できたから。
それでもオーナーさん側からの圧はデカくて。ついつい通信制ならと返事をしてしまい……編入に向けて勉強に励むことになった。
テニスバカだったうちの頭は良くない。退学以来、前の高校の教科書を開いた試しもなく、自主勉強はすぐに行き詰まってしまった。そんなときに手を差しのべてくれたのは、昌幸君の従兄弟の水琴さんだった。
あの釈放の日以来、直接会ったことはない。気まぐれとでも言うように、水琴さんの気が向いたときに水琴さんからビデオ通話が着信するだけで。うちからは、たまにメッセージを送るだけなのに。だから、今回も助けを求めるつもりもなく、世間話に興じるだけのつもりだったのに――
「それは良い事です。初音さんにピッタリの教材を提供させていただきます」
数日後には各種テキストや問題集が届いた。そして、ビデオ通話の着信音がスマホから聞こえ――
「では、数学の問題集を開いてください。五ページです。早速、このページの問題を解いて……」
先生役にハマり込んだ水琴さんにうちはほほを引きつらせた。けれど水琴さんの教え方は上手で、うちにはモッタイない講義となった。その成果は存分に発揮され――無事、その秋の編入試験に合格した。
◇◆◇
通信制高校といえど、登校日はある。うちの編入した高校には年間二十六日も設けられていた。今日は初登校日で、前日泊で盛岡市に来ていた。学校と呼べる場所へくるのは編入試験の日以来に。緊張してくぐった教室の扉の先には、在校生がそろっていて拍手で迎えられた。今日の授業は、うちと在校生の顔合わせが主目的となった。
そして顔合わせの延長戦も開かれ、繁華街のカラオケボックスへ来れる人が集まっていた。経歴も事情もいろいろな人たちが高校生をしている。特にしらが混じりの年齢のおじさんも高校生で、高校生のイメージが音を立てて崩れた。
また本当に夫婦だという若いカップルも高校生で、子育てと仕事と勉強を頑張っていると夫婦漫才をしていた。うちと変わらない年齢で、中卒という苦しい状況も感じさせない二人に拍手が多く送られて。その様子を見て、知らないうちにうちも元気づけられていた。
そんな楽しいひと時だったけど、少し早めに帰らせてもらう。釜石まで今日のうちに帰ることにしていたためで。盛岡駅へ向かう道を陽気に歩きながら、同級生たちに感謝の念を送りつつ駅を目指す。そして不意に気になって反対車線の歩道へ視線を向けると、見知ったような背中が女性を侍らせ歩く姿に目が留どまり、その横顔が見えたとき――
――えっ、小佐野さん?!
すぐに男性の背中は隣の女性と一緒に人ごみの中へ消えた。けれど動揺するうちはその場に取り残され、一歩も動けなくなった。そんなうちを救ったのは念のためと仕込んでいたスマホのアラーム音。バスに間に合わなくならないようにと、三十分前に鳴るよう設定していた。
慌てて駅へと駆けてゆき、なんとか予定のバスには間に合った。その車中、どうしてショックなのか疑問は募る。できれば見間違いであって欲しい、できれば女性はただの知りあいでいて欲しい――どうしてそう願うのか、自分が分からない。
――昌幸君なら教えてくれるかな?
瞳を閉じて胸ポケットに右手を当てる。けれど――返答はなかった。
◇◆◇
年が明けて、アルバイト先のスーパーでは餅つき大会が行われていた。その運営サイドに小佐野さんの姿はなかった。前年の餅つき大会では運営のお手伝いをしていたというのいに。オーナーさんによれば、確実な単位取得のため盛岡で勉強漬けの日々を送るため、なのだとか。
話を聞いたとき、うちには女性を侍らせた小佐野さんを思い浮かべてしまう。この正月に帰省しない理由には、裏があるのではないか――つい疑ってしまった。小佐野さんはうちの家族でも恋人でもない。そんな詮索をする義理も何もないというのに。けれど……けれど……
うちは年明け前よりも眠れぬ夜を過ごすことになった。
◇◆◇
釜石に住みはじめて三度目の夏。海水浴場がにぎわう頃、アルバイト先のスーパーも海の家を出していた。うちは食材の配達で海の家に出向いたりもしていた。そんな夏のある一日はさえぎる雲が少ない快晴。ひなたに居るだれもかれもが、あごから汗をしたたらせている。
海の家のバックヤードに、ワゴン車を運転してきたオーナーさんの奥さん――サブオーナーさんと食材を運びいれる。その最後の往復のとき、ふと海岸線へと目を向ければ――まばゆい日差しの中に、見知ったような背中を見つけた。その男性へ向けてこちらを振りむいた女性が手を振っている。それに応えて男性も手を振りかえし駆けよって行った。
――あっ、小佐野さん?!
背中の記憶を探る間に、男性はかげろうの向こうへと消えていった。彼の右腕が、手を振りかえしていた女性に絡めとられながら。
その光景を見て、なぜか心の中にぽっかりと開いた穴があるような気がした。理由を探そうとして、うちは止める。うちの淡い期待は宛もなくさまよい、昌幸君への問わず語りをまた心の中で繰りかえした。
◇◆◇
通信制高校の受講は順調に消化していた。編入試験と同じく、学習内容で分からないことを水琴さんに教えてもらっている。元スポーツ特待生の学力なんてあって無いようなもの。水琴さんに頼りきりは申しわけないけど、なるはやで卒業を目指す身としては願ったりで。全日制高校のように教室に行けば頼れる仲間がいる環境ではないのだから。
また、およそ月二回の登校日では順調に交友関係を築いていた。そんな中でしらが交じりのおじさんが卒業を迎えた。在校生一同で手作り卒業式を企画して、学校で一番広い教室で挙行した。人数の都合もあって、前の学校では一年生が在校生として卒業式に出席しなかった。だから、初めての高校での卒業式出席となった。うちの化粧は式の後でお化けと評されることに……下手でごめん。
そして――また年が明けて、アルバイト先のスーパーでは餅つき大会が行われた。その運営サイドに小佐野さんの姿はやっぱりなかった。うちと小佐野さんの間にご縁はなかった――そう思うように努めようと、新年の太陽に祈った。けど――
年明けての四日目、小佐野さんはひょっこり釜石に戻ってきた。ばたばたと忙しそうにあちらこちらに顔を出し――うちと会話することもなく、翌日には盛岡に戻っていってしまう。
お互いを認識できるほどの距離ですれ違ったというのに、一声もかけてこない小佐野さんにムッとした感情を持ってしまう。たった三日前の誓いをあっさりと破ってしまった……
◇◆◇
またも春がめぐる。通信制高校では若夫婦の二人を含んだ十人近くの生徒が卒業を迎えた。ほぼ同年代としてもっとも仲よくしてくれた若夫婦の二人には、とにかく感謝の言葉を贈った。いよいよ彼ら夫婦は、自分で契約した屋根の下で暮らすという。それまでは主にお嫁さん側の実家に居候することでやり繰りしてきたとか。すでに子供のいる二人のこれからが幸多かれと祈ることにした。
――うちもいつか子供を持てれば……
そのとき思い描いた子供の顔はだれに似てるか、すぐには気づかなかった。振りかえってみても、昌幸君には似ていなかったと思う。
◇◆◇
春を追いかけ夏が来た。今年も海の家に食材などを配達する仕事も増えた。去年のような不意打ちに警戒したからか、見知った背中を砂浜に見ることはなかった。けれど――
「久しぶり、五十嵐さん」
「…………小佐野さん」
アルバイト先のスーパーのバックヤードで小佐野吾郎さんから話しかけられてしまった。
「少し伝えたいことがあるんだ。休憩取れるかい?」
「……ええ」
うちに用事があると言葉ににじませるから、周りにいた店員たちが気を利かせようとジェスチャーを送ってきて。だから、うなずくしかなくて――建屋の裏の搬入口へと二人で向かった。そして
「次の春に大学を卒業したら、余所の県で就職するつもりなんだ。就職したら釜石にはしばらく戻らないつもりだ。だから五十嵐さんと……個人的に連絡先を交換したいと思って、こうして声をかけさせてもらったんだ」
突然の話だった。てっきり釜石に戻ってくると思っていた。だから軽くショックを受けたままに湧いた疑問をぶつける。
「ここのお店は継がないんですか?」
「いずれは、戻って来る。経験の少ないオーナーなんて、非力過ぎて良いカモでしかないからさ。だから経験と同時に伝手を作ろうと思うんだ。そして……遠くの地でも頑張れるように、五十嵐さんと繋がりたいと思うんだ」
いずれは戻ってくるとの言葉に安心する。でも、繋がる先はうちである必要があるのか分からなくて。それに昨年も一昨年も見かけた女性の記憶がよみがえり――
「うちよりふさわしい
言うつもりのなかった言葉で、小佐野さんへの意趣返しをしてしまう。あぜんとした小佐野さんは、一度二度とあごに右手を添えてさすり、動揺をあらわにした。その顔つきを見て、うちはやってしまったという思いでいっぱいになり、視線を斜め方向に背けてしまう。互いにしばらくそうした後、先に口を開いたのは小佐野さんで。
「……そっか、見てたのか。でも彼女はこいびとと――」
「――うちに遠慮はいらないですよ。釜石の外へ付いてくつもりもないですし、ときどきお戻りになっていただければ、うちは大丈夫です」
うちの見かけた女性と小佐野さんの関係性を説明したかったんだと思う。けど聞きたくなくて、さえぎった。時たま顔を見せてくれる程度の関係でいたいことを押しつけて。
「……そうか、そうだね。うん、時間もらってごめんよ、五十嵐さん」
しばらく呆けた後謝罪を口にして、小佐野さんは背をむけバックヤードから出ていく。肩を落とし縮こまった姿に、うちは罪悪感を覚えた。
◇◆◇
「「「先輩、卒業おめでとうございます!」」」
秋を迎え、うちは通信制高校を今日卒業した。後輩たちが人垣のアーチを作る、その中をくぐり抜け、二年間お世話になった学び舎を後にした。手を振る後輩たちに、うちも手を振りかえす。
残念ながら今日の卒業はうち一人。式の帰り道を一緒にする元生徒はいない。後輩たちから思いで作りにカラオケを提案されたけど、丁寧にお断りした。あの日のように雑踏の中に見知った背中を見つけたくなかったから。
そして見知った背中を見かけた場所を通りかかり――反対車線の歩道に目線をやるも見知った背中を見ることはなくてホッとした。けれど胸の奥のモヤモヤは消え去らない。イラつきなのかムカつきなのか――たぶん後者だ。天秤にかけられたと思えば怒りがわいてくる。
でも、その気持ちを彼にぶつけようとは思えなかった。なぜなら、昌幸君の画像プリントは未だに胸ポケットにしまったままだから。
◇◆◇
通信制高校卒業の翌月、アルバイトから正社員になった。私服にエプロン姿だったアルバイトと異なって、用意された制服を着るようになった。おかげで気持ちが引き締まる思いをひさびさに感じた。あのテニスの試合で、試合用のユニフォームを着たときと同じように。
仕事上の立場はサブオーナーさん――いいえ、サブオーナーの補佐役となった。開店から夕方までをスーパーを取りしきるのはサブオーナーの役目。その背中を見せるということは、将来を期待されているのだと思う。オーナーさんたちにはうちと小佐野さんがそういう将来を描くと思われてるように感じた。うんん、なって欲しいという期待なのかも。
小佐野さんが大学進学前、連日うちを自宅近くまで送り届けくれていたから、仲良しだと思われたままなんだと思う。でも実態はそうじゃない。小佐野さんは大学で恋人を作って――うちは過去を忘れていなくて。これがうちの見える世界。でも小佐野さんの見えてる世界は?
