おまけ 初音視点①(真相編)

「ありがとうございました~」


 このレジに立って十年がもう過ぎた。逃げるように仙台から家族とやって来た岩手の釜石。震災復興の途中だった街も今ではすっかり様変わりして。それでも復興にあわせて場所を変えてきた、釜石で数少ないスーパーの一店舗。引っ越してきた頃からアルバイトで通い、今では少人数だけど部下を持つ正社員になっていた。


 うち――五十嵐いがらし初音はつねは、高校で所属したテニス部の合宿中に傷害事件を起こし――逮捕されたものの起訴猶予になった。けれど世間の目には耐えきれない――それが家族一緒に引っ越した理由だった。


 急な引っ越しに父の転職に傷害についての損害賠償に……当然ながらお金に困ることになった。なので、釜石では高校へ通うことを諦め、家計の助けになろうと始めたアルバイトがスーパーのレジ打ちや品出しの仕事だった。そのまま継続して働くうちに正社員登用の話が持ち上がって、高校中退という学歴が問題になり――ならばと通信制の高校を卒業する条件で正社員となった。通信制の高校は頑張って卒業した。


 スーパーを経営するご一家には感謝しかない。こんな汚れたうちを長年雇い続けてくれて。だから、社長のご長男さんから求婚されたことは困惑しかなくて。うちが経営者一族に加わったりしたら、ご迷惑しかかけないと思う。もしも、うちの汚れた過去を暴こうとする人物が現れたら、うちだけが標的になるだけではすまないと、想像は簡単にできるわけだから。


 だから、プロポーズは一度お断りした。それでもと、ご長男さんは言ってくれて。つまるところ返答を保留している。うちにかかったままの呪縛を、隠したままで――



   ◆◇◆◇◆



 昌幸君に元気をもらってやって来たテニス部男女合同合宿地。お隣福島県の山間やまあいの湖近くに宿泊施設や多数のテニスコートがあって。湖傍には周遊できる散歩コースもあり、ランニングの時間はここを走らされる。そう――去年も合宿がここで行われたから、うちは覚えてるわけで。


 宿泊施設は一部屋二人で利用する。だから一人になれる時間はそうそうない――と思っていたんだけれど。相部屋になるはずだった一年生が、合宿直前に部を止めてしまった。去年のうちより全っ然できる娘だから、うかうかしてられないって思ってたんだけどね。そんなわけでお風呂上りから翌朝起床までがフリータイム――うちが命名――当然、昌幸君とゆっくりじっくりメッセージを交わせるとわかり、浮かれないハズがない。


 ちなみに通話をしないのは……壁が案外薄いからなのよね。去年はお隣で起きた痴話げんかが丸聞こえで。廊下側にもつつ抜けで、先生たちにお説教される声も、よく聞こえた。なので、教訓は活かして、通話をガマンしている。ああ、昌幸君の声が聞きたいな。


……今の自分のお花畑ぶりにあきれ返る。テニスの世界は甘くはない。県大会出場くらいでは実績のうちにもならない。全国大会で上位入賞を果たすほどの実力があって初めて大人の――海外の選手の中にまじれる。それでもピラミッドの底辺でしかないけれど、夢に向かって前進してる昌幸君の横に立つには、それ位のランクの選手になることが必要だと思う。そのためには練習あるのみ――前向きな決意を胸に、合宿初日のバス移動から解放されて、うちは宿泊施設の前に降りたった。


   ◇◆◇


 順調に合宿メニューが消化されていく。一日目はとにかくランニングと筋トレ。合宿地入りがお昼ごはん直前と遅く、明らかに練習時間が足りない。だからコートには入らずに、フィジカルをいじめ抜くことで終わった。


 二日目は早朝にランニング、朝ごはんを食べてから十二分にストレッチをこなし、コートに入る。最初はラケット持ってバックラインに沿うダッシュを往復十本、バックラインからセンターネットへのダッシュを往復十本。次に手出しからストロークをコートの左右に打ち分けて各二十本。さらに左右のコーナーへ各十本。相手コートからのラケット出しで左右に打ち分けて各二十本、さらに左右のコーナーへ各十本。ここで足を使うボレーの練習を左右へ各十本。やっとやっとでスマッシュを左右へ各十本に左右コーナーへも各十本。最後にサーブを左右へ各十本に左右コーナーへも各十本を打ち分けて。人数もいるから午前はここでクールダウンしてお昼ごはん。午後も午前と同様に入念なウォーミングアップを行ってからコートで練習。そしてサーブの後にラリーを各二十本こなして、レギュラー候補は相手をおいたマッチ形式の練習を1セット。終われば楽しい夕ごはん前のクールダウン。そしてお風呂へ入って就寝。


 うちの部では概ねこんなメニューで日々が過ぎ、後半になればなるほど午後はほぼマッチ形式の練習になる。二日目も順調にメニューを消化して就寝前のフリータイムに突入していた。


『(佐々木)練習は順調?』

『(五十嵐)じゅんちょう、順調w』

『(佐々木)四大大会への出場も予定通り?』

『(五十嵐)えっへん! まっかせてよ!(๑•̀ㅂ•́)و✧』

『(五十嵐)きっと昌幸君と海外へ行くから(≧▽≦)』


 昌幸君とのメッセのやり取りは楽しくて、つい消灯時間を忘れてしまった。それは睡眠時間を削って――


 そして三日目……マッチ形式の練習の途中で……反応が遅れて、無理をして、ボールを追って……


――ッンッ!


