第12話 昌幸視点⑤

 秋季大会へ向けて強化合宿が夏休み終盤に行われると聞いて、デートのし溜めにと初音の家に僕はお邪魔していた。ご家族が遊びに出ているからと、初音に誘われるまま彼女の部屋でお家デートになった。デートの時間はほぼほぼ二人での運動に費やされた。


 ご家族が帰宅されると連絡が入ったところで二人で協力して夕飯を準備した。僕もご家族と一緒に食べて今日はお開きとなった。そして僕が帰る際の玄関で――


「明日からの合宿、頑張ってね。初音ならきっと大きい大会に出られるよ」

「……うん、頑張るよ……昌幸君が言ってくれるなら頑張れる」


 初音が抱きついてきた。


「だから毎日……必ずメッセージを送ってね」

「もちろん、忘れないよ」

「ぜっっっったい、だからね」


 初音がキスを強請った。僕は応じて初音の頬に唇を寄せたけど、顔を挟まれ口付けに変えられた。満足して顔を離したはずの初音の表情に少しの陰りが出ていた。けれど覆い隠すような満面の笑みに引きつけられ気付くことなく。初音に送り出されるまま、僕は家路についた。


 まさか、初音とのメッセージの遣り取りが、三日目の夜を最後に途絶えるとは思わずに……


   ◇◆◇


――伝えたいことがあります。すぐにでも会えますか?


 初音から再びメッセージが来たのは、合宿最終日とされる日だった。飾りも何もない都合伺い。初音の趣味を思えば、こんな固いメッセージを送る姿を想像出来なかった。とにかくと、受諾の意を返信して、落ち合う場所へ急行した。そこに居たのは、様子の一変した初音だった。


「……ごめんなさい。うちは……浮気をしました。昌幸君にふさわしく……なくなりました。だから――別れてください」


 ぼさぼさの髪にくまのできた目の周り。食べていないのか少しやつれた様子の初音は、頭を下げ開口一番にを告げてきた。予想だにしなかった初音の言葉に僕はガンっと大きな衝撃を受けた。全ての思考が停止するほどに。


「……ダメだ……真相を知るまで、僕は別れない……」


 辛うじて口に出来たのはこれだけだった。だけど初音の様子に変わりがなく。


「うちが浮気をした……真相はこれだけです……」


――と、言葉を吐いた瞬間、顔を上げ――全てを諦めた瞳に、大粒の水滴を宿して。初音の様子にやっと危機的事態と理解して、僕は近寄ろうとした。けど、初音は近づくだけ後ろに退すさり、終いには――


「別れてください!」


 言葉だけ置いて走り去った。対して僕の足は地面に縫い付けられたように動けず、この日初音に追いつくことは叶わなかった。


   ◇◆◇


 それから二日後、警察が聴取にやって来た。初音に切り出された別れを、飲み込みも吐き出しもできなかった僕のところへ。


「佐々木さんが五十嵐さんと最後にお会いになった日、何を話されましたか?」

「……彼女から、別れ話を切り出されました」

「では、誰かを恨んでいたり、誰かを傷つけたいと思ったり、そんな話は――」

「ある訳ないでしょ! 初音は! そんなことできる娘じゃない!」

「そうですか。実はですね――」


 テニス部男女合同の強化合宿期間中に、初音は傷害事件を起こしていたらしい。相手は男子テニス部の生徒。彼氏が相手をしてくれなくなったから抱いて欲しい――そう持ち掛けられ関係を持っただけなのに、と逆恨んでテニスラケットで殴打された。そう訴え出られた初音がラケットを使い相手を威嚇したことは認めたため、現在はその裏付けが中心だと教えられた。