「初音さん、今日もハリきって働きましょう」
「――はい」
サブオーナーさんの声掛けから、今日のお仕事が始まる。まずは前半シフトの従業員を集めてのミーティングから――
◇◆◇
またまた年が明けた。勤務先のスーパーでは恒例の餅つき大会が行われている。今度は小佐野さんが顔を見せていて――運営サイドとして活躍していた。餅つきは七度行われるから、色々な役割を何度もこなす必要がある。
うちはセイロでお米を蒸したり、つき終わったお餅を丸めたり。アルバイトの時以上に身体を動かしていた。小佐野さんは、蒸したお米を運んだり餅をついたりして、若さどおりのスタミナ自慢をしていた。そして最後の餅つきになったとき――
「吾郎、最後に初音ちゃんとやってみなさい」
オーナーさんから指示が飛んだ。呆気にとられる小佐野さん。うちもまた身動きが固まっていた。
「いや、
「初音ちゃんとやれるんだ、嬉しかろう?」
難しい顔つきの小佐野さんにオーナーさんが笑って口添える。どうやら妙なお世話焼きのようで。じれったい――こんな風にオーナーさんたちに思われているようで。けど小佐野さんとは友人の真ん中なのは変わりない。
「さっ、初音さんはこっちよ」
サブオーナーさんに手を引かれ臼の前に配置された。思わず小佐野さんに視線をむければ、小佐野さんもこちらに顔を向けていた。
「おやおや、見つめあってどうしたい? 目と目で作戦会議かい?」
「…………ああ、ああ、ああ、分かったよ、やるよ、くそ親父。後で見ていろ!」
オーナーさんのからかいに、頭をかきながらうなりを上げる小佐野さん。そして出した答えはうちとの餅つき決行だった。そして一度はオーナーさんへ向けた顔をこちらに回し――
「五十嵐さん! 乗りかかった船だと思って一緒にやって欲しい!」
うちへと呼びかけた。ああ、押し切られちゃった――うちはため息を一つ吐いて、小佐野さんにうらめし気な視線を送りつつうなずいた。
「分かりました。手水を用意しますので、それまで潰しをお願いします」
小佐野さんへ背中を向けたうちの
◇◆◇
「昼間はすまなかった」
「うんん、いいの。小佐野さんとの餅つき、楽しかったよ」
餅つき大会も終わり、明日からの通常営業にそなえて、スーパーはお昼過ぎには閉められた。その後の店内では、従業員一同の新年会も催されて。冬の早い夕暮れがせまるころ、うちは小佐野さんに送られていた。これもオーナーさんが気を利かせた結果なんだけど。
小佐野さんと組んでした餅つきは、何度もこなした後だからか、それとも緊張していたからか、小佐野さんがかなりのへっぴり腰で観客の笑いを誘っていた。たぶんだけど、うちもおかしくて笑っていたと思う。そんな餅つきのことを謝ってきた、そう思いたかった。
「親父に無理に組まされちまって、五十嵐さんには……迷惑だったろ?」
淡い期待は消えた。やっぱり連絡先を伝えなかったから――友人を超えない関係を選んでしまった報いなのか。小佐野さんの他人行儀な言葉に、内心気落ちしてしまった。なんてズルい女なのだろう――自分の浅はかさにめまいがしそうで。けれど、共に一つの仕事をまっとうできたことを、素直にうれしく思う気持ちもあるから――
「……そんなことない、よ。小佐野さんと一緒するのは、いつも楽しい、よ」
気づかない本心を吐きだしていて。それに気づいたのは、立ちどまり目を丸くした小佐野さんを、振りかえり見たからで。
「……あ、これは、その――」
小佐野さんに両肩をつかまれ、言葉につまる。
「五十嵐さん、おれ、やっぱり、伝えたい。五十嵐さんと初めて会ったとき、君に恋したことを」
まさかの言葉に脳がチカチカする。同時に小佐野さんの吐きだす息をここちよくも感じて。
「けれど、親父たちから話は聞いてた。五十嵐さんは男子を苦手になるような目に遭ったって」
うちに起きた出来事――犯した罪の一部は小佐野さんにも伝わっていた。彼は知られて欲しくない人なのに――ドロリとした感情もうずまき……
「だから、五十嵐さん、君を忘れたくて……女友達を持った」
ああ、うちが小佐野さんを悩ませていたなんて、考えもしてなくて。ただ女友達だなんて、うちに気を使ってくれたことは喜ばしく。
「でも、忘れられなかったから……思い切って、五十嵐さんの連絡先を聞いたんだ。だけど君には振られてしまった。それで、理由をつけて、県外で就職することにしたんだ」
遠ざけてしまったのは、うちのせいなんだ。小佐野さんに決心させてしまった後悔に、涙が筋を作る。
「もう、止められないんだ。五十嵐さんを好ましく――いいや、はっきり言うよ――五十嵐さんのことが好きだ」
うちのこと好きだといったくれた二人目の
「小佐野さん。女友達の人はいいの?」
小佐野さんは一度目を閉じて、おもむろに答えを紡いだ。
「……彼女は、あくまで友達だ。事情があってそれっぽいことはした。けれど誓っていう、彼女は恋人じゃない。それに年が明ける前、彼女のふるさとでお別れは済ませたよ」
真摯なまなざしを受けてチクリと胸が痛む。それは胸ポケットのある辺りからで。自分でも分からないままに、はっと息をのむ。そして小佐野さんの熱に浮かされ始めた、うちの気持ちが冷えだして。
「今日は、ごめんなさい!」
小佐野さんにつかまれていた両肩をいきおいで外して、送ってもらうハズだったバス停へと急ぐ。小佐野さんはその場にたたずみ――
「五十嵐さん、おれ、諦めないから!――五十嵐さんも……」
最後は聞きとれなかったけど、あきらめないと言ってくれたことはとってもうれしくて。でも振りかえってはいけない――かぶりを振りながら、日の暮れた夜道を進んだ。
そして翌朝の出勤のとき、うちは精魂尽きたフインキでスーパーまでやってきていた。小佐野さんと顔をあわせたら、どうしよう?――定まらない覚悟だったことで、不安しかなかった。けれど小佐野さんは朝早く盛岡へ戻ったそうで。気がぬけてヘナヘナとへたり込み、話し聞かせてくれたサブオーナーに心配をかけた。後でこの話には尾ひれがついて――小佐野さんに会えなかったうちが、失意でへたり込んだことになっていた。
◇◆◇
春目前の三月、一日だけ小佐野さんが釜石に戻ってきた。盛岡のアパートから荷物は直接新天地の福島県へ送られている。それでも足りないものがあるとかで、取りに戻ったわけで。けど、うちはちょうど外回りの仕事中で顔をあわせることもなく。
――五年は修行に集中するから。
外回りから戻った頃には伝言を残して去ってしまっていた。ただ伝言を聞いた周囲の人々が思いこみを加速させるだろう、そんな言葉にうちは頭痛が痛かった。
◇◆◇
若葉の生える五月、うちは自動車の免許を取った。苦節三年……それは言いすぎだけど、二月ごろから仕事帰りに自動車学校により道して受講していた。正社員たるもの貨物自動車の一つも運転できなければ役立たず――サブオーナーのげきを受け、運転免許の獲得にはげんだおかげ、なのかな?
それはともかく、外回りの仕事では意外に荷物が多いから、
ついでにと、社用車の一台をうち専用と預けられた。これで一人前の正社員になれたかなとはしゃいだことで、後で後悔することに。サブオーナーの仕事の半分が、うちの仕事になってしまったわけで……
◇◆◇
仕事の責任が増えたからなのか、足早に季節が過ぎていく。日々、物思い一つもしてるヒマがない。特に秋を迎えて一人暮らしもはじめた。仕事を終えての帰宅時間が遅くなったのが大きな理由。両親そろって構わないと言ってくれるけど、いつまでも迷惑はかけられない。
――弟も大きくなったからね。それに……ませてきたし。
隣の部屋に年の離れた姉貴がいては、思春期を迎える弟も静まらないだろうし。何より彼女ができたみたいなんだよね……小学生のくせに。どんな彼女か教えてくれないけれど。
そんなこんなで、スーパーを真ん中にして実家と正反対の場所で新しい住処を見つけた。なかなかに築年数のある安アパートで、震災の時に少しだけ海水に浸かったらしい……どうせモノが少なくて殺風景な室内にしかならないのだからと思いきった。女子らしいのは化粧道具に、子供のころから持っているぬいぐるみくらいなもんだ。
引っ越しにはオーナーさんが軽トラックで運搬を協力してくれて、とてもありがたかった。お返しにと菓子折りを両親と一緒に持っていったら――出世払いでいい、いや期待してる――そう宣われてしまった。その後両親から真相を詰められたときは胃がキリキリした。正社員としての将来の話で押しきった……ひどく疲れた。
◇◆◇
年も明けて暖かくなったころ、
出演メンバーは、うちが逮捕拘留されたときに仙台駅前でビラ配りをしてくれた女子たちと――うちとなった。
「「「せ~のっ、
「「「目指せナンバーワン! 日本から応援してるよ~~!!」」」
動画の撮影は釜石で行われた。おかげでホテルやらレストランやら撮影場所のビーチやら、いろいろと予約や使用許可を得るためにうちが奔走させられた。でも忙しくても充実した日々として記憶に残った。
その長谷山さんから、出場大会が終わったあとにお礼のメッセージが届いた。それは大会会場で出会えたあこがれのテニスプレイヤーたちとのツーショット写真が数枚で。ビデオレターに出演したメンバーのメッセージグループでは、長谷山さんとある色男の写真で話題が持ちきりとなった。
◇◆◇
さらに時が過ぎて、また年も明けて。仕事をしているだけで季節がすぐに移ろっていく。それでもゴールデンウィークが近づいたころに特大イベントが発生した。
水琴さんから直接会いたいと連絡が来たんだ。対面はあの釈放の日以来。どんな用かは会ったときに話すという。お世話になったのだし、応じるしかない。そして約束の日がやってきて――
「マー君が結婚しちゃった~~」
大粒の涙を見せながら、待ちあわせのカフェ店の前で水琴さんが車を降りてきた。まさか水琴さんを介助する日がこようとは。それはそれとして、聞き捨てられない言葉が――うちの胸もチクリと痛んだ。
「ええっ! どういうことです?」
叫びかえすと、水琴さんが一枚の写真を見せてきた。そこに写っていたのは、白のタキシードの男性と白のウェディングドレスの女性の一組。男性は……昌幸君と同じ特徴が見てとれる。間違いなく昌幸君だと思う。でも、この女性は――だれ?
「こちらの女性は?」
「結婚相手よ~~」
それは見て分かりますよ――内心のつっこみを抑えこんで、もう一度聞いてみる。
「ええっと、こちらの女性のお名前は?」
「花織っていうのよ~~」
名前からはじまり、ドレスの女性のプロフィールを根気よく水琴さんから引き出していく。一通り話しおえる頃には水琴さんも落ちつきを取りもどして。
「それは……とんだ伏兵がいたものですね」
「ほんとにね。わたしも同じ大学へ通えていればと思うと……」
なにやら遠くを見ている水琴さんだけど、昌幸君の学業成績が良すぎてついていけなかったと聞いたハズ。通信制高校の学習内容をうちにかみ砕いて教えてくれたのだから、水琴さんの地頭は良いと思うのだけど。
――そっか。もう、チャンスは、ない、か――
一方で、うちの心残りに区切りついた気がした。そのせいか、うちも涙があふれそうになった。
「初音さん。あなたも泣いて良いのですよ」
水琴さんの声掛けに、目の中の水道は故障した。一筋ほほを伝えば、すぐに筋は太くなり、止めどなくなった。ひとしきり泣きおえた後には、付きあっていたころの昌幸君への愚痴を水琴さんと語りあったり。また、大学を卒業してまだ一年の昌幸君が結婚に踏みきった理由を教えてもらったり。この日の会合は、水琴さんが仙台に帰る時間にお開きになった。
……ところで水琴さん? あなた、入籍してましたよね? しかも出産もしてましたよね? 旦那さんやお子さんを、放置してまで釜石に来て良かったの?
◇◆◇
水琴さんと直接会っておよそ一月。うちは一つの問題を内面に抱えていた。
――昌幸君の写真、どうしよう??
ときどき一種の願掛けにしていた昌幸君の画像をプリントアウトした紙、スマホに残るたくさんの写真――捨てようか捨てまいか、うちは心を決めかねていた。
『えっ、初音さんに向けて微笑んだ昌幸君なのでしょ? どうするかは、初音さんが自身で考えて決めるべきことよ』
水琴さんにも相談したものの力にはなってもらえなかった。確かに言われた通りだと思うから、うちが考えて決めなければと意気込んでみたものの……
――しばらく今までどおりで……
先送りを選ぶのが精いっぱいだった。
◇◆◇
うちも再び恋をしても良いのかな?――昌幸君が結婚したことを知った日を境に、少しだけ思う日もあるようになった。でもスーパー勤務が中心の日常をおくるだけでは、昌幸君との出会いを超える印象的なことが起きるわけもなく。もちろん、小佐野さんに助けられたようなことも起きない。
ただ仕事中に粉をかけてくる男性は、取引先の若手を中心にふえた。ときにはロマンスグレーな地元企業の役員さんもいて、驚くのだけど……
気を惹く何かをしたっけ?――少しだけ考えごとをしていると、サブオーナーから声をかけられた。
「初音さん、化粧を替えました?」
「いいえ。メーカーも商品も替えてませんけど?」
「そう? けれど、以前より明るい塗りかしらね? 少し前と比べても地味には見えないわ」
仕事向けの化粧で手を抜いた覚えはないのだけど――化粧室によったときに鏡を見た記憶では特に変わったところはなかったように思う。それでも違うと言われるのなら……少しでも前向きになれたんだろうか。あまり実感はないけれど。
「ピンっと来てないみたいだけど。いいわ、業務命令よ。その化粧を続けてちょうだい」
ええっと驚いてる間に、言い捨ててサブオーナーはこの場を立ち去ってしまった。サブオーナーの意図はよくわからない。でも続けるということは、今の化粧の顔をだれかに見られ続けるということで。そのだれかとは……
見知った背中の
◇◆◇
男性から食事に誘われることもしばらくはあったけど、塩気味に応対していた。そのせいか、いつしか誘われることはとても少なくなった。そして――年が明ける。
春、四月を迎えた数日後、女の子が産声を上げた。そのことは水琴さんからのメッセージで聞いたハズだけど……
「いや~~ん! 幸花ちゃん、かわいいわ~~あ」
スマホに映した画像を片手に、うちの肩にもう片方の手を回す水琴さん。たしかにかわいい赤ちゃんが写っている。でも……かすかにお酒の匂いが漂ってくるんですけど?
「せめて、事前に来訪の連絡をください」
「いいじゃありません? これほどめでたい事はありませんことよ?」
水琴さんはとっくに出来上がっていた。昌幸君に子供ができたことは、素直におめでとうと伝えたい。でもね、その気持ちは一人でかみしめたい……産んだのがうちでないことを、うち一人で悔やみたかった。こんなうちに遠慮もなく、水琴さんはスライドさせた画像を見て一枚一枚で喜んでいた。
「将来はわたしの
「……いくらなんでも、気が早すぎません?」
みおくんは水琴さんの一人息子のこと。三歳になっていたくらいだったかな。
「そんな事はないわ~。幼いころからすぐ近くに居れば、きっと結ばれてくれるわ」
「……水琴さんは――その――うまくいかなかったのでは?」
――ゴトン!!