 微かに生まれた左ひざへの違和感。春休み前に痛めたのも左ひざ。瞬間、コートに這いつくばるうちが見え――その未来は昌幸君との将来を閉ざす予感がして、うちは全身を使って踏んばった。ただ、身代わりに痛めてしまった筋が一つ、右太ももの裏にできてしまって……


『(佐々木)そっか、疲れたなら仕方ないね』

『(五十嵐)ごめんね┌〇』

『(佐々木)気にしないで、今日は早く休んで、明日ガンバレ!』

『(五十嵐)うん。ありがとう』


 昌幸君を心配させたくなくて噓をついた。嘘を嘘でなくしようと、その夜は就寝を早めた。そして、運命の四日目がやって来る――


   ◇◆◇


 午後のマッチ形式の練習がこの日から増えた。なので午後のコート入り前には、入念にウォーミングアップを図る。

 一戦目は無難にマッチ相手を下してクールダウンも念入りに行う。昨日痛めた右太ももの裏におかしな感じは持たなかった。

 二戦目はマッチ相手に食い下がられたもののうちが勝利した。ただ時間がかかりすぎたから?――左ひざが熱を持って。クールダウンの際には念のためとアイシングもすることに。

 今日の最後の三戦目、それは女子部エースとのマッチアップになった……


……ゲームカウントで二つビハインド。さすがにエースの相手はキツイ。うちがサービスだった第一ゲームは運よくキープできた。まだエースが様子見とばかりに調子を上げていなかったから。でも続くエースがサービスの第二ゲームをブレイクさせてもらえなくて。調子を上げてきたエースに翻ろうされて、うちの自信が揺らいでいく。だからだと思う――うちの第三ゲームをエースにブレイクされてしまった。あせりが心の中にこびりついていく。第四ゲームに至ってはなすすべなく、エースにサービスをキープされてしまった。

 流れを変えるなら最後と言える第五ゲーム。たかが練習、それでも本気の意地のはりあい。ここで――うちのサービスゲームで抵抗できなければ、昌幸君を伴って海外でテニスをする夢想は叶わない。それだけの実力がうちにないことを証明する。だから――この連戦で出はじめていた下半身の違和感を無視してしまった。


――ラブ、フィフティーン!


 うち渾身のサーブをエースにあっさりリターンされ――わずかに動揺したからか、リターンボールへの反応が瞬間遅れてしまう。ゲームはまだ続くのだから、諦めて無理に追いかけるものではないのに――追いかけてしまった。だから、うちは足をもつれさせ転倒してしまう――――イツゥ!!!


 痛みに顔をしかめてしまったけど、何とかこらえて立ちあがる。熱を持つ右の足首から痛みは次第に強まり、うっすらとかいた汗は冷たくて。それでも審判役の問いかけに、うちは続行と答えた。


 けど、ケガしたような素振りを出すうちへ、エースは容赦なく。力無く放ったサーブを、うちの身体スレスレの足元に全力で打ちかえされて――うちの身体はまったく反応しなかった。


――ラブ、サーティ!


 引導を渡されたかのように――うちは失意で緊張が切れ、その場にくずれ落ちてしまう。昌幸君と叶えたかった夢がバラバラになったようで、何も考えられなくなってしまっていた。


   ◇◆◇


「……失礼します」


 宿泊施設に設けられた保健室代わりの一室を出る。急遽合宿地近くの整形外科病院で受診して、宿泊施設に戻ったところで呼びだされていた。ケガをしたうちに練習は続けさせられない――レギュラー候補から外すことをコーチ陣から告げられたばかりで。


「初音……」

「……リョータくん」


 うちに声をかけてきたのは男子部の一人――森久保もりくぼ涼太りょうた君――うちがリョータくんと呼ぶ男の子だった。リョータくんは少年テニスクラブで幼いころに知りあった昔馴染。住んでる地区が大きく離れてるから小中学校は別々、テニスクラブだけが唯一の交流の場だった――高校で再会するまでは。


「春にケガした膝――またやったのか?」

「うんん、そこをかばったせいで……最後は右の足首に、ね」

「そっか」


 松葉杖でぎこちなく歩くうちを、どうやら心配して声をかけてくれたみたいで。昔から優しい男子だと思っていたけど、今も変わらないようでうちも安心して。ただ、こうしてリョータくんが知ってるということは、とっくに部内全体でうちのケガは共有されてるんだと思う。うちが抜けたイスゲームはとっくに熾烈を極めているのだろう。


「心配かけて、ごめん」

「謝ること、ないよ。例え初音に後遺症が残ったとしても、おれは初音を見捨てたりしないから」

「――えっ? どういう、意味?」


 レギュラーから外されて気落ちしていないか心配したのだと思う。だから、そこまでしてくれることが申しわけなくて。ついついお詫びの言葉が漏れてしまっただけ。それでも、リョータくんは否定どころかうちの未来も気にかけてくれる。だから、どうしてそこまで?――真意が分からなくて、聞きかえしてしまった。


「それは……初音には付き合ってる人がいたね。ごめん、忘れて……」

「――あっ! そ、そっか……」


 思いもよらなかったリョータくんの気持ち――突然知ることになって、うちは驚きと同時に、わずかにうれしい気持ちを覚えてしまった。けれど嬉しい気持ちもすぐにしぼむ。うちには昌幸君がいる――そう指摘もされたから。


「……初音、おれで良ければ……いいや、今ここ合宿地にいるおれなら弱音も聞いてあげられる。だから今夜、湖傍のベンチで待ってるから、弱音を吐きたくなったら来てほしい」


 うちの返事も待たずに、男子たちの宿泊棟へ続く渡り廊下をリョータくんは駆けていった。


「……リョータくん、ありがとう……」


 うちの口からは自然と感謝の言葉がこれぼれ出ていた。ケガが治った後に練習を再開しても、秋の大きな大会のレギュラー争いには間にあわない。そして、昌幸君との夢の未来へも間にあわないことを意味する。だから――


 恋愛という緊張の糸が切れたんだと思う。この夜、うちは湖傍のベンチへと向かった――自分のスマホを部屋に残して。愛しいハズの男の子から、まるで逃げるように……


   ◇◆◇


 翌朝の寝覚めは悪かった。昌幸君からのメッセがたくさん届いていたことは、昨夜のうちに気付いてはいた。けど、見ないふりしてベッドにもぐり。そのせいかもしれない――昌幸君と大ゲンカした夢を見てしまったから。


 内心では気づいていたのかもしれない。未来に夢想したテニス人生は、うちの憧れの延長でしかなかったことに。四大大会に出場できるほどの才能を、そもそも持ちあわせていないことに。ほんの少しだけ幸運が重なって、たまたま上位大会に出場できたにすぎなかったことに。


 けれど昌幸君は違う。未来にやりたい仕事を確実に実行できるよう、日々努力を重ねてる。もしも、今選んだ道が夢にたどり着けなくても、きっと別の道を探すことだろう。うちとはデキが違う――うんん、ハートが違う。でも、うちは――別の道を探しもしない――探す気力もわかない。


