第13話 花織視点⑦+α(最終回)
昌幸さんと再出発する切っ掛けになった出来事から凡そ二年の月日が流れて。私こと佐々木花織は、欧州の一角を昌幸さんと共に訪れていた。もちろん愛娘の幸花も一緒に。
今、私たち家族の目の前には、田一杯の稲が風に揺らめいている。幸花が必死に手を伸ばし、揺れる稲穂を手に取ろうとして――バランスを崩した。
「幸花、大丈夫ですか?」
「……うん、だいじょぶ。かかさま、あれ」
私は咄嗟に幸花の手を取り転倒を防いだ。けど心配する私を余所に、好奇心で一杯の幸花は稲穂を指差す。稲穂に触ってみたいのだと思う。でも目の前の稲たちは大事な商品――許しを出して良いのか、私は迷ってしまったのだけど――
「はい、幸花。これをどうぞ」
昌幸さんが落ち穂を拾い、幸花の手に持たせる。幸花はジッと穂を見詰め、疑問をぶつけてきた。
「ととさま、ごはんより、おおきい。ちがう?」
「これはお酒のための稲だよ」
「おさけ?」
「ん-、大人の飲み物、かな」
ここには酒米の稲が植えられていた。昌幸さんが今携わるプロジェクトに係わる作物で、日本以外の国での生産に目途が立ってきたらしい。らしいと言うのも、農作物の育成について私は詳しくないから。それでも実りの秋を迎え、稲穂が
「こはな、のめない?」
「幸花は大きくなったら、ね。お父さんが飲ませてあげるよ。その頃にはきっと美味しい飲み物になってるからね」
「うん、ととさま、ゆびきりー」
幾ら強請ろうとも、幸花にアルコールを飲ませられない。昌幸さんはやんわり断って、代わりに将来の約束をしていた。昌幸さんが幸花と小指を絡め合い――
「ゆびきり、げんまん――」
幸花も指切りが出来て今は満足らしく、昌幸さんに大人しく抱きかかえられた。私は乗ってきた車に向かう二人の背中を追いかけ、あの日昌幸さんと反省を共に出来たことに感謝しつつ、今ある幸福を噛みしめた。
◆◇◆◇◆
昌幸さんと共に反省した日の週末、昌幸さんには始発で仙台に戻って貰った。あらかじめ仙台駅へ来ていた私と幸花は昌幸さんと合流して、すぐの秋田行に三人で乗車して秋田へと向かう。
私と幸花だけで秋田へ向かう案は出たものの、仙台から秋田までは新幹線一本といえど、幸花には二時間を超える長旅だからと選択肢から消えた。幸花の世話や目の離せなさを考えれば、大人二人がいるのが理想だから。
そして夕暮れの秋田で受けた、水琴さん家のセキュリティからの報告に驚愕することに。何と私たち三人が乗った秋田行で、問題の羽田野くん――オホン、羽田野が仙台にやってきていたという内容だった。
正確には、秋田行に併結された青森行に彼は乗車していた。青森行で一番乗り心地の良い車両を利用していたため、もっとも秋田行に近い車両に乗る結果になっていたのだと。つまりニアミスしていたと。
念のため、彼には見せていないハズの化粧を施し、辛かったけれど胸にはさらしを巻いて小さくしていたためか、彼に見つかることはなかった。もしも見つかっていたならと想像して、昌幸さんと一緒に肝を冷やした。
私への連絡は昌幸さんのスマホへ――必要な関係者には昌幸さんの電話番号を伝えて、私のスマホは電源を切った。だから彼が仙台を去った後だろうという日に電源を入れてみたら、着信件数に驚愕してしまった。なにせ全ての履歴が彼の番号だけで埋まっていたのだから。
慌てて電源を切り、当分電源は入れられないと覚悟を改めた。この僅かな時間に着信音がしなかったことに、安堵したのは当然だと思う。
そして昌幸さんと相談して私用をもう一台契約することにした。数日過ごしてみて不便だと感じたから。新しい電話番号は、昌幸さんの電話番号を教えていた人たちにだけ伝えた。
それと仙台で勤めていた英会話スクールは一度退職した。私について知らぬ存ぜぬを貫き易くして貰うために。成り行きで、私への家庭教師依頼がストーカー紛いの人物からだったと、スクール側に語ったところ大騒ぎになった。
