第11話 昌幸視点④
「……意味が、分かりません」
この期に及んで惚けている――花織にその様子は見られない。
「花織の言う悪魔がAM大に紛れ込んだ人物だというなら、大学生活に慣れがあったと思える。なら本当に属していた大学があって良いハズだ。花織は、その大学を知っているか?」
「……いいえ、知りません」
もう一度念を押すように尋ねるが、花織はやはり知らない様子だった。
「彼と婚姻したミーちゃんによれば、NN大だそうだ。花織が出会った頃には卒業していたらしいが……」
花織は狐に化かされたような顔をしていた。花織を支配していた頃のチャラ男が大学に通っていた形跡は、花織の話の中で出てはいなかった。花織の中でも一つの合点がいったのだと思う。チャラ男は確かにヒモ生活だった訳だから。
「そして僕らは他にも、NN大出身の人物を知っている。僕らに色濃く係わってきたヤツだ。誰か、分かるな?」
同じ大学出身者が他に、しかも花織も知ってる人物……花織も心当たりを探し始めた顔をして……
「羽田野充彦、僕らの同期にして、僕らに多大な迷惑を掛けていた男だ」
ミーちゃんから手渡された写真に写っていたのは、花織とチャラ男――そして、羽田野。花織とチャラ男を背後から撮影した写真。その中には二人を尾行する男も写っていた。男は、羽田野だった。
花織の中でも点と点が繋がり、一つの可能性に思いあたったのだろう。次第に泣き顔へと変わっていく。
「羽田野は――花織が言う悪魔の通った大学の後輩だ。T商事で羽田野と同じくNN大を出た僕らの他の同期にも確かめた。少なくとも同じサークルの先輩後輩という関係で、一年違いの入学だったそうだ。だけど羽田野の出来が悪く、大学卒業までに二留しているらしい」
僕の話に耳を傾けながら、花織は大粒の涙を零し始めた。この夜、三度目の嗚咽を静かに漏らし始める。
「それに、花織は悪魔の名字を江里口と呼んでいたが、ミーちゃんが出した婚姻届けでは…………羽田野だったそうだ」
ミーちゃんたち長谷川家もチャラ男を調べたそうだ。チャラ男の手口に裏の住人の臭いを感じたらしい。偽名や成りすましの可能性は疑っていた訳だ。
偽名であることを知った花織の嗚咽は、号泣に変わった。そして再び――
「アアアアァァァァ! ゴメンナサイ――ゴメ、ンナサイ――ゴメンナ、サイ――」
花織の様子を見て、当分泣き止まないだろうと思い、僕は見守ることにした。次第に勢いは無くなっていったが、すすり泣きが止むことはなく、花織が力尽きるまで続いた。
泣き疲れてソファーに凭れた花織を、若干の戸惑いはありながらも、抱き上げて僕らの寝室へ運び、ベッドへと横たえた。花織の着衣を少し緩め布団をかけようとした時――
「……昌幸さん、ごめんなさい……」
花織が寝言を発した。その寝顔がだいぶ老けたように見えて、あらためて花織を眺めた。今の今まで僕は気付けていなかった――花織がやつれていたことに。元気付けようと手を握り返そうとして、今の気不味い状況を思い返し諦めた。花織に布団を掛け直して、寝室を後にした。
◆◇◆◇◆
童顔気味でぱっちりした瞳の子供のような愛らしい顔付きながら、出るところは大きく出てそれでいて引き締まったところは細い。僕がとても気に入った、花織の容姿を説明すればこうなる。遍くとは言わないが、かなりの数の男が好みとする容姿だと思う――贔屓目だとしても。
二人で入社したT商事での花織は、普段から男っ気を出さない。それもあって人気男性社員から好意的に接遇されるから、多くの女子社員に反発された。その花織に僕が助け舟を出すと、言い寄る男性もほぼいなくなり、女子社員との関係も好転した。だけど、とても諦めの悪いヤツがいたんだ。
僕や花織と同期入社の男子、羽田野充彦は花織をとても気に入ったらしい。花織を知るや否や、セクハラに等しい声掛けが常になっていた。助け舟を出した時、一緒に大人しくなったと思ったが、僕をやっかんでブラックプロジェクトへ充当する後押しをしていた。羽田野の父はT商事の専務取締役の一人で、権力を笠に着た当てつけだった。
残業や休日出勤が激増した僕は、花織との関係を前進させる余裕が無くなった。それを見越していたのか、羽田野からのアプローチが復活してしまった。これに花織の心が参り出し、僕は僕で肉体的に参り始めてしまった。僕の両親が上京した時に、花織の夢を尊重して婚約まで押し切らなかったことを、内心で後悔していた。
それでも何とかプロジェクトの結果を出し始めた矢先、僕を支社へと異動させる話が急浮上した。今度は物理的に花織と僕を離してしまおう――羽田野が作戦を練ったらしいとの噂が耳に届くようになった。
仕事に係わる夢について父と交わした言葉もあって、T商事を簡単に辞める選択肢は積極的に選びたくない。そんな状況で父が病いに伏せ、余命少なしとの話を聞くに及び、東京に拘ることを止めた。仙台への異動話に乗り、故郷に戻ることにした。
そこで挨拶したい人物が東京本社内に一人いた。だから彼を仕事帰りに居酒屋へ招待した。しばらく酒を酌み交わし、肴に舌鼓を打った後――
「済まない、佐久間くん。プロジェクトが完了するまで後少しだってのに……」
「ふふ、気にしないでおくれよ、佐々木くん。君と一緒に戦えて、よい経験になったよ。けど、災難だったね?」
「……佐久間くんも気付いてたか?」
「……それどころか、羽田野が自慢しに来たさ。おまえと同じにしてやるって、ね」
「……それって……」
「……ああ、羽田野に奪われた。ぼくの
「……佐久間くん……」