 その嫌悪が寝覚めを悪くする夢を見せたんだと、考えつづけて。おかげで合宿五日目の朝食の味はとても美味しくなかった。


   ◇◆◇


「明後日にはレギュラー非選抜組が帰還する。五十嵐も一緒にバスへ乗るように」

「……はい」

「では下がりなさい」

「……失礼……しました」


 たった今コーチから下された指示は帰郷。合宿七日目以降はレギュラー候補に選抜された人物だけが参加できる――それがこの合宿の通例で。要するに、うちは戦力外と判定されたわけで。非情な決定に抵抗する言葉も出ないわりに、悔しさが表情に出ていた。


 同時に医療スタッフにも足首の状態を診てもらって、松葉杖は二本から一本に減らされた。およそ一日使ってみれば既に一本使いに慣れてしまい、追認してもらったかたちだ。少しでも回復したと――合宿に残れればと思ったのだけど。


 ただ、どうやら部員たちから不平も出ていたらしい。いわく、後ろで見ているだけの人がいて、気が散ると。集中を欠くといわれては返す言葉がない。怪気炎を上げている人がいれば、うちだって同じように思う……かも。ただ、けして恨めし気なんてつもりもなく――自己管理の甘さに歯がみしてる、そんな感じが態度の正直な説明ではあるけれど。


 結局、部活内で心頼れる人はいないってことなんだろう。午前はコートを囲うフェンスのところにいたけれど、気まずい空気を避けるように湖傍のベンチで午後はたそがれていた。


「初音?――ここに居たんだ」


 うちは両手で顔をおおい、うつむいていた。そんな状態の女子をうちだと気づける人は……横に置いた松葉杖で分かるかも。顔を上げて声のかかった方へ、うちの視線を投げた。


「……リョータくん」


 そこにいたのは、昨晩ここで会っていたリョータくんだった。でも、男子部も練習時間のはずなのに、ここに現れた理由が分からなくて。だから尋ねてしまう――昌幸君に申しわけなく思いながら。


「どうして……ここに?」

「初音が見当たらなくてさ――それで探した。あっ、男子部は休憩時間だから――さぼってないから、心配いらないから」


――くすっ!


 ついついリョータくんのあわてる姿をおかしく思えて、笑みがこぼれ出た。それに探してまで会いに来てくれるなんて。だから、うちの胸の内に小さな灯が燈った気がしてしまう。燈してしまったら――昌幸君にあわせる顔がない、ハズなのに。


「それで……女子部から噂が流れてきて、非選抜組と一緒に帰るって……ごめん」


 うちも明後日には帰還することは、とっくに伝わっていたらしい。それだけイス取りゲームは加熱してると思えた。女子部内の人間関係にさみしさを自覚して、うっかり視線をさまよわせたせいか――リョータくんに頭を下げさせてしまった。それは本意じゃないから、優しく言葉をかける。


「心配してくれて、ありがとう。大丈夫よ。再出発すれば、いい話だから。リョータくんが顔をくもらせる必要は――ないよ」


 そうだ、二度とテニスができないほどのケガではないのだから、もう一度やり直せば――はい上がればいい、それだけだ。きっと分かってくれる、まさゆ――


「きゃっ!」


 心配は無用と言葉にし、出直しの決意を胸のうちで固めている最中、うちは抱きしめられた。抱きしめたのはもちろんリョータくんで、その声はうちの決意を溶かし出してゆく。


「初音がガマンすることない!――ぼくは知ってる、初音の交際相手のこと――初音に頑張ることを押しつけてることも――ぼくなら、ありのままの初音を受け入れる――アイツのように無理強いはしない――だから、っ!――ごめん」


 こんなにも今のうちを心配してくれる人は、他にはいない――昌幸君でも、どうだろう?――たぶん、昌幸君の人生に付いてこれないなら、うちから興味をなくすように思えてしまう。


――トクン!


 抱きしめた腕を解きながら、再び『ごめん』とつぶやくリョータくんにときめきの音を聞いた気がした。そしてうちは……リョータくんのジャージのすそを摘まんでいて。


――カサッ――


「……っ! ごめん、こっちの休憩時間は終わりみたいだ――」


 うちの思いがけない行動でリョータくんが視線をさまよわせた後に、今は時間切れと告げてきて。腕をほどいて身体を離したリョータくんの顔を、うちはうるむ瞳で覗いてしまう。


「――初音が良ければ、また今夜もここで――」

「――うん、待ってる――」


 今夜の誘いも言葉を重ねて承諾した。そして、夜……リョータくんの作る甘い雰囲気と言葉に流され、リョータくんとキスをした。ただ――今も今夜もした物音に気づくことはなかった。


   ◇◆◇


 明けて合宿六日目の朝、再び……うんん、二つとない激しい後悔にうちは見舞われていた。スマホには昌幸君からのメッセの通知が、またもたくさん届いていた。でもどれだけ時間が過ぎても、一文も返せなくて。どう昌幸君に懺悔したものか分からなくなる。同時にリョータくんとのキスの味を思いかえす。昌幸君では楽しめない背徳の味に脳が侵されるように。主にこの二つが頭の中でループしていた。


 昌幸君以外の男の子としちゃったんだ――うちは唇に二本指を当て感触を思い出していた。人が違えばキスも違った。昌幸君のこなれたキスと、リョータくんの加減の分からないキス。比較するものではないハズなのに……どちらがうちの性分に合っているか、煩悶とした。


 違う、そうじゃない。昌幸君に謝らないと――地面に額を擦りつけてでも赦しをお願いしないと。それには何て伝えよう――ダメ、言葉が出てこない――どう伝えても言いわけがましい言葉にしか、ならない気がして。


 それでも時間は無情にも進んでいく。この日の午後の診療で松葉杖は終わりになり、サポーターでの固定に変わった。できる限り体重をかけないよう、その説明をするコーチたちの言葉さえ、うわの空で。ただ、うちがたどり着いたループの先は――


   ◇◆◇


 三度目の……夜の湖傍のベンチ。リョータくんを呼び出して待っていた。この数日の行動はケガを深刻に考えすぎた気の迷い――だからリョータくんとの不透明な関係を取り消して、昌幸君に謝罪しよう――それが今日一日でまとめた考えだった。ケガの状態が上向くにつれ、弱気がおさまる。どん底ですがってしまった身勝手さを棚上げにする罪悪感はあるけれど、修正しないことには先に進めないと思ったから。リョータくんと遠ざからないと、うちを流してしまいそうで――合宿前に描いていたモノと、違う未来へ。