ここを紹介してくれた長谷川家が撃退に協力してくれた旨を話して、所内の騒ぎは沈静化した。ただ報告は早くと諭されてしまい、頭を下げ通しで。ついでに本人確認は厳重化すると、所長は息巻いていた。
秋田での私と幸花は、昌幸さんとは寝泊りを分けた。昌幸さんの住処は一人用と手狭で複数人での長期滞在に向かないこと、T商事秋田事務所の職員が知っていることが主な理由。無理をして職員に知られて、羽田野にまで伝わっては元も子もない。
では、避難してるアパートに缶詰かというと、それはなく。仙台より車必須な秋田だから、学生時代に取っただけの運転免許だったけれど、これを機会にと車の運転に精を出して秋田の地理を覚えた。
車の運転を始めると田沢湖へ好く行くようになった。昌幸さんと交代で運転し、幸花が気に入った鳴き砂の浜へ。有名になった昔ほどは鳴かないと言われるものの、当たりを引けば音がする。幸花がその音を気に入り、当たりを引けと私や昌幸さんに催促する。とにかく歩くから私も昌幸さんもへとへとに。そんな私たちを省みず待ち疲れたと幸花は寝てしまう。そんな幸花の様子に昌幸さんと二人笑みを零した。
そんな家族の思い出を積み重ねて一月ほど経った頃、水琴さん家のセキュリティから再びの報告が上がってきた。私が失踪したと思ったらしい羽田野が、なんと警察に行方不明者届を婚約者として届出た。既に婚姻している私の婚約者……気でも狂ったのだろうか?
この届はあやうく受理されそうになった。受理されていれば、私が行方不明者として警察のデータベースに登録されるところだったのだ。水琴さん家の親族が、たまたま届のあった署で働いていて気付いたと言う。長谷川家への借りが悪魔の捕縛に続いて増えてしまった。
そう、悪魔といえば――
「カニを捕りに北の海へ行ったわよ。もう会うことはないわね。安心よね?」
水琴さんとビデオ通話をした際、こんな言葉で行方を教えて貰った。カラカラと笑いながらだったけど、とても冷え冷えとした声色だった事も記憶に新しい。つくづく水琴さんの苛烈さを身に感じた。
結局のところ彼は警察への偽計業務妨害罪で取り調べを受けた。故意とは立証できず微罪処分として処理され、釈放された。本人はそれで助かったと思ったかもしれない。けど、慌てたのは東京の羽田野家のようで、これ以上仙台で恥を晒すなと連れ帰られたという。微罪とはいえ記録に残されるから、次があれば警察も手厳しくなる。そして同時期に――
「乾杯だ、佐久間くん」
「献杯だ、佐々木くん」
「誰に献杯なんだ?」
「もちろん、ヤツに、だよ」
昌幸さんと東京本社で一緒に仕事をした仲の佐久間さんが、秋田の私たちをわざわざ訪ねてくれた。昌幸さんと佐久間さんとで仕掛けた彼への罠、それが上手く効いた事を祝いたいとの話で。
「Fフーズの小田桐専務も堪忍袋の緒が切れたようだ。東京本社の件といい、仙台支社の件といい、羽田野専務やアヤツには愛想が尽きたとさ」
彼により被った迷惑で話が一盛り上がりした後で、作戦を簡単に佐久間さんが説明してくれた。
これまで羽田野専務により負債を膨れ上がらせた取引先があり、昌幸さんと佐久間さんの尽力で良い結果が齎された。この事で二人に借りが出来た認識し、仙台のプロジェクトを昌幸さんが担当しているからと紹介を受けて参画していた。しかし、とうの昔に昌幸さんが外されたことが伝えられず、その事実と外した人物を佐久間さんの好意で教え聞かされた。そして外した人物に立腹した。佐久間さんがやったことは、有力取引先を焚き付ける事だった。
昌幸さんをプロジェクトから外した彼は更に調子に乗り、昌幸さんの息のかかった担当を全て外してしまう。そして彼の
終いには何故か人探しに奔走して仕事を放り出してしまう。業を煮やした取引先たちから、羽田野専務のライバルである宇佐美専務へと相談が上がり、羽田野専務が息子の失態をライバルから仔細に知るに至ったというわけで。
東京へ連れ戻される彼は、婚約者を助けられるのは自分だけだと、大騒ぎして抵抗したという。
――もしかしてブレーンとは、義兄だという、あの悪魔のこと?
