第7話 水琴視点

「…………そう、分かったわ……うん、見解をありがとう……そうね、引き続き追跡をお願いします」


 そう告げてスマホの通話を切った。通話の相手は、わたしの旦那を監視している追跡班の班長さん。わたしが長年お世話になっていた、長谷川家使用人のお一人。


 彼が伝えてきたのは、わたしの旦那がまたも裏切っていた証拠を掴んだこと。旦那の裏切りは初めてではない――そもそも旦那とは仮初なのだから。プロの女と遊んでいるうちは文句もない――ダメなのは素人への手出し。なので、その相手を知ったわたしの内側は大きく揺れ動いた…………まさかの浮気相手だから。


 彼女がわたしの幼馴染を裏切るとは思わなかった。裏切ったと言っても――浮気を楽しんでいる――その印象はなかったと、班長さんは伝えてきて。事情があると推測される――それが班長さんの意見。


 だからといって許されるものではない。わたしの大事な幼馴染を裏切ったことは、大変に許しがたい。わたしも知らずのうちに歯がきしむ音をたてる。でも……許す許さないは、幼馴染が決めること。なので幼馴染にその機会を作ってあげる――それがわたしのできる精一杯だと思った。


 幼馴染にしてみれば、知らなくて良かったことを無理に知らされるのだから、わたしを酷い幼馴染だと罵るだろう。とはいえ、わたしにも放置できない事情はあるのだから、見落としていたことは甘んじて受け入れてもらうしかない。わたしの旦那には末路をたどってもらうのだから。


「……マー君……」


 ポツリと幼馴染の愛称がこぼれ出た。これから伝える事実の残酷さに、思わず幼馴染の安寧を祈ってしまう。どれだけ幼馴染を案じて、手酷い仕打ちにならない伝え方を考えようと、解決策はなかった。これ以上時間を置いては残酷さは増すばかり――仕方なくといった風情で、わたしは通話予告のメッセージを送ろうとスマホを取りだした。


――――幼馴染に、未来を、選択させるために――――



   ◆◇◆◇◆



 退屈だった幼き日々に光と熱をくれた子供がいた。名士の一族としての操り人形でしかないわたしに魂をこめてくれる少年だった。それが佐々木昌幸君。次々に彩られていく日々がいつしか当たり前になり、ずっと続くと思うことが当たり前になって。マー君が見せてくれる光景へのあこがれを、好きという気持ちだとわたしは思ってしまった。


 やがてマー君のいない未来を懼れるようになって、マー君を手放さないよう虜にしたくなり、遊びの延長だと偽って肉体からだを重ねた。遊びの延長は一度ならず二度三度何度でも。マー君はもうわたしに溺れた――頃合いと見たわたしは――


「マー君が好き、大好き! 幼馴染から恋人になろう?」

「……ごめん。ミーちゃんのことは好きだ。でも恋人には、なれない。ミーちゃんを連れて……世界を回れないから。ごめん……」


 マー君はわたしを求めていなかった。いいえ、求めていなかったのは地元を離れられない人形。これを機にマー君は遠ざかってしまう――わたしの気持ちを見て見ぬふりをして。


 マー君とは違う高校に進学することになってしまったけど、マー君を求める気持ちに陰る日はこなかった。けれどマー君が高校で恋人を作り、二度目の破局を迎えたことでわたしは気持ちを諦めた。あまりにもあんまりな破局理由に、落ち込むマー君へわたしから慰めの言葉も出なかったから。わが身の身勝手さを思い知ったから。


 それからは憑き物が落ちたように再従兄弟はとことしての付き合いに努めた。わずかに燻る熱が、いつか冷め切る日を願いながら……



   ◆◇◆◇◆



――チリリリン。


 私はお見送りをしていた。アーケード街にほど近い路地のおしゃれなバーで行われた、ボランティア部合同懇親会の二次会のお開きだから。この二次会の幹事を引きうけていたわたしは、バーの出入り口のドアを押し開けながら見送りの言葉を発していた。


「本日はご参加ありがとうございました」


 参加者からは労いの言葉をお返しされ――会場を後にしていく参加者の群れ。最後の一人がドアをくぐり抜けたところでお店の外へ一礼し、ドアをそっと閉めた。今日のところは滞りなくやり切ったことに安堵してホッと一息ついて。


 今日の参加者たちが、わたしの通うTS女子大の上級生と東北随一のTK大の医学部生だったから、とにかく重責に感じていた。その緊張が抜けて警戒心も緩んだせいだと思う――カウンターで一人ようやく好みのカクテルに口を付けていると、一人の青年に声を掛けられ、つい応じてしまった。


「これは幹事さん、今日のセッティングお疲れさまでした」

「あ、いえいえ、楽しんでいただけたなら、幸いです」


 今日の参加者で見た顔だった?――内心では疑問符が浮かんでいたものの、青年の軽妙でいて思慮深げな会話に次第に乗せられていって。わたしはいつの間にか酔いがまわっていた。


「俺がお送りしましょう。まずはタクシーを拾える大通りまで行きましょう」


 青年に肩を抱かれ、バーを出る。バーは一族の経営だから、会計はつけ払い。なので、わたしを連れてお店を出る青年を咎める者もいなかった。大通りへ向けて歩いている最中も次第に意識は遠のき――