「お待たせ。初音から会いたいってメッセもらった時は、夢のようだったよ」


 メッセージアプリの名前交換は昨夜のうちに行っていた。やってきたリョータくんはうれしそうな顔をする。悩みに悩んでいたうちとの落差に、ひどく恨めしく思えてしまった。


「うんん、こんな時間に呼びたてて、ごめんね」


 いきなり本題に入ってはと思って、初めに感謝から伝えた。ふぅ、緊張する――これから告げるのは、たった三日の関係を終わらせること。リョータくんがどんな反応をするか分からないけど、うちから切りださなければならないこと。


「で、話があるってことだけど……もっと励まして欲しいってことかな?」

「…………ごめん」


 ケガをして落ち込むうちを励ましてくれたことは正直うれしかった。でも、本当に励ましてほしい人は――別にいるから。


「……もう、二人で会うのは止めよう? 励ましてくれたことはうれしかった。でもね、うちには恋人がいるわけだから……」


 まるでリョータくんを振るようなセリフになった。付きあっていたわけでもなく、告白されたわけでもないのに。ただ、にわかにリョータくんの顔が一転して強ばりだし始めた。リョータくんの様子の変化をうかがっているうちに、うちの両肩をがっしりと掴まえられて。


「どっ、どういうことかな。初音!」

「――痛い、イタい――」


 リョータくんの力が強くてうちは悲鳴をあげる。でもリョータくんの勢いは止まらなくい。うちに理由を教えろと、せがんできた。


「優しく励ましてあげたじゃないか。足りなってい言うの? どうなんだい? どうしてぼくを遠ざけるの?!」

「――待って、まって――」

「ぼくらはキスもした、仲じゃないか?!」

「――だ、か、ら、だよ――しちゃ、いけない――キスしてはいけなかったの――」


 うちのハッキリした拒絶で、リョータくんの勢いが止まる。そして表情をくしゃりと歪ませて、大きく嗚咽を漏らしだした――


――ガサリ。


 そこで近くの茂みが揺れる。茂みの陰から三人のジャージ服の男子が出てきた。手にはそれぞれテニスラケットを持っていて。


「自主練でもしようかと、やって来てたんだけどよう。先輩兄さん、上手くいってないじゃん?」

羽田野はたの……それに等々力とどろき三野宮さんのみやか」


 三人の中で一番前に出た男子が下卑たうすら笑いで事情を知ってるかのようなセリフを吐いた。それに、ラケットを握る手とは反対の手にスマホを持っていて、うちとリョータくんにレンズを向けていて。


「まさかの修羅場るでオモロいから、ネタに撮らせてもらったけどよ――兄さん、昼間にアドバイスしてあげたじゃん?――イヤよイヤよも好きのうちってよ。そっちの先輩姉さんも観念して、兄さんのモノになってあげたらどうよ?」


 あまりの急展開に呆けるしかなかったけど、話を振られたおかげで固まった脳と身体が動き始めた。


「……どうして――なぜモノにならないといけないの?! うちは関係を断つ――そう決めたのよ!」

「どうしてっよう? 等々力、昨日のアレ、見せちゃれよ」

「あいよ」


 うちの何を知っているというのか?――そんな思いに突き動かされて胸のうちを吐露した。でも中心の男子はお仲間に指示して写真を見せてきた。そこに写るのは――リョータくんとうちがキスしてる姿だった。動揺してしまい押し黙ることしかできなくて。その間にリョータくんが勢いづき――


「そ、そうだ。彼の言うとおりだ、初音! わがままを止めて、ぼくのモノになって――いや、僕のモノになるんだ!」

「――えっ、リョータくん、何言って――きゃっ!!」


 次の瞬間、リョータくんはうちをベンチへと押したおし抑えつけていた。閃いたとばかりに喜々とした表情を見せるリョータくん。その瞳は目の前のうちを見ているようで、違うところを見ているようで。


「……や、止めて……リョー、タくん……止めて……」


 ともかく抵抗しないことにはと、声を上げ押し返そうとするけれど――見ているだけだった三人の男子がリョータくんの加勢にまわって。


「兄さん、やるねぇ。おっしゃ、加勢するぜぇ。おう、おめーらも手伝ったれよ」

「「おうよ」」


 一人は右腕を、もう一人は左腕を、そして三人の男子で中心にいた男の子がうちの頭を押さえつけて――


「おい、兄さん。イタそうってんなら、まずはキスからだぜぇ?」

「……ありがとう、助かるよ。さあ、初音。心行くまで、楽しもう!」

「――いやぁぁ――むぐっ!」


 荒々しい口づけで悲鳴さえも防がれた。けして優しくない自分の欲の分だけ求めるような這いまわるだけのキスに嫌悪しかない。すぐにでも行為を止めたいけど、息つぎさえも難しく頭がぼーっとしかけて。このままでは――危機意識にしたがって侵入してきた舌に嚙みつこうとしたけれど、あごを抑えられて叶わなかった。


「おいおい。この女、兄さんのベロ、嚙み切ろうとしやがったぜ?」

「……初音、ぼくを裏切るだけじゃなく、害しようだなんて……徹底して身体に教え込まないといけないようだな」


 リョータくんが男子と会話するためにキスを中断してようやく深呼吸ができて。飲みこみ切れなかった唾液でむせてしまう。男子の指摘にリョータくんの言葉が一層うちの不安をあおる言葉使いになって。これから起きる最悪の未来を予想して、うちは固まってしまう。


「兄さん、躾けるなら直接快楽を教え込んだ方がいいぜ?」

「なるほど……なら方法は決まりだ。君たちも手伝ってくれ」

「ああ、構わんぜ。どうしたら、イイ?」

「こうするんだ!」


 抵抗するうちのジャージのトップスをリョータくんがめくった。そのまま目いっぱいうちの頭上まで裾を持ち上げ――


「ジャージの裾を縛ってくれ!」

「なるほど、茶巾絞りか」


 三人男子の中心だった男の子にあれよあれよとジャージで縛られ、うちの頭は包みこまれてしまった。男の子たちが何か話しているけど、くぐもった感じに聞こえ、内容を判別できなくて。茶巾絞りに困惑しているうちに、ジャージのボトムスがパンツごとずり下ろされた。うちはできる限りの抵抗を激しくしたけれど……叶うことはなかった……