――もしかして婚約者とは、私?
――それで警察沙汰も起こしていた?
横で会話を聞き、時にお酒やつまみを補充していた私は、彼のダメさ加減が想像以上だったと思い知った。彼の頭にはおっ……胸の事しかないのだろうか?――彼に堕ちそうだった自身に、頭が痛い思いだった。
「東京本社の地下フロアに席を与えられたようだ。二度と陽の目を見ないだろう。これで仙台に戻れそうだな?」
「どうだろうな? しつこいのだろう? そんな席の仕事などに、見向きもしないんじゃないか?」
「ふむ……それもそうか。噂レベルにはなるが、クレジットカードなどをヤツから専務が取り上げたそうで、大金はおいそれと使えない状況とは聞いた。それでも仙台に現れるなら、バケモノなんじゃないか?」
酔いも手伝ったのだろう、そう言って呵々大笑の佐久間さんに昌幸さんも釣られて愛想笑い。私は笑うどころか顔を引き攣らせるだけで。彼が生きるうちは、普通の自由がありえないのだろうか?――そんな思いが心を埋め始めた。けれど――
「ま、近々T商事は辞める。辞表は受理されたから、来月末でおさらばだ」
「ほう。その後はどこへ?」
「花織と話し合って決めた。次の戦地は海外にしようって」
「おお、それは重畳! 個人貿易か? それとも?」
「僕の父が、友人たちと作った小さな地方の商社だよ。一応仙台に本社がある。そこの海外事業で人手が欲しいから、来ないかって誘いがあったんだ。聞いた通りなら、海外までは追って来れないだろう?」
そうだった、私は昌幸さんと戦地を転戦する仲間。だから昌幸さんと彼の現れない戦地を選び、共に戦いに行くだけだ。
「奥さんはどうする?」
「もちろん一緒さ。な、花織?」
「はい、幸花も含め家族で向かいます。昌幸さん、海外の言葉は英語以外話せませんから」
「おいおい、佐々木くん。そいつは商社マンとしていただけないな」
「ははは、僕は何とか日常会話を熟せる様に頑張るけど、深い会話はその道のプロにお任せするだけさ。何せ背中を預け合う仲間だから」
昌幸さんの嬉しい言葉を聞きながら、彼には二度と屈しないと心で誓う。
――ふあぁう!
「お、娘御がお目覚めのようだな」
幸花の目覚めの第一声に反応したのは佐久間さん。ベビーベッドに優しい視線を送ってくれる。
私は立ち上がり、ベビーベッドに近づいて幸花の様子を見た。おむつを触ると排泄の感触はない。ならお乳の催促だろうか。
「おっ――ごはんの催促のようですね」
つい日常の様に様子を伝えようとして、客人の存在に気付き、言葉を変えた。それに一早く佐久間さんが反応して――
「おっと長居したようだな。佐々木くん、家族団欒の時間まではお邪魔できない。お暇させてもらうよ」
「気遣いありがとう、佐久間くん。いつか埋め合わせはさせて貰おう」
「期待しているよ。では奥方、ぼくはこれで失礼する」
昌幸さんと握手し、佐久間さんは本日の会をお開きにしようとしている。
「今日はお尋ねいただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、美味い酒と肴を馳走になった。奥方もお元気で」
「はい、佐久間さんも健やかでありますよう、お祈りしています」
「では佐々木のお姫様、すくすく大きくなられよ。きっと美人になろうぞ」
「幸花にまで声を掛けてくれて、ありがとう」
「ヤツから逃げ切ること、期待している。ではな」
陽気な後姿を見せ、佐久間さんは東京へと戻って行った。
それからは、昌幸さんがT商事を退職する日まで、海外へ旅立つ準備に奔走した。私と幸花の住んだアパートは昌幸さんが退職した日付けで解約し、その晩は家族三人で秋田市内のホテルに一泊。そして翌日、秋田空港から中部国際空港へ、中部国際空港から欧州はパリへ向け、昌幸さんと私と幸花で機上の人となった。
◆◇◆◇◆
「幸花は寝付いたかい?」
子供部屋の扉を閉める私に昌幸さんが声を掛けてきた。
「はい。しばらく――数時間は静かかと」
幸花は寝付いたと答えると、ソファーに座る昌幸さんが手招きする。