水琴さんがスマホを落として、たそがれた顔になって。しまった!――地雷をふみぬいたことに気がついたけど、遅かった。その後、涙とお酒の止まらない水琴さんをなだめることで、貴重な休日が終わった……悔やむための一人だけの休日予定も同時に吹き飛んでいった。
――ところで水琴さん? 今回も旦那さんと息子さん、仙台に置いてきて良かったんです?
◇◆◇
秋も深まるころ、水琴さんが再び釜石を訪れた。今度はピシっとスーツを決めて、ビジネスライクといった風情を見せていた。来訪の理由はオーナーさんとの商談にあるのだけど、なぜかうちも同席させられた。
その商売にかかわる話がすんだ後、水琴さんからうちとの旧交を温めたいと食事に誘われ――それならばと、気を利かせてしまったオーナーさんに今日の仕事を切りあげられた。そして――うちの安アパートへと二人で向かった。その前にうちの勤め先で鍋の材料を大量に車へ詰めこんで。
部屋の片すみの流しで二人ならんでモクモクと食材を切り、先に切りおえた水琴さんが土鍋に火にかけ――うまみの出る食材を入れて、だしを引いていく。うちは串を取りだして、残る食材を串に通していく。作っていたのは、おでん風の鍋で。
クツクツ煮こんでいる間に、レタスや刺し身用の魚の切り身をドレッシングであえてサラダを作ったり――それぞれが食べたい副菜を用意した。そして土鍋を食卓に移すころには、すっかり日が落ちていた。
「「カンパイ!」」
何はなくともまずは祝杯……そんな間柄だったかな?
「ハァー、生き返るぅー」
「まぁ、ビールはいつものようにおいしいですね」
それぞれが鍋から串を引きあげる。うちはちくわで、水琴さんはウィンナーで。
「アチ、アチ。ハフハフ……美味しいわ」
「フーフー……アチ……そうですね、良く煮えてます」
しばらく意味のない声をかけあいながら、鍋も副菜も食べ進める。それも鍋の中身があと少しになるまでで。そろそろ締めのうどんを入れようかという状況でも、昌幸君のことを水琴さんは切りだしてこない。だから――今日に限ってはうちから切りだしてみた。
「それで昌幸君に何かあったんです?」
「…………」
こうして水琴さんが釜石に来るときは、決まって昌幸君に何かが起きたときだけ。結婚に子供の誕生に、今日までは吉事のときに水琴さんは釜石を訪れていた。でも水琴さんの醸しだす雰囲気は、これまでと真逆に思えて。ゆっくりと水琴さんの言葉を待つこと少し――
「簡単に言えばね――マー君のお嫁さんが浮気して、それを知ったマー君はお嫁さんと話し合って彼女を許した――そんな出来事があったの」
ただ絶句するしかなかった。去年結婚して今年の春に子供が生まれて、順風そうとしか思えなかった昌幸君一家の生活。まさか昌幸君が最愛のパートナーから裏切りにあうなんて――裏切りの言葉が脳裏にひらめいたとき、うちの胸がチクリと痛んだ。
水琴さんの説明は続く。曰く、浮気は本意でなく脅迫のためだったこと。曰く、浮気を続けたのは家族を守るためだったこと。曰く、彼女を狙う男性がもう一人いたこと。曰く、彼女を狙った男たちは連携していたこと。曰く、隠しごとに疲れ果てて心が堕ちかけていたこと。
「――とはいえ、マー君に相談もせずに言いなりになったことは、花織さん自身の選択です。この点では同情できません!」
それまで感情が抜け落ちたように話していた水琴さんだったけど、花織さんに対して怒りのポイントはあったようで。語気を強めて狭いテーブルを叩くから、鍋やらコンロやら取り皿やら飲み物の入ったコップやらがガチャンと音をたてる。
「わわっ! 水琴さん、気を付けてくださいよぅ」
「ごめん、ごめん」
慌てるうちに、水琴さんはニヘラと笑顔を返して。ムカッとしてつい言いかえしてしまう。
「昌幸君はそれも含めてノみこんで、花織さんを選択したのでしょ?」
うちの言葉に、水琴さんは一転してズーンと落ちこんだ。そして盛大にため息を吐いて――
「別れさせられると、思ったんですけどねぇ。花織さんとの話し合いの後、マー君から憑き物が落ちた感じになってましてねぇ。逆に完っ全に尻に敷かれた雰囲気を漂わせてましたからねぇ。あーなったのは、どうしてなのやら……」
尻にしかれる昌幸君……何となくでも、うちにだって想像もできない。うちと交際していたときも、デートの行先とかご飯選びとかは、昌幸君の意見にうちが良否を返す感じで。それぐらい昌幸君は自分からエスコートするタイプだった。水琴さんの言葉に自問自答するうち、ある言葉が浮かびでてつぶやいた。
「……のう、はかい?」
「――それです!」
うちを指さす水琴さん。ドヤっとした表情にうっとうしさを感じて、ジト目で突っこみかえす。
「水琴さん。意味、解ってます?」
ネットスラングと言われる現代造語の一つで、精神的に強いショックを受けたときの驚愕から人格に変化をもたらす事象を表すという。特に恋人や夫婦のカップリングで片方が浮気していたことを知ったもう片方がショックのあまり寝込むなどの状態に陥ることに使われる。娯楽にお金をかけないうちの楽しみの一つがウェブ漫画なのだけど……好んでは読んでないよ、そんな作品は……
「こう見えてネットトレンドは押さえてるつもりですよ。マー君の様変わりは、脳破壊がしっくり来ます!!」
胸をはり自信ありげに、そのときの昌幸君の様子を語る。浮気現場を押さえることに協力したと聞くし、花織さんを除けば一番に変化を感じとれるポジションだったんだろう。昌幸君への想いはほぼないと感じてるけど、水琴さんが少しうらやましく思えた。
「花織さんの浮気を知ったとき、昌幸君はとってもうろたえた――何てことがあったんですか?」
「動揺はしてましたけど、違うと思います。花織さんの浮気現場を押さえた後の、直接の話し合いの前と後で在り様が変わっていたと感じました。たしか花織さん、初めは自ら身を引く覚悟だったようです」
昌幸君の変化はつまるところ花織さんがもたらしたということ。たぶん花織さんから別れを切りだしたんだろう。それだけ花織さんという存在は昌幸君にとって大きいから、変わらないといけなかったのだと思えた。同じ男子を好きになった身として、花織さんには敵わないと感じた。
「まさかですけど、振られたことが一番のショックだったとか?」
「かもしれません。わたしが惹かれるほどに、自信を持ってる男子でしたから。動揺していた前提ででしょうが、ポキリと折れたのかもしれませんね」
昌幸君の変化をひとしきり話したところで、しばらく沈黙の幕が下りる。うちたちの考察があってるかは分からない。けれど昌幸君と花織さんの間の隙間は、砕けて粉々になったことできっと埋めきられたんだと思えた。
「それじゃあ、うまく仲直りできたんですかね?」
「どうでしょう? 二人は関係の再構築をもう始めてます。ですが、半年ほどは子作りに至る行為は控えると聞きました。再び始めるときに、上手くいってるか判明するものと思います」
んん?――水琴さんの返答は少しズレたものに思えた。後になって、今回の選択を昌幸君や花織さんが後悔することもあるだろう。けど今の状態をはぐらかす意味はないハズ………未だ水琴さんは、昌幸君との復縁を望んでいる?……まさかと思い、これ以上深追いしないようにと話題を変えた。
「ところで、今日の商談はお店の警備についてでしたけど、うちのお店は交通整理するほどじゃないですよ?」
復興も進んで、うちが釜石に来たときより、コンビニを含めた買い物できるお店はふえている。どちらかといえば、うちの店は規模の小さいお店のほうへ追いやられている立ち位置なんだけど。
「初音さん、もしかして必要性を理解していませんでしたの?」
「へっ?」
「今回のマー君と花織さんの一件も、あの羽田野――なんですよ?」
羽田野――久しぶりに聞いて身震いが出た。うちを襲った男子の一人で、あの場を仕切ってみせた男子。思いだすだけで冷汗が背中をつたう。
「その表情で分かりました。やはり理解してなかったのですね」
「も、申しわけ……ございません?」
「はぁ……仕方ありません、もう一度教えて差し上げます」
水琴さん曰く、羽田野兄弟の結束は緩いものの、身動きできなくなった三番子に代わって報復に動く兄弟が出かねないこと。曰く、中でも五番子の行方が羽田野家でもつかめていないこと。曰く、昌幸君の関係者は、とっくに羽田野家で調べあげられていること。
ちなみに何番子という言い方は、兄弟の産まれ順によるものだと水琴さんは言う。何でも愛人がたくさんいて子供は多いという。ただ男子には恵まれない時期があったらしく、愛人を複数作ったのだとか。複数の女性から生まれた男子の順序づけのためにそう呼んでいると、四番子の男子から水琴さんは教えられたらしい。なお女子は数えに入らないとのこと。
「じゃじゃあ、報復の相手に、うちも考えられるってこと?」
「そうです。中でも失踪中の五番子は面白ければそれで良いという性格で、半グレと呼ばれる青年たちを統率しているとの噂もあります。本人ではなくとも、部下あるいは下部組織に働きかけて犯行におよぶ可能性があります」
アルコールが弱めのお酒を飲んでいたうちも、酔いが深まりかけていた。けど、こんな話を聞かされてシラフに戻されないわけがない。たぶん絶望をあらわすような表情を浮かべていただろう。こんなうちを目にしたからか、少し間をおいて水琴さんが破顔した。
「あくまで可能性、ですよ。初音さんの事件の折に、羽田野家とは相互不可侵で手打ちが済んでますから。ただその禁を破った阿呆が居た――今回はそれだけなのです。羽田野家としては手間暇コストをかけてまで、報復は考えていない――四番子の彼が釈明しています。例え五番子が企てようと、かえって彼を探している羽田野家には好都合になるだけ――だから五番子も軽々には動かないでしょう。つまり念のため、なんですよ」
いたずらが成功したなんて顔の水琴さんが急に憎らしくなってきた。でも理由の重さがどうであれ、警備を強化することは必要なんだろう。もやもやし始めた内心を落ちつけるためにも、水琴さんにやりかえすことにした。
「まぁ、分かりました。小さな可能性といえど、報復でお店に被害があってからでは遅いですから、納得はしておきます。ところで――今日もここにお泊りらしいですけど、旦那さんやみおくんは放っておいていいんです?」
表情は努めて平静をよそおって理解を示し、返す刀でジト目に変えて水琴さんの行状を正してみた。その結果――
「ああ、旦那は放置で大丈夫ですの。ずーっと、ずーっとベーリング海に出張したままになりましたから。澪は……お手伝いさんに預けてきたので大人しくしている、ハズです……チッ!!」
乾いた笑みで旦那さんについて答え、続けて鬼の形相でみおくんの様子を語り……盛大に舌打ちした。特に気になったのはみおくんのこと。こはなちゃんが生まれたときは、こんなモノ言いはなかったのに。これってどういうこと?――ちょっと考えただけでは言葉と表情が違う理由に思いあたらなかった。少なくとも、水琴さんがおもしろくないことがあったことだけは確かなようで。
この後、酔いの回った水琴さんがうっかりつぶやいた不満を聞いて、うちも納得してしまった。幼児でも男の子、大きな胸の大好きなみおくん恐るべし……と。
◇◆◇
また一つ年が変わり。スーパーを守る警備の人たちとの交流が深まり、契約当初の緊張感も従業員たちからよい具合に抜けていた。そんな中、とある計画が勤め先に持ちあがった。それは――新店舗の出店。釜石市内ではあるけれど、北の隣町にほど近い地区に店を出すと朝礼で聞いた。そして――
「初音ちゃんには、ここの店長――その表情では、まだ荷が重いかな?――では副店長を任せようと思います。しっかり頼みますよ」
正社員は他にもいるでしょう?――うちはやる気に満ちない表情をオーナーさんに向けた。それは予想通りだったのか、役職は一つ下げられた。けど予定調和といった空気を感じる。うちとしては急な話に、なんとなく納得がいかないのだけど。
「それで、現店長と副店長には新店舗に異動してもらいます。役職はそのままです。ただ新店舗のオープンは二年先です。用地交渉が先日まとまったばかりで、店舗の建物はこれからになります。ですから、当面は本店と新店長たちのサポートや、新店舗の従業員の教育、その他の新店舗にまつわる業務に従事していただきます」
気持ちが付いていかない不安定さに目先の不安を感じてしまい、暗い気持ちに。そんなうちの背中をポンと叩いたのは――
「初音さん、朝礼は終わってますよ。早速お仕事に取りかかってちょうだい」
サブオーナーがいつもと変わらない表情で、うちの背後にいた。たぶんボーっとしていたように見えたんだろう。その注意だと思ったんだけど――
「ああ、そう。あなたへの副店長教育はもう済んでいます。仕事内容は特に変わりませんから、今まで通り励んてください」
今度こそ、うちの目は点になったと思う。今まで受けた社員教育はシフトリーダー候補だと思っていたけど、まさかの真相におののくだけで。そんなうちの教育係なサブオーナーの背中は、仕事をやりとげたと満足げだった。
◇◆◇
年明けの餅つき大会は副店長として最初の大仕事になった。企画立案から金策や人員シフト管理に食材什器の取りそろえ、何より水琴さん家の警備会社との交渉もうちの仕事で。仕事上がりの優雅?な時間は吹きとんだ。帰宅しても取引先から急ぎの電話を受けとることも増えて。それでも盛況のうちに催事が終了して、ホッと一息つくと同時に自信のようなものが芽生えた気がした。