   ◇◆◇


 うちの花園を踏みつぶした行進は五つ。最初の行進は花園の最奥までたどり着くことなく、出入口のそばで爆発して消えた。


 この後、少し男子たちの話声が聞こえたけど、二度目の行進は深く長く続き、うちに高揚をもたらそうとした。歯を食いしばり、時に唇をかんで、行進を耐えしのぶ。やがて熱だけを最奥の花園にまき散らして終わった。


 三度目、四度目の行進は二度目ほどではなかった。それでも最奥の花園は熱をもっと充填されてしまい……うちは全身で汗ばんでしまう。


 そして五度目の行進は最初と同じ足形だった。今度は出入口に留まることなく、最奥まで花園を行進していく。苦痛とも歓喜とも判別できない雑音しかうちは奏でることができなくて。

 そして行進の途中で茶巾が解かれ、眼前には咆哮を上げるリョータくんがいて。獣が小動物を粉砕するようにうちとぶつかり合う。結果、最奥の花園は熱水にまみれてしまった。


 滝のように湧きでる水流は、うちの涙だとはすぐには気づかなかった。


   ◇◆◇


 少しして感情の一部が冷淡になって戻ってきた。今うちの心を満たすもの――それはただただ昌幸君に謝罪したい気持ち、それだけだった。ならば行動を起こさなければならない――心が決まると、ゆらり立ちあがる。途中――いつの間にか傍にあったテニスラケットを手にとった。一対四の状況に、ヤらなければこの場を離れることも難しい――思えた瞬間、目の前で疲労困憊の男子に渾身の一撃を与えた。その後はラケットを無闇やたらに振りまわして残る男子たちへ突撃する。三度の衝撃をラケットからフィードバックされたと感じ、ラケットを投げすて宿泊施設と反対の方向へと駆けだした。男子たちに追いつかれないよう、仙台を目指して湖傍の散策路を急ぎすすんだ――治療途中の右足首の負担も考えずに。


   ◇◆◇


 電車に乗るとか、乗用車にヒッチハイクさせてもらうとか、うちには考えつきもしなかった。ただただ、仙台の方角だと思うほうへと歩みをすすめ――いつの間にか車道からセンターラインが消え、道幅も狭くなり、斜面の角度もきつくなってくる。人通りはなくても、時たまライトを点けた車が通りすぎていたけれど――次第に冷えてきた頭がこのまま進むことへの危険性を訴えてきた。それでも合宿地へは戻れないという思いに突きうごかされて――


――パァッパッパァー!


 あまりに集中していて、クラクションを鳴らされるまで、すぐ後ろを付いてくる車に気づかなかった。振りかえれば、いかにも高級そうな黒い車。タイヤも大きくてでこぼこ道もへっちゃらそうに見えた。そして助手席のドアを開けて出てきた人物とは――


「五十嵐さん! 何をしているんですの?!」

「…………長谷川……さん?」

「そうです――恋敵の長谷川です。どこへ行こう――いいえっ、早く車に乗ってください!」

「……えっ、でも……」

「でもも、すとも、要りません。問答する時間も惜しいのです。素早く離れる必要があります」


 昌幸君がミーちゃんと呼ぶ、幼馴染という少女だった。どうして、ここに?――生じた疑問を解消できないまま、彼女といっしょに後部座席に乗せられた。


「仙台へ向けてお願いします。それで――五十嵐さんはどうして山中を彷徨っていたのです?」


 長谷川さんは運転席の男性に指示をだして、息つぐ間もなく問いただしてきたけれど……車はUターンして道をもどりはじめる。そちらに気持ちが持っていかれ――


「仙台……とは、逆方向へすすんでいる……のでは?」


 長谷川さんが呆れ顔になった。ため息を二度三度吐いてから言葉をつむぐ。


「このまま進んでも、いずれ車両は通れなくなれます。それとも降りて歩く、おつもりでしたか? それに越える山は、一つではありませんよ?」


 うちが歩いていた道の先行きを教えてくれる。仙台への方角を間違えていたなかったことに安心した。それで緊張が抜けたのか、うちのお腹から音がする。再び長谷川さんがため息を二度三度吐いていた。


「食べながらで良いです。もう一度お聞きします。五十嵐さんは、どうして山中を徒歩で、仙台へ向かっていたのです?」


 長谷川さんが手渡してきたバスケットにはサンドイッチが入っていた。その一つを手にとり、少し迷ってから口に入れる。一噛み二噛みして……涙があふれた。その後はうちの口を止めることもできなくて。嗚咽まじりにポツリポツリと、合宿中に起きた出来事を長谷川さんに語っていた。


「――最後の性的暴行は災難でしたね。不貞行為は絶許ですけれど……」


 聞きおえた後の感想をつぶやく長谷川さん。その言葉の最後にはジト目ながら怒りの視線でうちを射ぬいてきたけれど、すぐに何かを思案しているような表情に変わった。不意に訪れた沈黙に耐えきれず、しばらく迷ってからうちの最大の疑問をぶちまけた。


「……えっと、長谷川さんは、どうしてここに?」

「――どうしてではありません。わたしが動く動機はマー君にしかないと、あなたも理解してるでしょう? 急に失踪してしかも傷害事件まで起こしていたとマー君に伝われば、どれほどマー君が悲しむかあなたは理解していらっしゃるのですか? であるのなら、わたしが解決に動かないでどうします?」


 めっちゃ早口で返答をぶつけられた。長谷川さんの動機は……さもありなん、だったけど。そんなセリフの中に気になるワードが二つほど……

 失踪……湖傍のベンチから宿泊施設と反対方向へ去っていったことは、あの男子たち四人の誰かが見て知ってるだろう。その後いつまでも戻らなければ、失踪と思われて不思議ないんだろう。

 では傷害事件とは……テニスラケットで男子四人を殴打したこと?――でも、それは正当防衛のハズ……はたっと欠席裁判という言葉を思い出した。男子たちはうちを悪者にすることで、責任逃れを企んだ可能性が高いことに思いあたって。


 うちが考えこんだからか、長谷川さんも再び黙考していた。ちらっと長谷川さんに向けた視線に疑問が載った。どう考えても、長谷川さんがここにいることが分からなくて、もう一度口を吐いて出てきた。