「花織、これまで僕らの戦地は三人だった。どうだろう? 四人の戦地へ旅立ってみないか?」
「私も幸花が弟妹を知るには、良い頃合いと思います。ですから行ってみましょう、次の戦地へ」
私がソファーに辿り着くと、昌幸さんから提案された。子を増やそうと。生命に興味を抱いた様子だから、幸花も歓迎してくれるだろう。
「それじゃ、ここからは大人の時間。いいよね?」
私の腕を引き、抱き寄せて昌幸さんの膝上に座らされた。私がコクリ頷くと、胸に手が伸びて――ゆっくりと形を変え出した。私も次第に気分が高揚して――
「昌幸さん……キスを……下さい」
私のお強請りに、昌幸さんは抱き抱えの姿勢を変えて、私に口付けをくれた。口付けは浅き啄みから深き口吸いまで網羅して。同時に胸へと伸びた手はピンポイントを的確に攻める。じんわりとする水気が次第に腹部を潤す――そんな感覚に私は身を委ねた。
「もう、
返答とばかりに、私は昌幸さんの首の付け根を音を立てて吸った。私をしっかり抱き抱えた昌幸さんは、ソファーからベッドへと移動し、私をベッドに抱え下ろした。そして私から夜着を剥ぎ取り、昌幸さんは私の上に覆い被さった――――
――第二子を授かったと知ったのは、それから数か月して日本に戻る数日前のことだった――
◆◇◆◇◆
ボクは待ちわびていた、この日を。小野寺さん――花織が
◇◆◇
曇天が分厚く天空を覆う。けれどボクの心は晴れやかだった。何せ花織がボクの下へ戻ってくるから。
大きさ、形、色、艶、匂い――すべてが満点の花織の胸を早く堪能したい――そんな希望を胸に躍らせ、雨予報を気にも留めず扉を閉めた。かれこれ二年以上暮らしたマンションだから、それなに愛着もできたけれど今日でお別れ。花織を出迎えたら、生活は一変する。何とか金銭をやりくりして揃えたマイホーム。そこで花織と二人きりで一生を過ごすの――
「羽田野、君」
ウキウキでマンションから地下鉄の駅まで歩いていると、気分を遮るように呼び止める声がした。呼び止めた彼女は――大きさ普通に興味を持てず、横を通り過ぎようとした。けれど彼女はボクの邪魔をする――目の前に立ちふさがる姿にため息が出る。
「山之井さん? どうかしたの?」
仕方なく声をかけた。彼女は東京本社の秘書課付き総合案内の係長。たしか花織の元上司だったはず。
「羽田野常務から聞きました。羽田野君が勘当されたこと」
「ああ、そのこと? ボクはこれからの新しい生活で忙しいからね。実家のことには付き合いきれなくてね。だから都合もいいし、勘当を受け入れたのさ」
まあ、実家のことは弟にでも任せればよいし、ボクの最優先は花織だからね。だけど、僕の言葉を聞きながら、彼女はどんどんとその表情を歪ませる。
「どうしても……どうしても、あの小娘が、良いのですね?」
「山之井さんが、何を言いたいのか、分からないのだけど? 花織が山之井さんに、関係あるの?」
確かに父さまから山之井さんとの婚姻を薦められていた。でもね、普通サイズでしかないおっぱいで形も色も悪く艶の無い
内心でおっぱいの流儀を考えるボクをよそに、彼女は両目から滝のように涙を流していた。その様子にきょとんとしていると、突然彼女は声を荒げ――
「羽田野君が、わたしのものにならないと言うなら、いっそ――」
ボクに向かって跳び込み――予想していなかったボクは彼女を胸の中に受け止めるしかなかった。そして直後に脇腹から体すべてへ激痛が駆け抜ける。それはボクから力を奪い、ボクは仰向けに路上に倒れた。
ポツンと立ち尽くす彼女の右手には、朱を散りばめられた鈍色。そして不意に大粒の雨が降り出し、倒れたボクも立ち尽くす彼女も瞬く間にずぶぬれになっていく。何故こうなった――花織助けて――様々な思考が駆け巡るけれど、どんどん冷えていくボクの身体に引きずられ徐々に弱まっていく。
ふいにカランと乾いた音がした気がして、そちらに視線を向ければ、真っ赤に彩られた刃物が転がっていた。それがボクの目に映った、最期の記憶だった――
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