「こちらこそ済まない。しんみりした空気を作ってしまった。佐々木くんは気にしないでくれ。ぼくのことは過去のことだからさ。反撃しようとして、今のポジに甘んじてる愚かな男なのだし。ただ佐々木くん、君にはぼくの二の舞になっては欲しくないと思ってる」
「……佐久間くん……ありがとう」
「佐々木くん、あいつはしつこい。どうか、気をつけて欲しい。もし困ったことがあれば、頼って欲しい」
「重ね重ねありがとう、佐久間くん。その時は商社マンとして頼らせてもらうよ」
「了解だ、佐々木くん」
この会話はブラックプロジェクトのもう一人のメイン担当者、
また花織も職場の雰囲気を好転させ直すことを諦めていたから、僕について仙台へ行くことに同意した。ついでに――
「気持ち悪い彼と縁を切れるなら、良い話です」
そう言って疲れた表情を無理に笑みへと変えていた。
父への手向けもあり、仙台に戻った後には花織と結婚し、子作りに精を出した。その甲斐もあって、父が亡くなる直前には、花織の妊娠報告が出来た。死を色濃く予感させる表情の父に、破顔してもらうことが出来たのは、親孝行になっただろう。
ようやく僕も花織も落ち着いて生活できる――そう気を緩ませてしばらく、再び異動の話が持ち上がった。今度は僕を秋田へ飛ばし、仙台で手掛け始めたプロジェクトから引き剥がすという。またもや羽田野が絡んでいる?――不安に駆られ、支社幹部なり東京時代の同僚なりに確認をしてみたものの、彼の影は見えなかった。もちろん佐久間くんにも聞いてみた。
「いや、ぼくも羽田野の動向は掴んでないね。先のプロジェクトは、名目上とはいえ最後に羽田野が責任者にされていてね、彼の実績にされたんだ。だから次も東京本社のプロジェクトに携わる、噂ではそうなっている」
少なくとも現段階では羽田野の影は見えない。僕の居なくなった仙台に誰が来るのか、とても気がかりだった。
花織にも秋田へ付いて来てもらうか、花織とは議論になった。しかし臨月が近づいたせいもあり、お腹の子の命を重視して、花織には仙台に残ってもらうことに。
ここまで色々と花織に無理を聞いてもらっている――そんな思いが僕にはあったから、お腹の子が出産後順調に生育してる条件で、花織が仕事を始める許可も出した。
花織の外出機会が増えることは花織の精神には良いことだ。だけど、その気遣いが花織を苦しめる土台にもなってしまうとは。
――ああ、今なら分かる。僕が花織を導いているようでいて、僕がどれだけ花織に甘えていたのかを。
◆◇◆◇◆
窓から差し込む仄かな明るさに僕は目を覚ました。花織を寝室へ連れて行った後、散らかったリビングを片付け、ソファーで僕は浅い眠りについた。横になった時間は然程長くない。当然疲れは取れていない。軋む身体を強引に起こし、僕は頭を揺する――寝起きの思考力のなさを誤魔化そうと。
しばらくして再起動した僕は、花織が今どうしているかが気に掛かり、行動に移した。
初めに玄関へ行き鍵の状態を確認、次いで靴の数を確認する。花織が出て行った形跡がないことにホッとした。昨夜は泣き通しだったことを思い出し、僕と花織のマグカップに水を汲み、両手に持って寝室へ向かう。寝室に入れば、ベッドの上で膝を抱えた花織がいた。もう起きているようで顔を覗かせていたが、この世の全てを放棄したかのような、色のない表情の幽鬼を思わせる表情だった。
「……まさゆき、さん?」
「そうだ」
花織が僕に気付いたのか、弱々しい声音で問いかけてきた。当然、僕は肯定する。
「……見ないでください」
「聞けない」
やつれた姿を見られたくないのか、まだ弱々しい声音で願いを口にする。どのような姿であろうと、花織から視線を逸らす選択肢は僕からなくなった。
「……見ないでください」
「その願いは聞けない」
重ねて同じ願いを口にする。言葉尻は少し強めになっていた。さっきより明確に僕は否定する。
「……声を掛けないでください」
「その願いは聞けない」
同じ願いでは叶わないと思ったのか、内容を変えてきた。内容が変わろうとも、僕の意思は明確だ。僕は花織に声を掛け続けよう。
「……出て行ってください」
「その願いは聞けない」
願いは拒絶に変化した。語幹からして強くなった。でも僕には効果がない。拒絶が強くなるだけ、僕はより近づく。例え苦しめようとも。
「……私を忘れてください」
「その願いは聞けない」
拒絶は懇願になった。語幹から力が抜けた。花織の諦観が顔を出した気がする。だけど僕は同意しない。僕に、花織は、無二だから。
「……私と別れてください」
「手放しはしない。ずっとずっと――手放しはしない」
花織は意思を明確にした。言葉は全てにおいて抑揚をなくした。マグカップをサイドボードに置き、僕は行動に出る。これが僕の意思だと、膝に置かれた花織の手を力を込めて握った。
「……なぜ? どうして? 願いを聞き届けてくれないのですか!」
「花織は……僕のものだから」
かぶり振ってイヤイヤをする花織。言葉は再び語尾に向かって強くなり、僕への抵抗を試みる。僕は努めて平静に応じた。だって、何があろうと、花織は僕だけの花織なのだから――否、僕だけの花織にするのだから。
花織は顔をクシャクシャにする。花織がいくら願おうとも、僕が応じないから。だから、決定的な言葉を口にした――
「……羽田野くんと!……シていても!……そのタネをお腹で受けていても!……それでも、ですか!」
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