第8話 昌幸視点①

――最近の花織は様子がおかしい。


 英会話の家庭教師の依頼が入って、生徒となる子と相性が良いか確かめるから、今日は夕方から面接に赴きます――そう花織から昼休みに告げられた日、その後から。


 先ほど終えたビデオ通話でも、花織は終始視線を彷徨わせていた。何かをまた悩んでいる様子なのは、遠く離れた僕でも理解できた。現に身体の欲を打ち明けられた時も視線を長く彷徨わせていた。今すぐにでも花織を抱き締め元気付けたい――そうすればきっと花織から悩みを打ち明けてくれるだろうから。


 だが仙台と秋田では遠すぎる。駆けつける頃には花織も悩みを覆い隠してしまうかもしれない。週末に仙台へ戻った時には、いつもと変わらない笑顔を見せてくれる。そして前以上に僕に甘え、夜以外でも一緒に運動してくれている。それこそ激しすぎる運動に僕の方がスタミナを奪われるほどに。


 しかし花織の様子を隠し見たいと、秋田を極秘裏に離れることも叶わない。毎週のように重要取引先の重鎮たちが列をなすように秋田詣でをしているから。特に月火水の三日に集中してやってくる。東京本社と仙台支社の合同プロジェクトに係わる接待だから、秋田営業所の所長として席を外すわけにもいかなかった。


 ともかく仕事の重要性と繁忙感からくる疲労も手伝い、僕も危機感が麻痺していたのだろう。花織が家庭教師に出るときの火曜日は、花織から理由を付けて音声通話のみだったことのおかしさに、気付きもせず。


 幼馴染のミーちゃんから、とある一報が齎されるまでは裏取りさえ考えもしなかったのだから……


   ◇◆◇


『――花織さんは浮気をしています』


 ミーちゃんから齎された情報は僕を酷く打ちのめした。珍しくチャットアプリのビデオ通話でコールしてきたミーちゃんに――初めは気安い、気を許した会話をしたからなのか――ミーちゃんの一言は僕の内心を酷く綯交ぜにした。花織に限って――花織に何があった――花織よ、どうして――花織は何故、自ら話してくれない――花織は未来を、どうしたい?――そして僕は、どうすべきだ?――なぁ、教えてくれよ、かおり…………


『――マー君、気持ちが落ちつくまで、いつまでも待ちますよ?』


 ミーちゃんの気遣いの言葉は何度目だろう?――パソコン机に置いていたコーヒーカップを床に落とし、割れた時の大きな物音でさえ気付けない程に、僕は動揺していた。だいぶ刻をおいて、ようやくミーちゃんの言葉が耳から脳に伝わる程に、マシになってきたけれど……


『――マー君、ごめんなさい。わたしの事情とはいえ、マー君を振り回して、ごめんなさい――』


 ミーちゃんが謝罪を繰り返していたことに漸く気付いて、自分に思考力が戻ってきたことを理解した。ずっと呆けたように開けていた口を閉じて、一呼吸してからミーちゃんに言葉を返すことが出来た。


「……いいや、見落としていたことを教えてくれて、ありがとう。僕が情けないのだからさ。ミーちゃんが謝ることじゃ、ないよ」


 ミーちゃんの気落ちした顔を見ることも、また僕は堪える。だからミーちゃんをまずは励まさないと――僕は気持ちを切り替える――切り替えた振りをする。


「相手がミーちゃんの旦那さんなのが、大変申し訳ないのだけど――」

『それはマー君が謝る必要ないわ』


 花織の浮気相手とされたミーちゃんの旦那さん、彼を花織が誘惑したかもしれない可能性もあって。まず謝罪をして、それから励ましの言葉に繋げようと言葉を発していたのだけど…………どういうことだ?


『持ち掛けたの、うちの旦那から――だからよ』


 沸き起こった疑問に翻弄されているところにミーちゃんの語る内容を投下されて、僕の思考は大混乱した。ミーちゃんが旦那さんの浮気を余り気にしていないこと――その旦那さんの行動を細かくチェックしている節を感じること――むしろこんな状況を待ち望んでいた?


「……ミーちゃんまさかだけど、旦那さんを泳がせてたの?」

『さっすがわたしの幼馴染! マー君は鋭いわね!』


 いや、お褒めに預かることじゃないような――じゃなくて!


「それなら花織を巻き込む前に止めてよ!」


 僕のたらればなお願いを、ミーちゃんは真顔を作りばっさり斬り捨てた。


『そこは花織さんの事情ね。そもそも旦那を調査していただけ。相手がたまたま花織さんというだけ。わたしにはね』


 ぐうの音も出ない反論に僕は意気消沈する。その様子をミーちゃんは見かねただけかもしれないけど、ある推論を教えてくれた。


『花織さんを旦那が口説き落としたの、最近のこととも言えないのよね。花織さんが仙台に来てから、旦那と接触したこと無かったハズなんだ。それにしては堕とされるのが早過ぎるのよ』


 つまり、僕と知り合う前からの付き合い、だと?――花織と知り合ってから今までを胸の内で反芻する。花織との交際が進展を見せる毎に、お互いに異性の影は確認し合ってきた。もちろん結婚を決意した時も。


 ミーちゃんは内心で過去を振り返る僕を静かに見守っていた。いつの間にかミーちゃんの手にはティーカップがあって。それぐらい僕は思考の海に沈んでいたんだ。そして浮かび上がった可能性に――