その後しばらくしての春待ちの季節、うれしい報せが舞いこんだ。長谷山さんが海外ツアーで待望の初優勝を成しとげたと。長谷山さん応援グループになっていたメッセージグループはお祝いムード一色に。そして長谷山さんから送られた感謝のビデオレターがグループに掲載されると、黄色いメッセージであふれかえった。長谷山さんの結婚報告だったから。
長谷山さんの結婚相手は、なんと同じ高校の同学年だった男子で。彼も男子テニス部に所属していたらしいのだけど、パッとした成績は残せなかったそうで……うちも同じ学校だけど、まったく記憶にない。
だからなのか、栄養士の資格などを取り、プレイヤーのサポート側にまわった。そしてある時、長谷山さん側で海外帯同できる栄養士兼調理師を募集したところに応募してきた、そんな縁だという。
これまでに、長谷山さんの海外ツアー挑戦の一年の区切りになる時期、毎回ビデオレターを送りあうようになっていた。けど今回は特に盛大なビデオを作ろう――そんな話になったから、若葉がしげるころ釜石にグループメンバーが集まった。今はレストランを貸し切ってその個室を使っての撮影と、出番待ちのみんなの待機と食事を兼ねた広間で立食パーティが行われている。それに――
「ママ、おしっこ~~」
参加メンバーはそれぞれに子供を連れて来ていた。今度の動画では子供を持つ良さをアピールする内容だそうで。つまるところ、長谷山さんにも早くこちら側に来てほしいかららしい。こんな参加メンバーの中、未婚者はうちを入れても三人だけ。その肩身の狭さと言ったらなかったのだけど……
「えっと、恥ずかしいのだけど」
「いやいや~、いがらっち、似合い過ぎ」
未婚者たちはみんなウェディングドレスを着せられていた。これはとある作戦だったらしく、長年交際を続けていた男性を連れてきていた子がプロポーズされる一場面も。それがうらやましくも感じてしまって、この気持ちを見破ったメンバーにからかわれもした。
「どう? いがらっちも子供が欲しくなってきた?」
「あはは。そうだね、いずれは――そう思ってるよ」
一部のメンバーからうちのお相手候補を探られたけど、その気はまだないから乾いた笑みでごまかすのが精いっぱいだった。ただ子供が欲しくないかと問われたとき、うちと二人で子供と手をつなぎ歩く男性像を思い浮かべていたとは言えなかった。
◇◆◇
ところで小佐野さんはまだ釜石に戻ってきていない。うちを縛りつけるような言葉を残して行ったにかかわらず、何の音さたもなかった。そして秋になり一通の手紙が届いた。ほぼほぼ音信不通だった小佐野さんからだった。
――すまない。
――入院した同期の代わりをお願いされてしまって、釜石に戻るに戻れない。
――だけど次の年明けには同期も職場復帰できそうだ。
――それからになるけど、何とか来春には戻れると思う。
――待たせてすまない。
だれに何を謝ってるんだろう。うちは待ってなど――いないハズ。けど今もここ釜石に居るままで、どこにも行こうとしていない。そのことに気がついて、自分のことながら驚きだった。
昌幸君が結婚したから、長谷山さんも結婚したから、うちも相手が欲しくなっているのかもしれない。でも……恋はしない、そう決めていたハズ。だから忘れよう、この気持ちを忘れよう。
小佐野さんの手紙は――――押しいれの一番奥に封印した。
◇◆◇
新店舗の工事は順調に進み、年内に引き渡しまで終了した。店内には什器もそろえられ、賞味期限の長い商品はすでに陳列ケースに納められている。後は従業員たちの習熟具合の確認と、デイリー品などを積みこんだトラックからの荷受け品の受取り・仕分け・陳列や受発注管理システムの稼働具合の確認となった。
年が明けて、うちが副店長を勤める本店では恒例の餅つき大会が行われた。例年のプログラムに加えて新店舗が宣伝された。特にプレオープンの広告チラシには特価品や割引クーポンを載せたからか、あっという間にはけてしまった。新店舗へのお客さんたちの注目度は高く思えた。
また少し日々が過ぎて旧正月のころ、新店舗の開店準備もろもろの総仕上げ――プレオープンの日を迎えた。一日副店長としてうちも現地入りしている。おもにミスした従業員のフォロー役といったところで。今も銘菓品の陳列を手伝っていたら、すぐそばのレジでトラブルが起きていた。
――全部チャージするとは言ってない!
――もっ、もっ、申しわけございません。
どうやら入金金額をレジ担当が間違えたらしく、怒りを募らせるお客さまにレジ担当が頭を下げ恐縮していた。おかげでレジの流れが悪くなり、レジ待ち行列が伸びていた。サッと辺りを見渡しても新店舗の店長や副店長が見当たらない。気合を入れようと小さく深呼吸して、うちは問題のレジへと向かった。
「お客さま。何か問題がおありですか?」
やつぎ早やにレジ担当に暴言を投げる客に声をかけた。客は暴言を止めて、うろんな目つきでこちらに顔を向ける。話の通じる役職がきたと思ったのか、おもむろにクレーム内容を語りだし――
「この女がチャージ金額を間違えやがったんだ。この後で現金が必要なのに、どうしてくれんだ!!!」
――さらにヒートアップした。なかなかに辛らつなタイプが来たもんだね――暴言という風にさらされ、内心ではムッとしてしまう。けど努めて冷静に振るまうことを心がけて、予定のチャージ金額などの聞きとりを続けた。
「チャージのご依頼額と、レジにお出しになられた金額を教えていただけますか?」
「一万円札を出して、千円だけの予定だった!!!」
ボルテージは上がっても素直を教えてくれたことは感謝したい。ごねる客はこの時点からごねるから。客の言葉の真偽を確認するように、レジ担当に視線を一旦向け、そしてレジの表示画面へと視線を変えていく。レジ担当は合っているとうなずいて。レジの表示を見ても支払い請求額やチャージ金額に紙幣投入金額などをザっとながめる。客の言い分のつじつまは合っているようだと確かめた。なら和解にむけての提案は――
「ではお客様。こちらの商品券を九千円分、チャージ残高からお買い上げいただきまして――」
「これ以上、こっちに損をさせようってのか!!!!!!」
「――お話には続きがございます。まずはお聞きいただけますか?」
「――――」
「お買い上げいただいた商品券を、すぐに当方で買取りさせていただきまして、現金にてお返しさせていただきます」
「…………それで現金が戻ってくるんだな? 信じていいんだな?」
「間違いなく、現金がお手元に戻ります」
「……分かった。それで進めてくれ…………こちらも激高して悪かった」
「いいえ、当方にミスがあり、お手数をおけしまして申しわけございませんでした。サービスカウンターでお手続きいたしますので、ご案内いたします」
説明の途中で天元を突破しかけた客も、おつりが手元に戻ると判り落ちつきを取りもどしてくれた。言葉に詰まってくれた分、こちらの話を聞いて理解できる間ができたんだと思う。説得が長引く人は言葉がとまらず喚きまくるから。
「あ、あのっ。あっ、ありがとうございました」
客に付きそって移動を始めたうちに、レジ担当の若い子の声が届いた。案内を始めてしまったから、少しの間だけ彼女に振りかえり笑顔と目立たぬピースサインを送った。それを見たレジ担当は何度かうちへ向けて頭を下げていた。
そして、やっかいな客の対応を終えたサービスカウンターにはサブオーナーが姿を見せた。
「まずまずの対応でしたね、五十嵐さん」
「サブオーナー?」
「あなたへの教育の仕上がり具合を確認できたのは行幸でした。いずれは本店を任せても大丈夫そうね」
見てたんなら助けてください――言おうとしたけど、すぐに背中を見せてサブオーナーは去って行った。サブオーナーの教育はずっとハードだ。それに本店を任せるって――それ副店長の役目を超えてますよね、そうですよね。内心の叫びは声にならなかった。
◇◆◇
年度が替わるギリギリの三月三十一日、小佐野さんが帰ってきた。ただ日付も間もなく変わる頃のご帰宅だったらしく、うちが顔を見たのは翌日四月一日だった。
当然だけど小佐野さんは、うちの勤め先に入社した。その待遇は本店の店長補佐。将来の跡取りとして期待されていることは、従業員のだれにでも感じとれる雰囲気を出していた。そのプレッシャーのためなんだろうか、とても緊張した面持ちで役員会議や従業員とのミーティングで紹介されていた。
挨拶が終わればオーナーに連れられ店を出ていった。どうやら他の店舗へも挨拶に行くようで。他と言っても北の新店舗と、今年度からうちの勤め先へ譲渡された南の店舗だけだけど。ただどちらも、そこそこ移動時間がかかるので、今日のうちに会話する時間はないかもしれない。そう思って気を抜いていたら――
「初音さん、吾郎の帯同をよろしく」
サブオーナーから出動指示が出た。つまり、うちの運転する車で小佐野さんを連れまわせと。急なことに言葉を詰まらせていると――
「オーナーは既に北店へ出発しています。到着を三十分ほど遅らせなさい。その間に北店で顔合わせの準備をしますので。それと私は南店へ向かい、準備を済ませておきます。運転はくれぐれも気を付けて」
指示を置いてサブオーナーはさっそうとこの場を後にする。呆然とするうちの背中を現店長が押す。社用車のところへさっさと行け――そんな言葉が従業員みんなから聞こえた気がした。
◇◆◇
本店から北店への道すがらも、北店から南店への道すがらも、休憩で停めたコンビニでも、事務的な伝達以外に小佐野さんとの会話がない……うんん、うちから言葉が出てこない。小佐野さんからは休憩ポイントの提案をされたりしてるのに。
北店、南店での小佐野さんの挨拶はつつがなく終わった。帯同するうちもそれなりに紹介されている。おかげで北店も南店も本店と同じく、将来のオーナーとそのパートナーの二人だと従業員たちは思ったと感じた。けど小佐野さんとはずっと友人のまま。関係を進めるにも終わらせるにも、うちが先延ばしたからだ。
もう昌幸君――佐々木くんのことは気持ちの整理がついたと思う、
だからといって、小佐野さんにとびつくのもどうかと思う。外堀はたくさんうめられたのは理解してる。でも肝心な想いがぼやけたままだ。うちは小佐野さんへの好意を恋人のそれにしたいのか?――うちは吾郎さんと名前で呼びたいのか?――分からない。
内心で自問自答している間に、本店への帰り道となった。運転は小佐野さんがしてくれている。車窓をながめるようにして、小佐野さんを極力見ない様にしていた。走りだして少しして……
「寄りたいところがあるんだ。いいだろうか?」
「……お時間は大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。おフク――サブオーナーからオーケーは貰ってる」
「……でしたら、反対はしません」
そうして連れてこられたのは愛の浜と呼ばれる小さな入り江の海岸公園。ここに来るまでに本店は通りすぎている。こんな場所に来るということは、小佐野さんから重重い意味の言葉がたぶん。そう思うだけで、うちの鼓動は激しさを増す。けど同時に頭は冷えていく。今度も断らなければならないと。
「長いこと連絡がほとんどなくて、ごめん」
「そんなこと、ないです。お仕事が忙しかったんでしょう?」
車を降りて二人で海の見える場所に並んで立ち――すぐさま小佐野さんから話をきりだしてきた。
「確かに忙しかった。でも言い訳にはできないよ。連絡は入れられなかったんだ、すぐにでも会いに釜石へ戻りたくなるから。でもやっぱり、五十嵐さんの顔を見たら、どうしても伝えなければ気が済まなくなった……」
うちのどうしようもなく愚かな決意に、小佐野さんを見れなくて視線が下がっていく。
「五十嵐さん……」
「……はい……」
お互いに言葉が少なくなり、ただただ心臓の脈打つ音と波の音だけが周囲をうめているように思えた。
「……おれと結婚してください!」
――えっ?
予想を超えたプロポーズに思わず顔を上げる。右手を差しだして、うちをじっと見つめる小佐野さんを目にした。
「……その……しばらく……考えさせて……ください」
保留の言葉だった。顔が熱を持ち脳がゆだっている感じがする。たぶん赤みをました表情を小佐野さんに見られてると思う。小佐野さんはどう思っただろう。
「……そっか。うん、急だったね、ごめ――」
「いえ、そんなことは……」
やっぱり時期が早いと思ったのか、急なプロポーズを謝ってきた。けど、うちは謝罪を止めていた。そのことにまた自分で驚いて言葉を出しきらず止める。ずっと意識からそらしてきた感情が表に出ようとしている――そのことに自分で怖くなり、だまり込んだ。
小佐野さんも驚きの表情でいた。ただ可能性という糸をつかめたという希望に喜色がまじった表情も見え隠れしていた。
「……うん。待つよ。だから必ず返事はください」
「……分かりました」
「じゃあ、もう一つ話したいことがあったんだけど、大丈夫?」
返事は必ずすると返事して、小佐野さんはほっとした顔になった。その小佐野さんから、用件はもう一つあると言われ、小さくうなずいて聞く姿勢を作った。
「これはおれたちのような仕事の人間だから早めにお願いするんだけど、十月にある場所へ一緒に行ってほしい」
そう言って教えられた行き先の地名は良くわかなかった。理解できたのは八幡平という奥羽山脈の高原にほど近いということだけ。
「何をしに、行くんです?」
「……ごめん、今は内緒にさせて貰えるかな。デリケートなことがあるからさ」
目的を問えば話がよどんで。どう繊細な理由があるんだろう?