「……ごめん、長谷川さん。あなたはどうやって、今ここに?」


 今度は真顔で黙られた。機嫌を損ねたのかと気を揉みつつ待ってみると、長谷川さんは答えてくれた。


「……あなたの所属する女子テニス部のエースは……長谷山はせやま穏風そよかは長谷川の分家の一員なのです。ですので、彼女を陰ながら護衛している者たちがいたわけです。穏風にはテニスに集中してもらうために」


 思いもよらなかった事実を聞かされてビックリした。声にはならなかったけど、表情には十分出たと思う。うちの部のエースがそんな大物だとは思いもしなかったわけだから。


「それで彼女を護衛する者から連絡があったのです。不穏分子の標的があなたに移ったと」

「えっ、不穏分子って、リョータくんが怪しまれてたの?」

「いいえ、羽田野たち三人の一年生のことです」


 あの男子四人の中で、うちと知りあいなのはリョータくんだけ。だからリョータくんが不穏分子と見なされていたのかと驚いたつもりだったけど……確かにあの三人、特に中心ポジだった男子にはという印象が残っていた。ただ男子部から素行不良とされる人物のうわさが流れてきた覚えはなかった。だから――


「……あの三人が怪しいって……どうして?」

「あなたと同室予定だった一年生の方をご存じですか?」

「個人的なお話をするほど仲良かったわけではないけど、期待の有望株だとは思ってた」


 怪しんだ理由をたずねてみた。すると、無関係だと思っていた一年生のことが話題になって、またビックリした。ただ、その一年生とはトレーニング方法や部内予定のことで軽く雑談したことがある程度でしかない。詳しく個人間の話をする仲ではなくて。


「そうですか。では、その方が突然部をお辞めになったことについては?」

「急だなとは思ったけど……理由は、分からない」

「……なるほど。では理由をお伝えします。気を悪くなさらないでくださいね」


 彼女が急に部を辞めた理由……それは性的暴行を受けたことだった。この時に彼女は再起困難なケガを負ったらしい。同時に心に受けた傷が深すぎて、部を辞めたという。

 一方、犯行時刻の現場の闇が濃すぎて、被害者の一年生が犯人の顔をハッキリと見ていないせいもあって、事件の捜査は進んでいないらしい。それでも長谷川家は独自に事件前後の現場周辺を調査して、疑いの濃い人物を絞りこんでいたようで。それがあの三人の男子で、よく女子の品定めを口にしていたと。もちろん女子テニス部エースも名前が挙がっていたという。


「……そんなことが……」

「そうです。そして次の標的として穏風だと話が流れてきました。だから近くに護衛を置いていたのです」

「でも、その三人はどうしてこんな真似を?」

「それこそ教えて欲しい事です。犯罪者の目的など推測できませんから。ただ被害者の一年生からはと伝わってきました。彼らは相当のクズ、ということです」


 長谷川さんから激しい憤りを感じた。もちろん今晩被害にあったうちも憤りを覚えた。でも長谷川さんの憤りは、彼らだけを向いていたわけでもなく。


「もちろんクズですから、責任を全て他人へ押しつけて逃れようとします。あなたがこんな山の中を歩いている間に、暴行犯として合宿を指導する大人たちに訴えた上で、あなたが行方不明ですから警察――福島県警へ捜索依頼が出されています。こうなっては、警察に出頭して暴行犯ではないと主張する――訴え出たクズたちと立ち向かう必要があります。その覚悟はございますか?」

「……覚悟って……」

「まずは警察の事情聴取、それから裁判での証言、最後に世間のあなたを見る目の変化、どれもあなたの神経をすり減らす事柄ばかりです」


 長谷川さんの矛先はうちへも向いていた。今日のことで昌幸君にかけてしまうだろう心労の大元たる――うちへと。それでも、昌幸君のためにだろう、うちへ助言することで――間接にでも昌幸君を助けたいのだ。そのために――手を差しのべるために必要な、うちの覚悟を迫ってくる。


「何も抗うつもりがないのでしたら、近くの福島県警の警察署までお送りすることでもって、わたしと五十嵐さんのご縁も終わりですけど?」


 長谷川さんの追いこみかたはただの鞭だけでなくて。いばらのトゲが付いている場合もあって。だから弱気に返答しようとしてしまうけど――


「……考えさせ――」

「そんな時間がないのはお判りでしょう?」


 遮ってまで念押しする長谷川さんの意気に負けてしまう。


「……よろしく、お願いします」

「よろしい。これから手配しますので、まずは仙台に戻りましたら産科婦人科病院で諸々の診察や検査を受けていただきます。それから弁護士を紹介しますから、ご家族に連絡をお取りください。裁判が予想されますから手は早めに打たねばなりません」


 そして……待ってましたと畳かけてくる長谷川さん。勢いに押されてしばし閉口してしまう。それでも絞りだすように言葉をつむぎ――


「……えっと、合宿先への連絡は?」

「そちらは警察から保護された旨を伝達されるよう手配します。くれぐれも個人的に――ご家族にも勝手な連絡は一切行わないよう、お伝えください。全ては弁護士を通して行いますので。もしも要請を破るのであれば、それ以降はご破算です」


 長谷川さんが顧みないこと――テニス部の合宿について聞いてみたけど、長谷川さんはどうでもよさげで。ただ、うちや家族が連絡することで、何かの言質をとられる可能性を気にしているようだった。


 それにしても、うち自身に宙ぶらりんとなった感触を覚えてしまい、身の置きどころの無さが気持ち悪さに跳ねかえっていて。ついつい、余計なつぶやきが漏れた。


「ところで、今のうちって、護送されてるの? それとも連行?」

「現在は、『宮城県警の警部が親戚のわたしを同行者として休暇行動をとっていたところ、わたしの知りあいのあなたを発見し、性的暴行を受けたとの相談を受けて、信用信頼のある病院まで搬送している』、そんなところです。只今運転中の彼も長谷川家の若手のお一人です」


 長谷川さんは律儀に返答してくれた。同時にうちとのおしゃべりもお終いとばかりにスマホを手にとり、方々へと次々に連絡を入れていく。うちも山中を長時間あるいた疲れ、何より暴行を受けたことによる疲労の蓄積があって、うとうとし始めた。おかげでか、車中は沈黙に支配される。時おりすれ違う車の走る音だけが、車内に響いた。


 車は一つの峠を越えていたのか、次第に下り坂を走っているようになって。窓の外は真っ暗闇だから真実はわからない。そんなこんなでぼんやりと思案するうちに意識を飛ばして、気づいた時には仙台を目前としていた。