「初音に、会うことはできますか?」

「今は留置場だったか? まあ、無理だね」


 聴取に来た警察官にお願いしてもすげない返事で。あの日追いかけなかったをとても悔やんだ。とにかくと初音の家に行ってみたが、ご家族は不在にされ。何日か通ってもみたが家に誰かがいることもなく。たまたま通りかかった隣家の人に尋ねたら、もう引っ越したと言われた。その様子はひどく慌てていて、荷物も少なかったと。


 ミーちゃんを通じて――長谷川家なら初音に会わせてもらえないかと期待し、ミーちゃんを訪ねたけれど先んじて――


「会わせるなんて約束、できないわよ。例えマー君の頼みでも、ね」


 初音に会う手段は断たれてしまった。失意のうちに時が経ち、一通の差出人住所のない手紙が届いた。差出人の名前は初音だった。


――もう二度と会うことはありません。うちのことは、忘れてください。


 たったそれだけ書かれた便箋に、僕は激しく泣いた。だから反省して決意した。次に一緒に居たいと思った女性ひとを決して手放してはならない、と。


――でもそれは、愛ではない。エゴだと、自ら気付くことはなかった。



   ◆◇◆◇◆



 まさか僕の手を弾くなんて――花織の強い拒絶に僕は動揺した。手放さないと握った手を振り解かれてしまう光景が脳裏にフラッシュバックし、恐怖の表情が浮かぶ。

 そのイメージに浮かび上がる僕と花織のたくさんの関係性を表すワードたち。それらが最新の関係性から順に剥がれスーッと空間に消えていく。


 家族が――夫婦が――婚約者が――恋人が――友達が――似た者同士が――


 最後に残ったのは――戦友。その戦友も剥がれ消えかけた時、僕の表情は色を失くし、右目から一条の涙が筋を引いた。それまで睨むように僕を見ていた花織が、困惑へと表情を変えていた。


――そうか、僕が本当にもう一度花織と築かなければならない関係は。

――そうだ、僕が本当にもう一度花織と戻らないといけない関係だ。


 崩れ終わりかけた僕の意思が少し巻き戻る。花織に――否、花織と一緒に、確かめなければならない――否、花織と一緒に、省みなければならない――否、花織と一緒に、反省しよう――なら――


「ごめん、花織。僕は、僕の夢に固執していた。ごめんよ」


 急に謝罪を始めた僕に、花織はオロオロとし始めた。方向性を急転換した僕と、どう係われば良いか見当もつかない様子を見せる。


「僕は、僕なりの愛の形に拘泥していた。ごめんよ」

「僕は、僕への不満を伝えない花織に甘えていた。ごめんよ」

「僕は、一人反省して、それで良しとして押し付けていた。ごめんよ」


 花織の表情はますます混迷していた。僕の謝罪が届いているかは分からない。けれど言葉という形にしなければ伝わらないと思う。これまでのような身勝手エゴと区別がつき難くとも。


「こんな僕だけど、花織と出会った時の敗戦の友に立ち戻って、僕の身勝手を、僕たちの間にある問題を、花織と一緒に反省したい。反省して花織と共にもう一度戦いたい。だから花織――良ければ、この手を取ってみないか」


 ほんの少しの笑みを浮かべ、僕は右手を差し出した。力尽きるか、花織が手を差し伸べてくれるまで――


   ◇◆◇


 僕のこの手が力尽きる時、花織の望みを受け入れる。提案した時から、そのつもりになっていた。花織に委ねるのではなく、僕の選択として。

 お互いに無言で刻が過ぎる。僕は花織全体を見て、花織は俯き加減に僕の手を見て。

 長針が円周の三分の一を駆け過ぎたころ、いよいよ寝不足に喘いだ腕から力が抜け掛ける。徐々に活力を失い、手が落ちようとした時――花織の手が伸びて、僕の手を取った。そして真面マジな顔をした花織が、僕の目を見詰めてきた。