「ただ、これだけは五十嵐さんに伝えたい。以前、僕に掛けた疑い、晴らせるとは言わない。でも、あの頃何があったかは理解してもらえると思う。それがさっきの話にも、つながるだろうから」
さっきと言えばプロポーズ。だとすれば、小佐野さんの女性関係にまつわる……ああ、小佐野さんが大学生だったときの女友達のことか。そう思ったときに、どうして今ごろなんだろうと、疑問になったけれど同行することは了承した。もし会えるなら、彼女には一言伝えたいことがあったから――うちにお構いなく先へ進んでと。
「尋ね先の都合もあるから、細かい日付はおいおい決める。しばらく待っていて欲しい。それで決まったら伝えるので、五十嵐さんには同じく休みをとって欲しい」
うなずきを返すと、話は終わりとばかりに、ファストフードの雑談に会話を変化させ。小腹がすいたねという小佐野さんに付きあい、バーガー屋さんへよって帰る話になった。
◇◆◇
本店店長が業務のほとんどを小佐野さんに教えた後、長期の休暇に入った。お父さんにガンが見つかったことが理由で。闘病の手助けを優先したいと希望したらしく、オーナーさんサイドは了承していた。おかげで小佐野さんとうちで本店を運営してるも同然になった。取引先が本店を訪れれば、結婚式はいつだと尋ねられることが普段になった。
そして小佐野さんとの約束通り、十月のとある日に休暇を取った。あとで変に探られても困るので、小佐野さんと出かけることはオーナーさん夫妻には伝えた。二人の反応は……ようやくまとまるのかと感慨深げなオーナーさんと、やっとですかとうんざり気なサブオーナーに別れた。
もちろん従業員のみんなにも小佐野さんやうちのシフトは公表されるワケで。発表があった九月のある日のミーティングは、ちょっと騒然とした雰囲気になった。小佐野さんは男性従業員たちから手荒い祝福を受けている。ミーティングの後になって、うちにこっそり聞きにくる女性従業員がちらほらいた。今までもくすぶっていた噂がついに現実に、だそうで。かっこうの話題を提供した形になった。
それでも本店運営は順調に進んで、十月の休暇日を迎えた。不在中の代理の店長と副店長に見送られて、小佐野さんとうちは釜石を出発。目的地は八幡平市のはずれらしく、住所をカーナビに入れてみると……
「うわぁ、秋田県との境じゃないですか」
「八幡平の向こう側と言っていいよ。高速から降りてからも結構走るね」
小佐野さんが運転しながら目的地の風景を説明していく。聞いてるかぎり風光明媚というより、山深い立地の寒村と感じた。しばらくして車を高速道路に乗せ、約束の時間に遅れないよう先を急ぐ。目的地の説明を終えてからは小佐野さんも運転に集中しているようで、車内は走行ノイズだけが響いていく。うちは邪魔しないように、車窓の向こうに視線を向けた。
◇◆◇
東北自動車道に乗り換え、いくつかのインターチェンジを通りすぎてサービスエリアに車を止める。おトイレと飲料水の購入を目的とした、ちょっとした立ちより。会話も集合時間を取りきめる程度にとどめて、それそれ一人で用件を済ませる。車に二人がそろえば、すぐに出発した。これで行程の半分といったところで、先は長い。
次に車を止めたのは目的地最寄りのインターを降りてから。出発が朝早かったから昼時まであと少しあったけれど、早めの昼食にした。まだしばらく走るらしいのと、飲食店はないからだとか。
ほんとに知らなかった、岩手県は広いって。仙台と釜石がほぼすべてのうちには、山深い目的地の手前でも、十二分に野山の自然を感じとっていた。
昼食はドライブインの食堂で食べた。変わったラーメンがあったので、うちはそれにした。この酸味の元はなんだろう?――少し油っこいスープとも合うと感じた。小佐野さんは山気分らしく、キノコをトッピングにしたラーメンに半ライスをつけていた。
それを見て、男子はよく食べるよねと問いかけたら、朝を抜いてきたと返答され、ちゃんと食べないとと少しだけお説教してしまい、君はかあさんかと言われた。それがおかしくて最後は二人で笑いあい、ちょっとだけ楽しい会話ができた。しばらく続いていた小佐野さんとのがんじがらめな空気感が、緩みはじめた最初だとは後から気づくことになった。
◇◆◇
「お寺?」
「今日の見届け人がここで合流する。乗車して待ってて欲しい」
細いけど急流の川にそって山道を上がってきた。その行きついた先には寒村がたたずみ、もっと山道を上がった先にはお寺があった。ちょっとした平場に小佐野さんは車を止め、お寺の中へ入って行く。車の中に居て――そう言われたけれど、固まった身体を解したくて車外に出た。ん---と両腕を広げて背筋を伸ばす。
あわせて深呼吸して頭の中で目的を予想する。ここまでの道中であえて尋ねもしなかったけど、お寺に来たということは亡くなった人と係わりがあるくらいは思いつける。そうは見えなかったんだけど――二度ほど見た彼女の姿を思いかえしても、死を迎えそうな印象はなかった。そうやって考えに沈んでいたとき――
――ぁ――ぁぁ――
何かが聞こえた気がした。たぶん、うちを呼んでいる声。そう思ってすぐ近くの急斜面を見上げる。斜面にはたくさんの樹木が生えている。けど一か所だけ開けているところがあって。聞こえたのはあそこから?――聞こえたときの雰囲気を思いだそうとしたけれど――
「五十嵐さん、お待た……どうした?」
小佐野さんが戻ってきた。その両手にはシャベルを三本ほど手にしていた。よく見れば、さきっぽの形状に違いが見れる。これから穴を掘りに行く?――埋蔵金でもあるのだろうかと、どうしようもないことを考えてしまう。
「……うん、ちょっとね。でも、大丈夫だよ」
たぶん空耳だと思うことにして、はぐらかした。
「そう? なら、見届け人の後について、斜面を登るから足元注意してほしい」
「うん、了解」
振りかえって背中を見せた小佐野さんに続いて、お寺の敷地へと入っていった。
◇◆◇
見届け人はお寺の和尚さんだそうで。もともとは小佐野さんの大学時代の女友達のお母さんが立ちあうはずだったと、山道を歩きながら説明を受けた。つい最近、彼女は腰を悪くし山道を登るのは無理だという。いつ治るかも分からないそうで、山寺を管理する和尚さんに代理をお願いしたのだとか。
山道を登り平場へとたどり着く。そこは下から見上げたときに見た平場で、規則的とは言いがたいけれど何とか縦横に整列して並んでいて。上り口と反対側の列の最後方に鮎ケ瀬家之墓と彫られた墓石がたたずんでいた。最初にと小佐野さんがお参りしたから、うちも慌てて手を合わせる。ここまで来ておいて、文句の一つでも伝えたかった相手の状況を察せないうちとは思わない。つまり――
「おれが大学四年のときの夏の前、
彼女の入ったお墓を前に小佐野さんがうちに伝える。
サークルの使いで小佐野さんと緒珠さんで出かけたとき、緒珠さんは小佐野さんの前で倒れてしまう。そこから小佐野さんは緒珠さんを看病したり生活をサポートしたりし始めた。もちろん小佐野さんに下心はなく純粋な厚意で。けど緒珠さんは間近にせまった死をさとり、死の前に体験したかった青春をおう歌しようと小佐野さんに偽装交際を持ちかけた。小佐野さんは難色を示しながらも絆されて受けてしまう。
それからはサークル外でも二人で出かけたりして。たぶんうちが盛岡で見かけたのはその一幕なんだろう。けど緒珠さんの病は次第に重篤になっていく。そこでほぼ最期の願いだったのが海の見える宿での初体験だった。釜石で見かけたのがこの頃なんだと思う。
青春のきらめきを体験した後の冬の入口ころ、緒珠さんは昏睡状態にまで陥ることも度々になり、小佐野さんでも面会は困難になった。小佐野さんも自身の就職活動が重なり緒珠さんのそばを離れることも増えた。だから小佐野さんが不在のときに、緒珠さんは何かをしていたそうで。それは小佐野さんには内緒だったらしい。
何かをやりとげた数日後、緒珠さんは息を引きとったという。小佐野さんは就職活動で盛岡を離れていたけど、報せを受けてすぐさま盛岡へ戻ったそうで。緒珠さんの葬儀には本当の交際相手として終わりまで参加し、終わり際に緒珠さんの母
「このお墓の裏にある木の根元に、タイムカプセルを埋めたんだ。それは七回忌が過ぎたら掘り返えして欲しい、それが緒珠の
「どうして、うちが?」
「おれの選んだ未来のパートナーに向けた何か、だと聞いてる」
掘りすすめながら説明をくれる小佐野さん。その体が疲れに少し動きを鈍らせたころ――
――カツン!!
缶ケースを掘りあてた音がした。どうやら小佐野さんがうめたときよりも土かぶりが増えていたらしい。慎重に土くれをかきわけて、缶ケースを小佐野さんが取りあげる。土ぼこりをまとうビニール袋から慎重に取りだし、小佐野さんは缶ケースを開けた。
「中身は初めて見るけども……封筒が二つ……おれ宛?と……先におれ宛を読んでみる」
見届け人の和尚さんに缶ケースの中身を開き見せ、次いで封筒を缶ケースから取りだしてこれも和尚さんに見せていた。それから小佐野さんへ宛てたという封筒の封を切り、便箋を取りだして一読する小佐野さん。しばらくして読み終えたようで、和尚さんに手渡している。そして――
「もう一通の宛名は『吾郎さんの横にいる人へ』だ。五十嵐さん――キミが読んでほしい」
うちへと封筒を渡してきて。受けとり宛名を見れば小佐野さんの言うことに間違いはなく。小佐野さんの隣はまだハッキリしていないのだけど、見なければこの場が収まらないから開封した。そして便箋数枚の中身を読んでいく。
その中身は……あいさつ文の一枚に、小佐野さんとの思い出を克明につづった文面が三枚。思い出の三枚は流し見になってしまったけど、当時の楽しげな様子が伝わってきて。
あいさつ文は二度三度と読みかえしてしまう。元来はきまじめな性格と思えた。それでも内容が内容だけに冒頭はお茶目にしてみたんだろう。そして書いていて込みあげる思いが、ところどころでインクをにじませて文脈の分かりにくいところを作ったようで。だけど緒珠さんの気持ち――覚悟と未練のはざまをさまよう心の痛さは良くわかる。うち自身もかつて昌幸君を相手に経験した気持ちだから。
緒珠さんは死に別れを悔いていた。うちは一方的に振ってしまうことを悔やんだ。緒珠さんとうちで違うとすれば、それでも好意に果てがないことか。緒珠さんはどこまでも小佐野さんを求めていた。うちは……好きにフタをしてしまった。この手紙は例え離れてしまおうと、好きでいて良いと伝えてるような気がして。結婚してしまった佐々木くんはともかく、小佐野さんへの好意を閉じこめなくて良い、そう説いているようで。
静かなうちを心配して小佐野さんから伸びた手がうちの肩に触れたとき、両目から筋のような涙がとめどなくこぼれた。それから体をふるわせ声を大にして泣き声をあげる。小佐野さんはとまどったようだけど、うちを懐に入れて抱きしめてくれた。そう――うちは小佐野さんの胸を借りて、しばしの間泣きぬれた。
小佐野さんの腕から解放されてからは、便箋を写メに納め封筒に戻しもう一度タイムカプセルの缶ケースに返して。タイムカプセルは緒珠さんのお母さんに渡してくれるよう、見届け人の和尚さんに預けた。
掘りおこしたところは小佐野さんがうめ戻していく。平らに戻ったところでシャベルを担ぎ、先に進んだ和尚さんを追いかけるように小佐野さんが斜面を下りていく。最後尾になったうちは斜面へとりかかったところで何かが聞こえたように感じ、足をとめて振りむいた。何も生きるものはいない。あるのはお墓だけなのだけど――
……お……ねが……い……
たしかに聞こえた気がした。ただおびえはなく、声にうなずいて小佐野さんを追いかけた。
◇◆◇
「外ぼりはとっくにうめ切られてたんだね」
うちは露天風呂でぽつりつぶやいた。思いのほかタイムカプセルの回収が早くに終わり、小佐野さんと二人予約していた宿へとやってきた。先ほど訪れたお寺のもっと奥から流れでる川筋に建てられた年代物の宿。でも内装は今どき風に替えられてきれいだし、こうして立派な石を積んだ露天風呂もある。この後の食事も楽しみになってきた。
――カラララッ。
不意に脱衣所との境になってる引き戸が開かれて、こちらへ入ってきたのは小佐野さんで。本日はうちたち二人以外にお客はいないと聞いた。だから男子の脱衣所がうちの入ってる辺りからは見えていなくても、そうだと判る。湯船に近づくまで、うちが入っていると思わなかった小佐野さんは――
「すまん。おれは後からにする」
「小佐野さんなら、ヘーキです」
お風呂を目前にして背中を見せた。足早に立ちさろうとするけど、それを引きとめる。うちの声かけに絞るような音をもらし……こちらを小佐野さんは振りむいた。
「どうなっても、知らないからな」
「どうなってもヘーキです」
「はああ……すっかり貫禄がついちまったなぁ」
おどすように低い声で引きとめるなと言うのだけど、うちは全く取りあわなく。だからかけ湯をして、小佐野さんもお湯の中に身体を沈めた。穴掘りを一人でこなしたその身体つき、貫禄は小佐野さんにも少しは出てきたと思いますよ。
「緒珠のことは黙っていて悪かったと思う。だから赦して欲しい」
「どうしましょうね。大学でのお友達、なのでしょ? 許すの許さないの、うちに決める理由あります?」
「あーまー、ないか。委ねすぎかな。すまん」
「もう! 一つ一つ謝ってたら、話が進みませんよ」
「……そうだな」
やはり小佐野さんとの会話は楽しい。世間では高校生に見られたあの年のころと変わらないと思う。
「でも、そうですね。小佐野さん、ドーテーじゃないんですね」
――ゲッホ! ゴホ! エッフォ!