   ◇◆◇


 病院に着いた頃には日付が変わっていた。それでも病院スタッフはきびきびと働いていて、うちの診察や検査や処置をイヤな顔一つ見せずにあたってくれた。あまりのスムーズな診療で呆気にとられている間に、車中で連絡をとっていた両親が病院に到着した。父さんの目は真っ赤で、母さんのほほはやつれて見えた。


「初音! 無事、なのか?」

「初音っ、あなたが暴力を振るったって本当なの?」


 うちに見せたこともなかった両親の剣幕にたじろいでしまう。それでも長谷川さんにしたものと同じ説明を終えると、二人は黙ってうちを抱きしめてくれた。母さんは背中も擦ってくれる。親子で情を交わしていると、うちの病室に長谷川さんが一人の女性を連れて入ってきた。


「お取込み中、失礼します。今回の初音さんの一件を担当していただきます、弁護士をご紹介いたします」


 それぞれに自己紹介をして、この夜はお開きとなった。すでに午前二時を回っていたから。そして合宿七日目は、合宿地から遠く離れた病院の一室でやや遅い朝の目覚めとなった。目覚めてみて最初に思ったのは、ここどこだっけ?――だった。


   ◇◆◇


 うちが目覚めると、弁護士先生と両親がそろって病室にやってきた。両親は朝日が昇る前に助言を受けていたようで、午後には引っ越しすると話してきた。


「えっ! 引っ越すって?――引っ越し先なんてすぐに決まるものじゃ――」

「大丈夫だ。故郷の釜石に戻ることにした。空き家だったじいさんの家に、住むことにする」

「そんな! 釜石じゃ、父さんの仕事が――」

「それも大丈夫だ。家業を継ぐことにしたよ。実はな、初音。継がないかって話は以前からあったんだ。だから初音が気にすることはないさ」

「そんな……母さんも、それでいいの?」

「いいの。父さんと故郷は同じだし、うちは父さんが一緒ならどこでもいいのよ」

「初音や、初音の部屋のものは全て持っていくから、その心配はいらないぞ」

「……うそ……」


 長谷川さんと車中で話したときに出た引っ越し話。現実になると知って愕然としてしまった。これまでの日々の思い出が――より所が、がらがらと崩れ消えていくように感じて。当然、昌幸君との日々もガレキにうもれたように思えて。うちの迷いから始まった出来事がもたらした非情な未来にショックを受けた。


 そして自然とすすり泣きの声がもれ、涙がこぼれて。出どころは、うちで。その様子に両親も驚き、うちとは話しあわず引っ越しを決めてしまい、後悔している雰囲気になった。そんな両親に気がついて、謝罪した。


「……ごめんなさい。うちが……気の迷いを……起こしたばっかりに……」


 けれど、両親も目を潤ませるばかりで。そんな中、すすり泣く声以外の沈黙を破ったのは弁護士先生だった。


「初音さん、引っ越しの件は立派な防御行動です。捲土重来――そう遠くない時期に戻ってくるための、一時避難と考えてみませんか? 実際に今回の件がいくつか出版会社へリークされ、それぞれの週刊誌で取り上げられる可能性が出てきました。仙台に居ては、その取材攻勢にさらされる危険性が高いのです」


 引っ越し以上に驚きの話に泣き声が止まる。弁護士先生も言葉を続けて。


「初音さんを襲った男子側も逆襲を警戒している――初音さんの証言に脅威を感じている表れでしょう。ですから、我々も力の及ぶ限り初音さんご一家の助勢になりたいと思っていますので、是非ご協力をお願いします」


 うちは既にうなずくことしか出来ないと思い知らされて。少し時間がかかりながらも、結局は引っ越しに同意した。そして……この日は一日、後悔に心を塗れさせて終わった。


   ◇◆◇


 明けて合宿八日目。合宿地には選抜メンバーだけが残り、ハードトレーニングに身体を張っていることに思いを寄せて。少し前の未来予想図では、うちもその輪にいるハズだった。そんな物思いに沈む時間をあまりもらえず。今日も弁護士先生が、長谷川さんを伴って病室を訪れていた。


「五十嵐さん、お元気ですか?」

「……どう、見えてるわけ?」

「お元気に見えます」

「――ちっ――」


 言葉とは裏腹にそれほど気にかけてるようには見えない長谷川さんの態度に、つい挑発で答えてしまう。それも気にすることなく、しれっと返答する長谷川さんに舌打ちが出てしまう。


「じゃれ合いも手短にしましょう。五十嵐さん、あなたに出頭要請が福島県警から出ました。無視はできませんから、数日のうちに被害届が出された合宿地最寄りの警察署へ出向かなければなりません。けがの治療を加味しても、延ばして三日後が限度でしょう。出頭すれば逮捕拘留も考慮せねばなりません。拘留の期間はざっと二週間にはなるでしょう。それだけの期間、五十嵐さんの行動の自由が喪失されますから、出頭前に遣り残しの無いようにする必要があります。何か遣り残しになりそうなことはありますか?」


 うちの悪態には取りつく島もない長谷川さんが良くないニュースを持ってきた。逮捕の言葉に身体が固まる。おかげで考えがまとまらない。


「急に言われてもまとまらないから、少し待ってもらえない?」

「……いいでしょう。明日の朝、また来ます。ただし、何をするにも準備期間が削られますから、あまり大掛かりなことは出来ないと、お心にお留め置きください」


 そういって弁護士先生を置いて長谷川さんは帰って行った。弁護士先生からは出頭する際の心構えから事情聴取や逮捕になった際のとれる言動など、様々な想定を時間をかけてレクチャーされた。


 その間、うちのやり残しを考えていた。昌幸君にどう釈明し、どう謝罪するかを。さらに、昌幸君にどんな表情で会えばよいかを――


   ◇◆◇


 浅い眠りから目覚めて合宿九日目。順調だったなら選抜組の中でレギュラーと補欠を試合形式で決めるハズの日。でも起こしてしまった事件のせいでスケジュールはどうなっているのか?――長谷川さんは知ってそうだけど、教えてはくれない。