「どうやら、宿を取ったほうが良いですね。俺に任せて――」


 青年の言葉が途中で途切れた。


   ◇◆◇


 かなり遠いところで男と女、その交わりの咆哮が、咆哮の後の忙しない息遣いが、わたしの耳を打つ。意識は大海原をたゆたうように漂い、意味のあるまとまりにならなくて。何かにぬれた感触の後には、また交わりの咆哮がコダマした。


   ◇◆◇


「――うっ!」


 気だるさと、鉛のような身体の重さと、ガンっと響く二日酔いと……多重にさいなむ体調不良にわたしはうめいた。いつから寝てた?――なかなかハッキリしない頭に浮かんだ疑問がそれで。何とか目を開ければ、知らない天井だった。


 慌てて周囲を探る。わたしの衣服やバッグが散らばっていた。バッグの中身が気になり、バッグを手にしようと布団から這いだし――私は裸だったと今さら気づいた。

バッグよりも身体が気になりチェックすれば――当然のようにシタ後で。傍に置かれたごみ箱には使用済みの風船がいくつか入っていた。


「……やっちゃった……」


 思わず額に手を当てた。お持ち帰りされて、ヤルだけヤラれて置きざりに――そうとしか思えない状況だった。もう一度身体をチェックする。混ざりあい過ぎて風船なしの可能性はもう分からなかった。


「……どうしよ……重いからピルは飲んでるけど……病院は……」


 ため息と一緒に後悔が口を突く。しばらく迷ったあげく、ゴワつく身体を洗うことから始めようと、お風呂場へと足を向けた。


   ◇◆◇


 結局、その日は病院へ行かなかった。その日目覚めた時間もとうに遅い時間だったし、クレジットカード類をバッグから引きぬかれていたから、それらの停止処理なりに時間がかかったしで、時間が押してしまったから。結局、病院へは翌日になって出向き、念のため洗浄されアフターピルが処方された。


 そして家族や使用人たちも、わたしの不在を怪しんではいなかった。大学生になり講義だ課題だサークルだと、わたしが家を空けることも珍しくなっていたこともあって、捜索依頼も届け出られていなかった。さすがに両親には大目玉をくらい、反省を促された。


 それから数か月、事態は大きくなった。わたしが妊娠していたからだ。避妊の処置が間にあっていなかったらしい。これには両親も悩み――わたしを自室へと呼びだした。


「水琴よ、単刀直入に言おう。望まぬ種であろうから、堕ろすと決めても良い。今ならまだ間に合うであろう?」


 中絶の勧めだった。地元の名士である我が一族として種の分からぬ子を産むなど恥さらしだ――どうやら、有力な親戚筋から反発を受けたらしい。常々本家を疎ましく思っている分家筋が、本家を貶める機会だと張り切っていたそうだ。だからとわたしに聞く耳が――以前はあったはずの耳は失くしていた。


「いいえ、わたしは産みます。このお腹に生命が宿ったと聞いた瞬間、どうにも母親になった気がします。一族の人形でしかなかったわたしが人間になったのです」


 わたしの返答に父様は絶句した。一族としての責務に追われる生き方に、不満があるとは知らなかったらしい。母様といえば、ただ笑みを深めていた。想像でしかないけど、同じような気持ちを持ったこともあったんだろう。


「あなた、私は出産に賛成いたします。水琴は既に母親の顔をですよ。いい加減、あきらめてはどうです?」


 おかげで母様が味方に付き、家内の意見は出産でまとまった。ちなみに傷物扱いなわたしを一族の端っこの男子へ下賜する案が、有力な親戚筋から出ていたらしい。ざまぁみろ――操り人形を押しつけていた連中へと内心毒づいた。


 ただ出産する場合でも、地元の名士は気をつかう。父親が不在では格好がつかない――またも有力な親戚筋から意見が出た。こうして始まった長谷川家総出の父親捜しは、あの日のバーからわたしが目覚めた宿までの防犯カメラを調べたり、拾ったタクシーのドライバーに話を聞くくらいで、すぐに暗礁に乗りあげた。


 解決のめどが立たないままに時間が過ぎる――そう覚悟をしたとき、ある情報から該当者にたどり着いた。わたしの通う女子大で、ある女子学生がまったく講義に出てこなくなったというもの。ボランティアサークルの活動として、その女子学生の住むアパートへやって来たら、ちょうど外出しようとしたあの日の青年とはちあわせた。


 逃げる青年に追うボランティアサークルメンバー。青年が裏をかいて逃げおおせたと思った瞬間、長谷川家のセキュリティに確保される。以後、あの日と名のった青年は、長谷川家の監視下に置かれることになった。


 ただ、わたしは青治と夫婦らしいことをする気がなかったから、結婚式などは行わなかった。挙式を行わないとは何ごとだ――うんざりするほど有力な親戚筋から講義の声があがったがすべて無視した。両親はといえば籍さえ入れてくれればと冷静だった。どちらかといえば、わたしも両親も彼を処分できる日がくることを願っていたから。

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