あらむせた……うふふ、楽しい。
「あアァーーー。急にナニ、言いだすかなー。はあ、黙ってれば何言われるか分かったもんじゃない。だいたいこの手の話、五十嵐さんにはデリケートな話だろ?」
そうですよ、デリケートです。あんな経験、しましたから。でもそれは、有象無象の人たちならばだって話。小佐野さんとなら、過去形にできそうに思うんです。この気持ちを小佐野さんと共有したいから――
「小佐野さんは特別なんです。ずっと前から、それこそバイトの帰り道を小佐野さんに送ってもらった頃から。ただイヤな想いをした経験が――うちがチョロ過ぎたことで起こしてしまったから、小佐野さんをいいなって思う気持ちを素直に認められなくて。あんな目にあって、男子を嫌悪で見るようになっても……何があったか聞いてくれますか?」
おふざけのような問答からシラフな話へ急転回したらか小佐野さんは呆気にとられていたけど、うちのお願いには是非にと答えてくれた。そして、うちは佐々木くんとの出会いから別れまで、特に運命のテニス部合宿は詳しく話した。いかにうちがチョロくて、不幸を招いたかを。うちが語りおえてしばし、小佐野さんも無言で。そして小佐野さんの口から漏れたのは――
「チョロくて、いいんじゃないか? チョロいのはおれだって同じだ。五十嵐さんは真面目過ぎる。おれは君に一目惚れ、したんだぜ?」
たしなめられるとか同情されるとか予想していたけど、まさか呆れられるとは。でもホッとしてるうちもいて。それだけ、うちを否定されなかったことがうれしくて、つい告白してしまう。
「小佐野さんをいいなと思った初めては、よっぱらいのお客に助けられ――」
やってしまったと気づいて、言いきる前に閉口した。小佐野さんはまたもポカンとしたものの、すぐにクツクツ笑いだした。笑うことないじゃない――ムッとした表情を小佐野さんに見せた。
「おかしいですか?」
「いいや。けれど、悩むほどではあるんだと理解した。だから提案しようと思う」
「……提案?」
「そう、提案。さっきの佐々木くん、日常の離れてる時間をどう思ってたかは分からないけどな、五十嵐さんを不安にさせている距離感だと気づいてなかったんだろう。同じ轍を踏まないよう、もっと日常から近くにいれば平気なんじゃないかと思うんだよ。だから……おれと一緒に暮らさないか?」
「……プロポーズ……ですか?」
「ああ」
再び小佐野さんから求婚された。今までなら言いわけをひねり出して断っていた。でももう遠ざける必要はないと思えてる。それなのに優先しなきゃいけないことが思いだされてしまって。そんな表情が出てしまったのは小佐野さんにも見えたと思う。
「五十嵐さんには気にしてることがあるのか?」
「……佐々木くん……元彼のこと、今も整理しきれてなくて……」
小佐野さんは少しほっとしたような雰囲気を出した。たぶん自身のせいで拒まれたわけじゃないからと思う。それでも神妙な顔つきになった。
「……五十嵐さんはやっぱりマジメなんだな。大概は気にしないと思うが」
「うん。でもね……」
世の中の普通を語れるなら、小佐野さんの言うとおりなんだろう。けれど自分のことだから、賛成もできなくて言いよどんだ。
「分かった。その整理がつくまで返事は待つよ」
「そ、それでは――」
回りまわって先へ進めないうちに、これではらちが明かないと思ったのか、小佐野さんは無期限もいいところの約束をしてくる。さすがに申しわけなさ過ぎて止めようとしたのだけど――
「でも、一つだけ許してほしい。これからは初音と呼ぶから」
距離を縮めると宣言してきた。小佐野さんに限っては許すも許さないもないし、一声呼ばれただけで心臓の音がうるさく感じだして。
「おれのことは呼び捨てでも、さん付けでもいい、吾郎と名前で呼んでくれ……それじゃ先に上がるわ」
当然のようにうちのハードルも上げてくる。けど一声出そうとしてのど奥にひっかかったように発声できなくて、少し肩を落とした背中を見送ることになった。
「……ごろう、さん」
引き戸が閉まった音のあとに何とかつぶやけた。長湯のせいもあるけど、ほほが熱い。たぶん顔も身体も全体で桜色に染まってるように思う。そして気づかれなくて良かったとも思う、発情しかけていたことを。長らく止まったままだった、身体の内側の女の部分が目を覚ましそうで。でも、もうしばらくは眠ったままでと思いながら湯船を出て、もう一度身体を清めた。
お風呂から出た後は、空いているからと宿泊部屋とは別の部屋に夕食を用意してもらい、小佐野さん――いいえ、吾郎さんと一緒に食事をした。食事中に名前を呼ぶ機会はどちらへも訪れなかったけど、寝室へ別れるときは名前を呼びあった。うちのほうは不覚にもトイレへ急行する事態になった。
次の朝、食事はそれぞれの部屋で食べることにしたから、顔をあわせたのは釜石へ帰る用意をした直後に。少し寝不足気味の吾郎さんを見て、何となく理解した。おたがいにモンモンとした夜を過ごしたことを。帰り道の車中は行きのとき以上に事務的で、弾む会話でもなかった。帰りついた釜石では、空気感とも距離感ともいえない何かが変わった吾郎さんとの間がらに、従業員一同を騒然とさせてしまった――
◇◆◇
それからの交際はゆっくりと始まった。仕事時間はお互い事務的に名字呼びをすることにした。その代わりに、仕事終わりの小一時間、名前で呼びあう時間を作った。お互いを良く知るために話をしようということなのだけど、名前呼びにどちらも照れあい、静かな時間を過ごすことが多かった。
徐々に会話の時間を勤め先の外で行うようになった。休暇日を二人であわせて釜石の喫茶店をめぐって行うようになった。食事どころだからだろうけど、お互いの好きな食べ物嫌いな食べ物をよく話しあった。
会話のネタを求めてというわけでもないけど、二人で遠出をすることがときどき発生した。龍泉洞や平泉の観光地に行ってみたり、厳美渓を下ったり岩手山の頂を目指して自然を満喫したり。二人とも高校では運動系の部活に所属していたけど、意外と吾郎さんがインドア派だったのは驚きだった。だから外歩きをすると、うちが吾郎さんを引っぱっていることが多かった。
会話をしていればお腹が空いてくる。初めはコンビニのホットスナックをシェアしてみた。もっと良い食事をと吾郎さんのセッティングで外食した。節約に努めていたうちにはお高すぎて味が分からなかった。お礼にと、うちの部屋に招待して鍋を囲んだ。うちの手料理が食べられると吾郎さんはとても喜んでいた。そしてまた食べたいと言ってくれた。これからも美味しさを追求することで、二人の意見は一致した。
けど一線は引いたままで。身体を重ねるどころかキスもしていない。それでも二人の関係を育くむかたわら、佐々木くんの行方を知ろうとあっちこっちに連絡をしてみた。結局は水琴さんに頼ることになったのだけど、しばらく時間をくださいと言われて。理由ははぐらかされてしまったけど、無理にせかすことはしなかった。
そして時は進み、季節は秋から冬、冬から春、そして春から夏の初めへと
◇◆◇
――ほらほら、走らないで。
――はーい。
――まさおりは預かるから付いててあげなさい。
――分かったよ、母さん。
――かかさま、ととさま、いこう。
――あぅぅ。
――分かったから走らないで。
――急がなくても海は逃げないよ。
――さぁさぁ、まさおりも行きましょうね。
遠くから家族連れの声が聞こえるここは、恒例になった副店長を勤めるスーパー直営の海の家。海開きが次の週末にあるから、従業員たちの慣らしにとプレオープンさせた。うちはここでも副店長として海の家を切りもりしていた。店長の吾郎さんには男性従業員を連れて店舗の方へ追加の食材をとりに行ってもらっている。
スーパーの方は次の店長副店長になれそうな人たちに任せてきている。まあ、サブオーナーが付いてるから問題はないハズ。
「三百二十円のお返しになります。ありがとうございました」
ちょうどお昼営業で最後に残っていたお客さんたちが店をでた。これで一度、お店を閉める。ここで働く従業員たちに店内オペレーションを数多く経験してもらい、身体で覚えてもらうために。
従業員たちを店内清掃、会計、作り置きのメニューの調理に振りわけ、うちはまず会計に加わる。レジの閉じ方そして開け方、他に帳簿の付け方や現金の数え方を指導する。
レジの現金を必要分だけ残して金庫にしまうと、会計係だった従業員にはお品書きの切りかえを指示してうちは調理に入る。次にお店を開けたときはおやつタイムにふさわしいメニューを提供する。ドーナツのような保存の効くものを作りおいて、冷たいうちに提供したいメニューを開店時間中は主に調理するようにしている。
そうこうして小一時間ほど過ぎたころ、作りおきを終えてお店ののれんを表に掲示する。そんな作業をする従業員に立ちあったところで――
「かかさま、お店あるー」
小さな女の子の声が聞こえてきた。そう言えば、さっき家族連れの話声を聞いたなと思いかえす。
「そうね。何か食べていこうかしら。いいわよね?」
「ああ、いいよ。ねぇ、母さん?」
「任せるわ」
「やったー」
楽し気に会話する家族に興味を持った。海開き前の平日だから、タクシー運転手などの一人客以外はめずらしい。なにげなく家族連れの方へ振りむくと――小さな女の子と手をつないだ男性に、赤ちゃんを胸に抱いた女性、そして母さんと呼ばれてもいい年齢に見える女性の五人連れがいた。
「……えっ」
家族連れを見ていると思わず声がもれた。それもそのはず、男性の特徴は佐々木くん――昌幸君とそっくりだから。うちの声に気づいた男性がうちをじっと見た。そして――
「初音?」
うちの名前を、自信はなさげにつぶやいた。見つめあう形になったうちと男性の間を、赤ちゃんを抱いた女性は視線を行ったり来たりさせて率直な疑問を口にする。
「昌幸さん、お知り合い?」
「……たぶん?」
男性はまさゆきと呼ばれ、質問には自信なさげに答えを返している。その様子から男性を昌幸君だと確信し――その瞬間不意の出会いで逃げだしたい気持ちにあふれて、うちはこの場から駆けだしてしまった。
逃げてどうするの?――内心でうちの行動を非難する。うちも分かってはいる、逃げて何も良いことはないと。かえって昌幸君に不信感を与えるかもしれないことも。それでも心の準備ができてないことが――どんな言葉で昌幸君に謝罪すればあの日のことをゆるしてもらえるか分からなくて不安で。
自問自答に入りこんでいたからだと思う、追いかけてくる足音に気づくことに遅れた。だから振りかえったときには、真後ろに真顔の人物――赤ちゃんを抱いていたあの女性で――彼女がすぐそこに迫っていて直後抱き着かれ、うちは取り押さえられてしまった。
◇◆◇
お店からやや離れた場所にテーブルを一つ運びだし、そこにうちと昌幸君と昌幸君の奥さんの花織さんが着席してしていた。昌幸君のお子さん二人とお母さまには、お店の中でくつろいでもらっている。直前に逃げだしたこともあって、うちはとても気まずい思いで顔をうつむかせていた。
対面の昌幸君は隣の花織さんに昔の事情を説明している。ある程度はもう話していたようで、うちが最後に昌幸君と会ったときの別れ際を心情ふくめて伝えていた。花織さんと言えば、ふんふんといった感じで特に深刻そうにはしていない。どちらかと言えば、うちへの同情のような視線をときどき寄こしてくる。花織さんも昌幸君に迷惑をかけた側だからなのかも。