「私はズルい女です。それでも戦友に欲しいと?」

「戦友には時に戦略ズルさが欲しいよ。ふふ、共倒れにならないためにね」

「私はさかしい女ですよ。また、昌幸さんを騙すかもしれません。それでも戦友だと?」

「敵を欺くには見方からとも言う。頼もしい戦術を持ってるじゃないか。それでこそ戦友かな」

「私は自分さえ裏切る女ですよ。抱かれながら言い訳を考えていたのです。それでも横に並び戦うに値すると?」

「僕や幸花を護ってくれたのだろう? 盾になる理由も方法も、どんなものでも良いさ。次の時は僕を生贄にするほどでも構わない」


 問答を経て花織はしばらく黙った。おそらく花織自身の落とし所を探っているのだろう。だから花織の答えを僕は待つ。また、お互いに無言で刻が過ぎる。先程と異なるのはお互いに相手の顔を見ていることで。


 不意に取られた手を引かれ――花織は僕の腕の中に身体を沈め、額を首元に押し付けていた。


「昌幸さんは馬鹿ですよ。こんな女を放り出さないなんて。また同じ目に遭って、酷い思いをしても知りませんよ」

「馬鹿は元々さ。花織を放って置く選択肢なんて僕からは出ないよ。花織の助けになるなら、後ろから撃たれても本望――」


 僕の口は花織の口で塞がれた。花織から唇を割り舌が這い回る。応じて舌を吸いこちらも唾液を送り込んだ。お互い息が続かなくなる頃に唇と唇が離れ――間に逆さの虹が架かった。


「昌幸さん、気分が悪かったり、吐きたくなったり、してません?」

「いいや。もっとシたい気分だ」


 パートナーに浮気をされると、パートナーを見たり触れたりしただけで、吐き気を催したりと悪い症状が出るというが――花織と悪魔を待ち構えていた時の気持ち悪さは無くなっていた。また僕は花織に甘えがあったと省みる。


「なら、大丈夫ですね。私も一人反省して、誤魔化せると取り繕うのは止めにしますから。これからは、何かあったらに押し付けますから、覚悟してくださいね」


 にっこりと花織が笑みを見せた。どうやら僕は一生花織に頭が上がらない――そんな予感をさせる綺麗な笑みだった。


「――はふぅ、気が緩んだら、眠くなりました。少し眠っても良いですか?」

「寝入る前に水を飲んで……うん、OK。それじゃ久しぶりに寝顔を見せて貰おうかな」

「いたずらしちゃ、ダメ……」


 途端、欠伸を見せた花織が瞳をトロンとさせうとうとし始めた。一晩飲まず食わずは良くないと、マグカップに入れていた水を飲ませる。それから花織をベッドに横たえさせ、睦言を話し合ってる途中で花織が眠りについた。

 このまま隣で横になっていたいが、花織と良い再構築を確実にするためにも、協力者を募らなくてはならない。そう思って内心おかしく感じた。もしも花織とは別離すると決まっていたら、たぶん単身で羽田野を――

 不意に頭を過った暴行の絵面を、激しく頭を振って自分の内から追い出す。初音、どうやらそちら側へ行けないらしい、ごめんな――憎いからといって犯罪行為に手を染めないことを心に誓った。


 五分ほど花織の寝顔を眺めてから、僕はリビングの寝床を片付けに戻り――リビングの床に座り、スマホを取り出した。そして方々へ連絡を入れ始める。その一つは佐久間くんだった。


「やあ、佐久間くん……そうだね、五日ぶりかな……何とか良い落し所になった、いや二人で辿り着けたよ……ありがとう。それでさ、頼みたいことがあるんだ。聞いてくれるか?……重ね重ねありがとう。それでさ、あの時のプロジェクトには貸しを作った取引先あっただろう?……」


 佐久間くんとは羽田野を退ける悪巧みを相談して通話を切った。


   ◇◆◇


 花織が見覚めたのは午後二時を回った頃だった。まずはシャワーを浴びて貰い、いつも通りの服装を着て貰って、花織を連れて母さんの住む家に向かった。預けっぱなしの幸花の様子を見ると共に、幸花へ授乳をするために。幸いにして幸花がぐずっていることもなく、花織に抱かれてすぐお乳を求めてくる。幸花に胸を吸われる花織は、喜びに満ちた顔をしていた。