「おはようございます。五十嵐さん、宿題は出来ていますか?」


 そして朝食が終わってすぐに長谷川さんが一人でやってきた。挨拶もそこそこに、やり残しの有無を確認する。


「……昌幸君に……会って……真実を伝えたい……です……」


 昨日から考えていた結論を、つかえながら伝える。そう――合宿地を単身離れたのは、このためだから。だけど長谷川さんは厳しい言葉をぶつけてきて。


「何をマー君にお伝えなさるのでしょう? それ如何では、協力できませんよ?」


 長谷川さんの声色は怒りを含んでいるように思える。曖昧にはさせないと言うように。


「……昌幸君に謝りたい……」


 だから伝えたい内容を、端的に長谷川さんに語った。でもそれは、長谷川さんをより昂らせてしまい――


「何を謝りたいと!――いえ、わたしが決めることではありませんでした。申し訳ございません」


 瞬間怒りをあふれさせたけれど、すぐ自らの過ちに気づいたようで、うちに頭を下げた。長谷川さんが全て決めてしまっては、昌幸君に誠実であるとは言えない。けれど長谷川さんの気持ちは分かる。うちが誰かに昌幸君との間を取りもつなら、昌幸君の心の安寧を優先するだろう。でも今回はそうではない。


「……うんん、長谷川さんが……昌幸君が大事なことは分かるから……」

「ありがとうございます。それで、いつ決行されます?」


 そうだ、それがあった。たった今、長谷川さんと二人、昌幸君が大事と確認しあったばかり。ならば、時間を置いてからというわけにもいかない。だから、しばらく考えた末に――


「……明日、会います……」

「分かりました。では、明日ここを退院して、その足で会いに行く――それで如何でしょう?」

「……うんん、退院は今日。それで長谷川さん、一晩だけ引っ越し前の自宅うちに泊まれないかな?」

「お宅に泊まる理由――いいえ、無粋ですね。そちらも了承いたしました。手配はお任せください。ただ……福島県警への引き渡しは、マー君との面会後で構いませんね?」

「……うん……」


 今日退院して明日昌幸君に会うことにした。そして一晩だけ自宅に泊まり……あるモノを探したい。何を探すかは長谷川さんには内緒だ。そのあたりの空気を長谷川さんは読んでくれた。知られても良いぐらいのささやかなものでしかないのは、長谷川さんも察してくれたんだろう。


 この会話の後は忙しくなった。退院のための検査や診療を次々にこなし、昼食を挟んで退院となった。退院の際にはお世話になった病院スタッフの方々に挨拶をさせてもらえた。


 そして長谷川さんは、うちが生まれてから住んでいた家にまで連れてきてくれた。もう引っ越しは済んでいる。だから、管理会社のスタッフという体裁で出入りとなった。こうして夜を迎え……何もなくなった自室の天井裏へと上がる。ここは両親も知らない、お転婆なうちだけの秘密基地。長谷川さんに持たせてもらった紙袋に、置いてあった品々すべてを詰めこんだ。もくもくと作業をしているうちに夜が明けた……


   ◇◆◇


 合宿最終日の今日、未だ合宿地に居るとに思われる時間に昌幸君を呼びだして。場所はうちの元自宅の近所の公園――昌幸君と、たびたび学校帰りに訪れた場所だ。その片隅の木陰でじっと昌幸君を待つ。時計の長針が四分の三ほど回転したところで、人の荒い息づかいが聞こえた。そちらを振りかえれば、昌幸君が膝に手をついて呼吸を整えていた。うつむき加減だから分かりにくいけど顔色は良くないようで、とても申しわけなく思う。


「……ごめんなさい。うちは……浮気をしました。昌幸君にふさわしく……なくなりました。だから――別れてください」


 昌幸君に会話のペースを握らせては、今日これからの予定はすべておじゃんだと思う。だから最初のエースはうちが決める――そんな意気込みで表情を作り、を伝えた。そして最後に別れの言葉を加える。


「……ダメだ……真相を知るまで、僕は別れない……」


 うちの言葉にショックを受ける昌幸君。わなわなと震える口からかろうじて言葉がこぼれ出る。その悲痛さに、うちの決心もゆさぶられて。でもリターンエースを決めさせて、うちの決心を揺さぶられるわけにはいかない。


「うちが浮気をした……真相はこれだけです……」


 決意が鈍らいうちにと、もう一度を伝える。ただ、もうあふれ出した水滴はとどめようもなくて――うちのほほにツゥーっと糸筋を作った。涙を見たからだろう――昌幸君がゆっくり近づいてくる。捕まってはいけないから、うちも歩調をあわせて後ずさった。ただ、こうしていてもらちが明かないことは分かっている。だから――


「別れてください!」


 昌幸君の顔を極力見ないようにして、強引に別れの言葉を吐きだした。そして踵を返すと後ろを振りかえらずに走りだした。治りかけのケガをかばいつつ、それでも出せる全力で公園の外へと向かう。幸いなのかどうなのか分からないけれど、追いかけてくる足音は最期まで聞こえなかった。


   ◇◆◇


「これで、良かったのですか?」


 公園から少し離れたところに路上駐車していた商用車に乗りこんだところで、乗っていた長谷川さんから声をかけられた。長谷川さんは手にしたスマホで、うちと昌幸君の様子を見ていたのだと思う。うちが逃げたときのために監視されていたから。

 今できる全力で走ったばかりもあったけど、とても答えにくい問いにしばらく黙ってしまう。それでも絞りだすように返事をした。


「……いいのよ……」

「そうですか」


 聞いてきた長谷川さんも二の句は出てこないようで、車内には沈黙だけがあった。ただ、いつまでも遠慮していてはとばかりに、長谷川さんが今日の予定を確認してきた。


「……では、遣り残しも済みまましたので、近くの警察署へ向かいますが、よろしいですね?」


 そう――うちは福島県警に引き渡される。一応、自主的に出頭する形ではあるけれど。福島県警のパトカーに乗れば、次に思うように行動できるのがいつの日になるかは分からない。だから肌身離さず持っておきたいものを、服のポケットに入れようと思い、長谷川さんに預けていた紙袋の一つをあさる。そして目的のモノ――写真とも呼べない、無造作に笑顔をカメラに向けるとある人物をプリントしたコピー紙一枚を取りだした。


「……うん、お願い……します……」


 うちの言葉を聞いた長谷川さんは運転席の男性に指示を出す。すると静かに車が動きだして。その間、うちは丁寧にコピー紙を折りたたんでいた。



――こうして、うちは昌幸君の前から姿を消した――

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