お店の方は戻ってきた吾郎さんに任せている……のだけど、時どき店先に出てきては、こちらの様子をうかがっている。吾郎さんにはお店に集中してほしい――そう思いながら、居たたまれない時間を過ごす。すると男性客が一人来店したようで、吾郎さんは店内に来客を告げながら男性客を連れて店内へと消えた。その間に昌幸君への説明が済んだらしく、話し声が途絶えていた。それに気づいたから顔を上げ、昌幸君と花織さんの表情をうかがってみる。
「……えーと、初音――いや五十嵐さんが逃げたのは、急にぼくと顔をあわせて気まずかったから――で、良かったかな?」
口火は昌幸君から切られた。その問いにうなずいて正当を伝える。
「逃げなくて良いからね。もう昔のことだし、五十嵐さんと出会って別れた経験があったから、今日まで来れたと感謝してるから」
感謝なんて言葉で言われて、もっと申しわけなく感じてしまう。昌幸君はとても気を使ってくれているのが分かるから。再びうつむいてしまったうちを援護するかのように、抗議の声が上がった。
「もう昌幸さん、その言い方では肩身の狭い思いをさせるだけですよ。それに昌幸さんも謝らないといけなかったんじゃなかったんですか?」
うちをかばう花織さん。しかも昌幸君が謝る?――うちの脳内ははてなマークでうめられた。謝られることなんて、昌幸君に何かあったんだろうかと。そこで水琴さんから聞いていたことを思いだす、昌幸君は花織さんとの別れの危機にあったことを。
「……五十嵐さんと交際していた頃、五十嵐さんにとても大きなプレッシャーをかけていたんだなと……花織と瀬戸際になった経験をして気が付けた。ぼくの願望の強さはパートナーも周囲の人々も巻き込んでしまうと身に染みた。
正直、五十嵐さんと別れでは事情も報されず一方的に告げられて恨む気持ちもわいたよ。けれど花織のときも事情を報されず事態が進んでいて、あと少し遅ければ五十嵐さんと似たようなことになっていた。それはどこかで、ぼくが甘えていただけだったから。花織はぼくの
この経験が、五十嵐さんとのときも甘えていただけだと気付かせてくれた。そして五十嵐さんには見合うだけの感謝も逆に甘えてもらうことも返せていないことも。交際していたころ、五十嵐さんにぼくの希望を押しつけて、本当に申し訳なかった」
自分の悪かったところと謝罪を述べて昌幸君は頭を下げた。そして同罪とでもいうように、隣の花織さんも頭を下げていた。
「私も初音さんの気持ちを尊重もせず、引きとめてごめんなさい。それにタックルされて、痛かったでしょう?」
花織さんからは謝罪の言葉に気づかいもいただくことになった。ただ昌幸君の言葉を受けつつ思っていたのは、今も治らない癖があって変わらないなということ。ときどき一気に意見を述べる癖、治そうとしてても治らない不治のもの――花織さんの表情にはそのあきらめも含まれてる気がした。
それでも花織さんと昌幸君の仲は良好なのだろう。花織さんの度量の広さには、頭が下がる思いとうらやましい気持ちがわいた。うちならどうだろう?――長く緒珠さんのことを引きずったうちだから、あの事件が無くても爆発は案外早かったかもしれない。それでも昌幸君に気づきという変化があったのは良いことだと思う。
でもこの場はうちが謝罪する場のハズ。だから流れを正そうと思い、うちも謝罪の言葉を伝える。
「もうお二人とも顔を上げてください。心の準備もないまま偶然出会って気が動転して、逃げだしてしまってごめんなさい。それに昌幸君――いえ佐々木くん、あなたにお別れを告げたとき、真相も伝えなくてごめんなさい」
二人が顔を上げてタイミングで、今度はうちが頭を下げる。でも頭を下げる時間はコンパクトにして顔を上げ、二人にたずねてみる。
「ところで、佐々木くん……と花織さんは、うちが別れを決心した事情をだれかから聞いていたりしてします?」
思ってもみない問いだったのか、昌幸君も花織さんもピンとは来ていない様子で首を振っている。それではと、真相を初めからは説明することにした。
実はレギュラー落ちの瀬戸際であせっていたこと、その中で練習中にケガをしたこと、おかげで次の大会に復帰が間にあわないと思いこみ絶望したこと、つらい気持ちになって昌幸君とのメッセージのやり取りを中断してしまったこと……ここまで話して昌幸君から謝罪が入り少し話が停滞した。
再開は男子テニス部の少年のことから。彼にケガのことで相談したこと、そして彼に励まされたこと、それで気持ちがぐらついたこと、そしてほんの数日であっても彼に傾倒してしまったこと……ここで花織さんに抱きしめられて、また中断。いつの間にかうちのほほに一筋の流れができていたみたいで。昌幸君も悲痛な表情になっていた。
涙が止まった後も花織さんに抱きしめられたまま。それでも振りしぼって続ける。浮気していることに気がついて少年を拒絶したこと、けれど男子テニス部の別の三人組にその密会を見られたこと、そして三人組にはやし立てられ少年に性暴力を受けたこと、三人組にも続けて受けたこと、事後に気持ちをふるい立たせて反撃したこと、逃げなければとその場を去ったこと、仙台へ帰ろうとして山道を歩き迷ったところで水琴さんに救われたこと。水琴さんの名前が出たことに昌幸君も花織さんも驚いていた。二人に驚きの理由を問えば深くかかわっていたことは初耳だと。
まずは説明を先に終えようと話を続ける。水琴さんの世話になりながら治療を受けたこと、彼女の助言に家族は引っこしたこと、テニス部ではうちが行方不明で騒ぎになったこと、その隙にとうちを加害者とした少年と三人組による被害届が警察に出されたこと、非番中の宮城県警の警官に保護されていたとして警察に出頭したこと、そして出頭前のわずかな時間で昌幸君に別れを告げたこと。話終えたときには花織さんも昌幸君も涙を流していた。よく頑張ったね――どちらの声か分からないけど、うちもつられて再びしずくがほほを流れおちた――――
しばらくして三人して落ちつきを取りもどした。うちを抱きしめていた花織さんも自分の席に戻っている。そして開口一番は花織さんだった。
「初音さん。胸に秘めた事実を聞かせてくれて、ありがとうございます。それで、こうして深い話をした仲ですから……お友達になりませんか?」
まさかの申しでに固まってしまう。これ以上係わっては迷惑を重ねるのではと、どうしても危惧してしまい。けど断りを入れるには二人が良い人過ぎて、簡単には言葉も出なかった。
「できれば共有したいの。それは初音さんが苦しんだ経験というだけでなく、私が犯してしまった愚かさも。共有の先には、一人で抱え過ちを犯す前に踏みとどまれる、そんな未来があると思うから」
花織さんの続く言葉が、心の奥に隠れていた自分への猜疑心を溶かしていく。一人では過ちだとも気づけないかもしれない。けど複数人でなら……うまく行けるかもしれない。そう思えたらスッと言葉が出てくる。
「お誘い、ありがとうございます。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
深くおじぎをして顔を上げると、すぐそばに飲み物を入れたコップを人数分持った吾郎さんが立っていた。
「どうやら大まかな話は済んだようだな。お子さんも美味しいと言ってくれたりんごジュースはどうかな?」
「ありがとう。いただきます」
飲み物の勧めに昌幸君が応える。昌幸君と花織さんはコップを受けとり、ジュースに口をつける。コップはうちの前にも置かれ、吾郎さんはイスを追加して自分で座った。
「初音、できればぼくも紹介してほしいんだが?」
「先ほどからこちらを伺っていましたね。もしかして?」
吾郎さんが昌幸君を見てけん制すれば、昌幸君も警戒していたと胸のうちを吐きだす。少しケンカ腰のような雰囲気をかもし出す男二人に、うちはあわてて紹介する。
「ああ、こちら小佐野吾郎さん。うちの婚約者です」
婚約に反応したのか席を立ちあがる昌幸君。そして吾郎さんの前に立って、その手を取ったかと思うと――
「よろしく、頼む」
そう言って、最敬礼の姿勢になった。吾郎さんは素早さにか予想外さにか目を点にしたけれど、早めに再起動して分かったと答えている。ただ表情は引きつっていたけれど。
「ま、昌幸さん……小佐野さん、すみません。主人は男友達があまりいませんで、距離の詰め方に怪しいところがありますけど、お気になさらないで下さい」
花織さんにも昌幸君の行動はキテレツだったのか、こちらもあわてていた。ひとしきり昌幸君が納得したのか、敬礼から戻ってうちへと言葉をよこした。
「初音、良かったね。お幸せにね」
乾いた笑みで、どうもと、返すのが精いっぱい。ジェットコースターのようなテンションに付いていけなくなくて気持ちが緩んだ。そんな一瞬に――お店の方から、絹を切りさく女の悲鳴が上がった。
◇◆◇
「こっ、こはなっ!!」
まっさきにお店へ駆けつけたのは花織さん。その足の速さに、逃げるうちを捕まえたのは偶然ではないと実感した。過去に陸上選手でもしていたんだろうか?――今の状況ではこんな考えさえ現実逃避でしかない。昌幸君と花織さんの上の子ども、こはなちゃんが薄汚れた姿の男性に後ろから抱えこまれ、首筋に刃物を当てられていたから。
先ほどの悲鳴は昌幸君のお母さんの発したものだったようで、心配そうにお店の中から見ていた。後ろをついてきた吾郎さんは、その女性を背に店の前に立って様子を見守っている。
「幸花、きっと助けるから、今は静かにしよう」
昌幸君の助言に首を縦に振る女の子。恐怖の表情も取り乱した様子もなく、ただ真顔で落ち着きはらっているように見える。でも……その見つめる先って?
「外野がゴチャゴチャうるせぇよ…………久しぶりだな、初音。おれは忘れちゃいなかったぜ」
男性の言葉にあっけに取られた。背格好はともかく、世をすねた目つきで
「チッ……思いだせねえのよかよ、イラつくぜ。教えてやるよ、森久保だ……森久保涼太だ。思いだせたかよ?!」
「えっ、まさかリョータくんなの?」
記憶の底深くに閉じこめていた人物。かつての昔馴染みで、うちをおそった犯人の一人。水琴さんには実刑判決を受け、少年刑務所に収容されたと聞いていた。いつの間に出所したのかは知らなかった。けど、こうして姿をあらわすとは想像もしていなくて。
「……どうして今ごろ……」
「ひでえな、初音。おれは忘れちゃいなかったってのに。出所してみれば仙台からいなくなってるしよ。だいぶ探したんだぜ」
今もうちにこだわる彼に、忘れたハズの恐怖がよみがえる。うちの身体は――周りの人たちに気づかれはしないだろう程だけど、小刻みにふるえていた。だから、女の子を離しなさいとも、この街から出て行ってとも、何も言葉にできなかった。もちろん、だまってはいられない人もいて。
「……幸花を離せ……」
「ほうほう、もしかするとあんたが佐々木か? おれの初音を
昌幸君から聞いたこともない低い声が聞こえる。けれどリョ――森久保くんはおじけづくどころか煽るばかり。その言葉が終わるまでに、見たことない形相に昌幸君はなっていた。
「……御託はいらない。幸花を離すんだ」
それでも女の子を離すよう、昌幸君は声を荒げず冷静さに務めている。それが気に入らなかったのか、ナイフを昌幸君に突きつける森久保くん。
「なら、このナイフのサビに、この娘をしてやってもいいんだぜ!」
目に焼きつけろとでも言いたげに、森久保君は昌幸君にナイフを見せつけている。そんなジリジリする空気が辺りの支配を強めていたとき、花織さんの声が響いた。
「やっちゃえ、こはな!」
同時に女の子の右足は森久保君の右足を踏み――
――やっ!
すぐさま右腕を頭のすぐ横で真っすぐ真上に突きこんで――森久保くんのアゴを打ち貫いていた。
――ごほっ!!