「……ミーちゃん」

『何?』

「ミーちゃんの旦那さんの経歴、話してもらっても大丈夫?」

『大丈夫。マー君に隠すようなことはないわ』

「だったら……これから質問をしていくから。それに答えて欲しい」

『わかった。何でも訊いてね』

「じゃあ、最初は――」


 花織から聞いていた過去の恋人たち。その中で花織が余り語らなかったのは――



   ◆◇◆◇◆



 花織との出会いは偶然の産物だった。続けざまに同じ企業に就職を希望し、共に敗戦した戦友で。特に一度目の企業で、面接後に気落ちしていた花織を慰めたことを、まさか感謝されているとは思わなかった。だから、カフェでお茶をして意気投合するまで、何て駆け足だったんだと、ふと思い返すことがある。それほどに僕はこの出会いに感謝していた。花織は、ある空気を纏っていたから。


 男に従順な女、それがタイプだった訳じゃない。結果から僕が思い知らされただけなんだ、幼馴染の告白を断ったあの日に。

 花織ともっと仲良くしようとプレゼントを用意すれば、先んじて花織が僕のアパートに入り浸るようになり――志望企業の目先を中小にした時には、花織も目先を同じにするとは思わなかった。考えあってのことなのか、自然と選んでしまうのか、花織の癖は僕に都合が好過ぎた――僕の将来の夢には――


 それからもう一つ。イイ年した男女が身を寄せ合えば、自ずと身体の相性を確認する。相性はとても――良かった。ただ初めて一緒に同じベッドで過ごした時は、阿吽の呼吸で誘い合ってしまい――あの気不味さは強く僕らの記憶に残っている。

 それもこれも僕らは似た者同士だったから――ほぼ同じ年齢でほぼ同じような関係の異性と色濃く経験し、普段はそうと感じさせない立ち振る舞いだからだと思う。いつまでも初々しく過ごせそうで、僕は結婚も視野に入れ始めた――けれど。


 ただ花織は時々申し訳なさそうな空気を纏わせる。それは僕と出会う前の大学生活に要因があるからと思えた。僕の場合は相性確認で一夜を共にしたレベルだけど、花織には僕であってさえ伝えにくいレベルのことがあった様子で。

 そのあらましは、かつて花織と同学年だった花織の友人たちから、花織には内緒でと、大学卒業を前に聞かされていた。とてもタチの悪い男に引っかかってしまった時期があったと――故に一留していると。


 思い出されるのは、夜の運動で僕の目にあまり触れなよう花織が気配りしていた、花織のお腹にある傷痕のこと。聞いてはいけないように思えて、出来た経緯を尋ねたことはなかった。ただ、ずっと僕の心に引っかかっていた――傷痕に質の悪い男が係わった可能性に。そして――もしも質の悪い男が再び花織の前に現れたら、花織はどう振舞うのか――と。



   ◆◇◆◇◆



「マー君、おかえりー」

「……ただいま」


 ミーちゃんから不穏な連絡を受けた日からおよそ二週間後の火曜日。仙台に残してきた家族で急病人が出た――そんなフリで秋田事務所の所員に早退を告げ、急ぎ新幹線に乗り込んで仙台に戻って来たばかりだ。


 ミーちゃんと待ち合わせたのは仙台駅併設の立体駐車場。これから極秘に仙台の我が家、僕と花織と幸花で住むマンションへ向かう。既に夕暮れを過ぎた時間、本来なら花織も幸花もマンションに居るハズの時間、なのだけど――今日は家庭教師の日。だから幸花を母に預け仕事に出向いているハズの日。


「マー君のお家、今は誰も居ないこと確認してるわ。幸花ちゃんは幸乃小母さんに預けられてるから大丈夫よ」


 何てことなく我が家の内情を語るミーちゃんに、否、あの仙台を治めた伊達氏ゆかりである長谷川家の諜報能力に脅威を感じない訳じゃない。だけど、広範な仙台市内で花織一人を探し歩く事は不可能なのだから、こうして頼るしかなかった。力不足な自分がイヤになる。


「早速マー君のお家へ行きましょう。現場を押さえる準備をして、隠れなきゃならないからね」


 二人をどうやって誘導しているか尋ねても、ミーちゃんははぐらかすだけ。何故か僕の家に花織たち二人を誘導して、家の中の様子を隠し見つつ、浮気の確実な証拠を押さえる。作戦は至ってシンプル……花織を餌にした囮作戦じゃないか!


「ミーちゃん、どうしても僕の家じゃないと、イケない訳?」

「今一番旦那が喰いついてるのが花織さんだからね~。それに工事も始めちゃってるから、諦めて!」


 可愛くウインクされても……それに工事って何だよ、僕ん家の鍵はどうやって開けたんだ!


「それに――もしもの時は、マー君、何でもできるでしょ? マー君を不利にする目撃者は、出ないよ?」


 仄暗い目付きに変えて僕に怪しく微笑むミーちゃんに気圧された。ミーちゃんは旦那さんについて、確実に見切りを付けていたようで。後は僕に選択させようというのだろうか。


 僕とミーちゃんの乗る車は、長谷川家お付きの運転手さんの安全運転で、もうすぐ我が家のあるマンションというところまでやってきていた。


「――で、マー君はどうするか、決めて来た?」


 ここまでの言い合いはポンポン言葉に出来ていた。だけど僕は――未だに決めることが出来ていない。花織とどの未来で向き合えば良いのか、迷っていた。

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