 幸花はお腹いっぱいになると満足して眠りについた。花織は母さんから小言をもらうと戦々恐々だったようだけど、母さんは咎めることもなかった。ただ一言――連絡だけは入れるように――叱責らしい叱責はそれだけだった。


 続けて花織と向かったのは、幸花の出産でもお世話になった産婦人科病院。花織に新たな妊娠の兆候がないか確認のために訪れた。ただミーちゃんの伝手で予約しているためか、細かい問診などは素っ飛ばして尿検査や超音波検査が行われる。この日の検査では妊娠の兆候は確認できなかった。


 次回月経予定日の一週間後に予約を入れて貰い、幸花を迎えに母さんの家に向う。検査が終わった頃には日も暮れていたから、母さんのところで夕飯を食べることにした。母さんの家にたどり着けば幸花は目覚めていて、早速お乳の催促を始めた。幸花の変わらなさに花織が笑みを浮かべたから、僕は今日至れた反省で良かったんだと安心感が持てた。


 幸花がお乳を飲み終わるころに夕飯の用意が出来た。今度は幸花も寝入りはせず、僕らの夕飯に興味を示し騒ぎ出すところを、母さん含め暖かく見守った。一頻り騒いだ後はスヤスヤと寝息を立て始めたから、母さんの家をお暇した。我が家に戻れば、親子三人で翌朝を迎えた。


   ◇◆◇


 今日は一旦秋田へ戻ることになった。来週また仙台に現れそうな羽田野から、花織と幸花に身を隠してもらうための準備をするから。この方針は花織と話し合って決めた。花織も羽田野の顔は見たくないそうで。なお、仙台での羽田野の動向を掴むため、ミーちゃんのとこのセキュリティ会社に調を依頼している。


 そして早朝、花織の見送りで仙台駅にやって来た。まだ気温も低い時間なので、幸花は母さんに預かってもらっている。新幹線の切符を買い、改札を通過する。花織にも入場券を渡し、ホームまで付いて来てもらった。花織は見送りの後、英会話スクールに出勤する。羽田野の手口から英会話スクール勤務は、羽田野に知られている可能性大と花織と結論がつき、一度退職しようとなった。


 新幹線ホームの秋田行車両が停車する付近で花織へと振り返る。今日のうちに直接話すのは今が最後になるからと、花織の耳に口を寄せて――


「すぐ次の週末に迎えに来るよ。秋田へ行ってからになるだろうけど、ゆっくりと花織を愛したい」

「でしたら、一つ約束していただけます?」


 花織とイチャつけず溜まったフラストレーションは僕にもある。その解消を期待してると口にしただけなのだが。


「どんな?」

「愛称で呼ぶ女性は無くしてください」


 花織に嫉妬心を巻き起こさせていたことに、内心で額に手を当てた。ミーちゃんのことは、つい先ほどまでミーちゃんと呼んでいた。こんなことにも気付いてなかったとは――僕の反省点の多さに目が眩む。えーと、水琴、水琴っと。でも、それならさ――


「……うん、了解した。でもさ、花織もアイツをまだくん付けだよな?」

「あっ……私も、承知しました。反省します」


 花織も気付いてはいなかったらしい。しゅんと肩を落として見せた。間抜けはお互い様のようだ――どちらかともなく苦笑いがこぼれ、それが声を大にした笑いに変化する。久しぶりに花織と、心の底から笑い合いえた。


 ホームに秋田行と併せて青森行き新幹線の到着がアナウンスされる。ここが公共の場であることを忘れたように、僕と花織は抱きあった――新幹線が到着し、仙台で降車する客たちが全て車両から吐き出されるまで。

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