森久保くんが仰けぞり、ナイフを取り落とした瞬間――吾郎さんが突進した。アゴを押さえて注意力の落ちた森久保くんの袖と襟首をつかんだかと思うと、地面に転がして上から抑えつけていた。吾郎さんは高校まで柔道をしていたと聞いてる。今の押さえつけ方は柔道の試合で見たように思う。
吾郎さんが森久保くんを女の子から引きはがしたところで、少し遅れて動いた昌幸君が女の子を連れて戻ってきた。その方を見れば女の子が涙をためて、花織さんにすがりついた。抱きあう二人をさらに包みこもうと、昌幸君が大きく腕を広げて丸ごと抱きこんでいる。その三人を見て、ホッと一息が出た。けど――
「初音、すまん。警察を呼んでくれないか?」
吾郎さんに言われて、うちも地に足がついてなかったことに気づいた。あわててスマホを取りだそうとしたものの、持ち歩いていなかったことに気づく。スマホを取りに更衣室へ向かおうとすると、声がかかった。
「初音さんは居るかしら?」
声の方に振りかえると、水琴さんと……少年と、少年の頭に女性のシンボルを乗せた女性が居た。
◇◆◇
森久保くんは身がらを警察に引きわたされた。女の子を人質にその子へナイフを突きつけたのだから、立派な罪状が付くだろうと水琴さんは言う。再び刑務所へ入らざるをえないだろうと、彼の未来を予想して。
どうやら出所してから、森久保くんはうちをずっと探していたらしい。あの時のことで自分が捕まったことに文句をつけたかったのが一つ。うちをもう一度ものにしたかったのがもう一つ。吾郎さんに捕まえられてる間、彼が喚いていたことから分かった。
次に刑務所を出ればくり返し来るのだろうかと思うと、先行きに暗さを感じた。水琴さんにそれを訴えると、気楽に思うよう諭された。次からは接近禁止も付くだろうし、姿を見せたら警察を呼べば良いと。
ちなみに水琴さんは弁護士資格を持ったらしく、警察を呼ぶ際も水琴さんが代わって通報してくれた。少なくない親族が勤務する宮城県警ほどではないけれど、岩手県警にも顔は効くらしい。森久保くん逮捕のときも、警察の対応はスムーズでやわらかく感じた。
それはともかく、今日、水琴さんが釜石を訪れたのは、森久保くんの動向をつかんだからだったらしく。すぐに彼とうちたちが遭遇しているとは予想しなかった――水琴さんから平謝りされてしまった。
「この通り……初音さん、ごめんなさい」
「いえ、みんな無事でしたし、駆けつけてきてもらって、感謝してます。だから――水琴さん、顔を上げてください」
先ほどと違って店内の一角をパーティションで仕切った個室ブース、中にはうちと水琴さんと――下の子の
「それにしても……マー君のところも来ているとは思いませんでした」
「……子供たちに外遊びさせたかった――それだけです。他意はありません。事件には巻き込まれた……だけですよ」
顔を上げた水琴さんは花織さんを視界に納めると――初夏の暑さを忘れるような、冷えた言葉をはきだした。受ける花織さんは涼しい表情のまま、瞳の中に雷光が輝いている印象で、水琴さんを見かえしていた。これってもしかして?――けんか友達というやつなんだろうか。周囲をおいてけぼりにする空気がただよい始めたけど――
――あうぅ。
昌織くんから声が上がる。どうやらお腹いっぱいのようで、胸から顔を離した。それが終了のゴングかのように水琴さんは口を閉ざし、花織さんは昌織くんを立てて肩にかつぎ、背中をポンポン刺激しはじめる。やや間をおいて昌織くんがかわいらしくげっぷをはいた。花織さんたちには何気ない――いつものことかもしれない。でも、うちにはとても眩しい光景に見えた――平穏の象徴のように。
「初音さん、織坊にとっても喰いついてるわね」
「さっき婚約者を紹介されたわ。結婚が近いのかしら?」
「あら、お相手は?」
「ここの店長さんね。吾郎さんと呼んでいらっしゃったね」
「ああ、あの方……やっと纏まったみたいね」
「あら水琴さん。随分とお詳しいわね」
「ふふふふふふ……」
「ほほほほほほ……」
いつの間にか二人の標的はうちになっていた。うちを見る二人の目は鋭くなった、言い逃れは許さないとでも言うように。仕方なくと認める言葉の前に一息をはく。
「近い将来、今花織さんがしていたようなことをするのかなと……想像にひたってました」
「あらあらあら。じゃあ、結婚式の予定日は決まってるの?」
「ええと……それは……」
願望をあらわす言葉にさらにくいつかれてしまい、言葉に詰まる。まだ仮初の婚約だから――受諾の返事を待ってもらっているから。こんなだから、鋭い二人には気づかれてしまう。
「初音さんには懸念があるようね?」
「……そうね。初音さん、話されてみてはどうかしら?」
「それは……」
しばらく迷った末に、打ちあけることにした。うちがいかにチョロいか、それがいつしか吾郎さんを裏切る原因にならないかを。うちの話をだまって聞いていた花織さんは、次第に納得したような表情を見せた。対して水琴さんの反応は、まだ悩んでいたのねとあきれ顔だった。
「浮気をシタ側が持つ懸念は共感できるかな。私もシタ側だから」
「でも気にするだけ無駄なことですわよ。チョロくはなくても、落とし穴はありますものね」
「だからと言って、先延ばしはお勧めしない。懸念は勝手に消えはしないから。それならいっそ、二人で一緒に分かち合うのが良いと思うわ」
「一人ではとれる対策もそう多くありませんからね。まずは意中の人の胸に飛び込んでみてはどうかしら? きっと初音さんの心配に寄り添ってくれると思うわ」
二人は一歩を踏みだせと言葉をくれた。その言葉がかねてから胸に貼りついたモヤモヤをぬぐってくれた気がした。目頭が熱く感じて、両手で擦ってしまう。そして鼻をすすった。
――あうぅぅぅぅ。
昌織くんがこちらの小さな腕をのばしていた。あたかもナデナデしているかのように。それが微笑ましくて、つい直前にしていた話を忘れて――口角があがった気がして。そんなときに胸ポケットからカサリと音がした気がした。ポケットをあさって出てきたのは――
「それって……」
「ああ、迷ってるって言ってらっしゃいましたわね」
お守り代わりの――高校生の昌幸君の画像をプリントアウトしたものだった。
「迷ってるって、何を?」
「どう処分するか、だそうでしたわ」
「ふ~ん。ねえ、初音さん。それはどうするつもり?」
プリントを少し見いっていると、花織さんが良い笑顔でこちらを見ていた。今、昌幸君の隣にいるのは花織さんなのだから、うちがこんなものを持っていることは面白くないハズ。それに、以前には水琴さんにも整理のつけ方を相談していたせいもあって、水琴さんもこちらを興味深げに見てきていた。そんな二人に
「す、捨てようと思ってました。でもゴミ箱に投げいれ、るような、ことは、でき、なく、て……」
思うところを正直に伝えたのだけど、だんだんと勢いを失ってしまって。三人の間にしばらく静けさだけがただよったのだけど――
「そうね。迷って不思議ないと思う。青春のひと時を、簡単に投げ捨てられるような人なら、今ここには居ないでしょ。初音さんの思う通りにしてもらって良いのだけど――もし、胸のうちが定まらないのなら、私に提案させてもらえないかな?」
「えっ?」
「聞くだけ聞くといいかしら。私よりは優しい提案をしてくれると思うわ」
水琴さんの助言は自分で決めなさいという厳しいものだった。当然かもと思ったから、他の誰かに相談を持ちかけることはあきらめていた。そんなこともあって、どんな提案が出るのか知りたくなって。気づいたら、うちはうなずいていた。
「ええと、それじゃあ、前提のために少し質問するわ」
「あ、はい」
「実物はそれだけ?」
「え、ええ。これだけ、ですけど」
「データとか――スマホの中の写真のようなものは、どれくらいある?」
「おっしゃるように、スマホに写真があるだけですけど」
「そう、じゃあ提案ね。その実物は婚約者のためにも初音さんの手元にはない方が良いでしょう。それで、スマホの中の写真は私と初音さん――水琴さんも入れて、三人でネット上に共有しましょ」
「花織さんにしては、なかなか良い案だと思いますわ。これなら初音さんの婚約者さんも安心ね、焼き餅も焼けないと思いますの」
水琴さんの後おしが心に響く。そうか、吾郎さんに大きなショックを与えてしまうこと――それを恐れていたんだと、理解した。ならば反対する理由はなくて。
「分かりました。写真データは共有するので、連絡先を教えてください――データのアップロード先を連絡しますので。それと――このプリントは花織さんにお渡ししたいのですけど、いいですか?」
花織さんに承諾と要請の言葉を伝える。そして、チラリと水琴さんに視線を投げてから、昌幸君のプリント画像を差しだすと花織さんに提案した。このやり取りに、水琴さんからは意見はないようで。花織さんは笑みを浮かべてプリントを受けとっていた。
「ちゃっかり自分のものにしたかしら?」
「作戦勝ちよ」
どうやら二人の関係はどこまでも平行線らしい。それがおかしくて、うちの口角はもっと上がって。和んだ空気になったからか、昌織くんは夢心地の中にいた。
話題は具体的なアップロード先のことになり、それも合意を得れば他愛ないおしゃべりに変わる。その一つが森久保くんへ入れた一打の話で。
「さっき、幸花ちゃんに合図を送ってましたよね?」
「ああ、あれ? 護身の術をね、
「日本に比べたら、ヨーロッパも物騒ですわね。どこへでも出向く商社マンの家族たればこそ、必修と言うべきかしら」
「あって損はないわ。そうね、これからは初音さんの家でも必要かもよ?」
まさかの佐々木家の内情を知って、そしてうちや新しく増えそうな家族に必要になりそうと言われ、軽く出せる言葉を失った。ついさっき心配だと言ったばかりなのだから、護身を習うことは当然とも思われた。ただ吾郎さんの意見もあるだろうから、考えてみますと返答しようとした――のだけど――
「かかさま~。みお、よわーい」
「おれさま、手かげんして、あげてんだけどな」
見守りの大人たちを引き連れた、花織さんと水琴さんの子供たちがやってきた。縁日を模したコーナーの射的ゲームにあきたらしい。騒々しくなったことを合図に、急遽の女子会はお開きになった。
……仕事を終え、吾郎さんとも本店で別れて、一人自宅アパートに戻り。ドッとおしよせた疲れについベッドに横になってしまう。色々あって気持ちの整理はまだつかない。けど心が軽くなった――そう思える一日になった気がした。おかげでか、この夜から寝つきは良くなった。
◇◆◇
森久保くんの襲来事件からしばらく過ぎた残暑の残る日、うちから吾郎さんへプロポーズの答えを返した。もちろん、イエスと。時間がかかったのは、勤め先の仕事がお互いに忙しかったから。夏休みもあるこの時期は、スーパーへの人出がとっても多い。地元高校生のバイトを入れても手が足りない。
そんな忙しさが落ちついた日に、吾郎さんとそろって休みをとった。従業員のみんなにはもうバレバレではあるけれど、期待に満ちた視線を向けながらも静かにしていてくれて。そうして得た休日に出かけた愛の浜――プロポーズされた海岸公園で、よろしくお願いしますと。
感極まった吾郎さんに強く抱きしめられたら、体の芯に熱がともり。予定になかったうちのアパートへお誘いをしていた。そして夕食を作り共に食べた後、うちに張られたくもの巣は吾郎さんに突きやぶられた。あまりの良さにうっかり朝までくもの巣払いをしまくって、二人であわてたことは後の語り草になった。二人して中高生みたいだねと。
それからは結婚へ向けての日々になった。式場選びに、引き出物選びに、料理選びに、招待する人選びに。いままで通りの勤務や生活の上に乗ってきたから大変になった。吾郎さんと一緒にへとへとになる日もある始末。事実婚でも良かったんじゃないかな――ふと思うこともあった。でも吾郎さんに包まれるたびに、結婚に向かって良かったと、もっと思うようになって。
吾郎さんもうちに幻滅することはなさそうで、また良かったと日々思う。一緒にいる時間が増えれば、まだ見ぬ姿を見てしまうこともあるわけで。うちって結構口うるさい?――佐々木くんとは学校の違いもあったから、表面化しなかっただけかも。
吾郎さんにとってうちが先輩になる分、相談を吾郎さんから持ちかけられやすい。それで必要以上に説明したりするときがあるようだけど、吾郎さんはニコニコと受け止めている。それがとってもありがたく。
年が明けて結婚の日取りが決まった。次に来る五月の最後の土曜日と。残念ながら吾郎さんは間にあわないことがあった。けどまだうちは間にあうからと、この日に決まった。二十代が終わる、その前にと。
場所は釜石市内のブライダルホール。そこでチャペル式で挙行する。その後はとても大きなホールでの披露宴。かなり大きな催事になってしまったと反省すれば、義理の父母になるオーナーさんとサブオーナーには必要なことと説得された。地元で一目置かれる商店ならではの必要経費であると。
招待客もかなり多い。吾郎さん側として、小佐野家の親族一同や取引先の代表者を招待して。うちの側では、五十嵐家の近しい親族に、女子テニス部のオージーとして仲よくしてくれた皆や、通信制高校の同級生たちを招待した。特に子供の世話が心配だという招待客に、連れてきた子供の分の祝儀は不要と伝えたおかげで出席しやすくなったと一言をもらえた。
いろいろな結婚準備と日常生活を続けていくと――ハレの日になった。
結婚式場の小さなチャペルでの挙式。お母さんにベールを下ろされ、お父さんのエスコートに従い、ケープガールたちにドレスの裾を持ってもらいつつ、教会のドアをくぐる。荘厳な音楽が聞こえる中、
吾郎さんの側には小佐野家の近しい親族たちが座る。ケープガールの一人は、吾郎さんのいとこの娘さん。大役を務める娘を見守る、お母さんと思える女性が写真を撮りまくっていた。
うちの家の側には両親に弟に釜石に住む叔父さんの家族たち。そして佐々木くん夫妻がいる。もう一人のケープガールは幸花ちゃんだから。佐々木くんが負けず劣らず動画撮影をしていて、花織さんが抑えるように気を使っていた。
絨毯の先には吾郎さんが待ち、式場スタッフ扮する牧師役が構えていた。バージンロードの端へとたどり着けば、お役御免とお父さんが吾郎さんにエスコートを引きついで。ケープガールの少女二人も親もとへと駆けていき――それぞれのお母さんに抱きついて褒めてもらっている。子どもたちの声で少し騒がしくなったけど、牧師の進行の声で静かになった。
牧師から祝福の言葉がかけられ、そして誓約の段取りに。牧師は吾郎さんへ視線を向け、誓約の文言を紡ぎ――ふと祭壇の十字架のさらに上に人の気配を感じて。不思議に思い視線を向ければ女性がたたずんでるように思え――直感でそれは緒珠さんだと思った。
「――新婦、――」
牧師に言葉を向けられたところで、意識が式の進行に戻る。ちらり十字架の上に視線を向けても、もう何も感じなかった。けれど、緒珠さんにも見守ってもらえたんだと思えば、うちの心は歓喜にふるえた。だから――
「――、その命ある限り、真心を尽くすと、誓いますか?」
「はいっ、誓います!」
力強く宣誓した。緒珠さんにも届くようにと――
・・・
・・
・
――追記。
式の後の披露宴。招待客の中には水琴さんや穏風さん、女子テニス部の仲間たちがいて。さらに通信制高校の同級生たちも参加している。あの若夫婦の家も事業をしているらしく、貫禄が出てきていた。また白髪交じりのおじさまは染めて真っ黒になっていた。
大勢の人たちに祝福される中、小さな――ハズだったサプライズをもらった。仕掛け人は幸花ちゃんらしい。水琴さん家の澪くんがため息深くぼやいていた。それで出し物は、この会場に集まった子どもたちの大部分による合唱で、ピアノの伴奏で行われたのだけど……
それはわらべうたの替え歌だった。今日の日のために幸花ちゃんが詞を考えてきたらしい。披露宴の間子どもたちが気楽に過ごせるようにと別に一部屋借りきっていたのだけど、そこで声をかけまくって練習をしたのだそうだ。誰でも知ってる歌だし、曲調も簡単だから下は四歳の子でも歌えたんだと思う。
その内容は佐々木家の日常らしく、佐々木くんと花織さんがいたたまれないような空気感を出していた。初めはあ然とした雰囲気になったけど、ツボったうちは声を出して笑ってしまった。それにつられて吾郎さんや他の大人たちにも伝播して、会場は笑いに包まれた。
佐々木家の日常はだいぶえっちなんだと思う。なので同じくしようとは言わないけれど、うちらしい楽しい家庭を吾郎さんと作っていこうと心に決めた――
―― 私たちのハンセイ記 完 ――
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