第6話 花織視点⑥

 羽田野くんはいつの間にか仙台に部屋を借りていた。その間取りは3LDKでどう見てもファミリー向けの物件。さながら夫婦二人に子供二人が長く暮らしていくのに相応しい賃貸だと思う。そんな羽田野くんの部屋に不本意にも招かれ、今夜の為り切りを強要されていた。


「ボク、今日もお仕事がんばったよ。ほめてほめて~」


 ペアルックのパジャマを着た羽田野くんが、ベッドの上で足を伸ばして座る私に膝枕を求めてきた。嫌悪感しかないけどやらなければ終わりは来ない。なのでイヤな気持ちが表情に出ないよう我慢して首を縦に振る。羽田野くんは破顔して、私の足の付け根にその顔を埋めた。その姿勢でスーハ―しないで欲しい。


「は~~、小野寺さんからイイ匂いがする~~~。やぱーりボクたち相性抜群だね」


 どこが抜群だと言うの?――気持ち良いのは羽田野くんだけでしょう?――羽田野くんから良い香り……何てしてない!――羽田野くんを詰る言葉で内心が埋め尽くされる。ただ羽田野くんの深呼吸で起こる吐息がピンポイントを撫でるから、背筋がゾワリとしてしまった。余りのに、羽田野くんの意識を逸らそうと、つい先日からの疑問をぶつけてしまう。


「えっと羽田野くん。羽田野くんの会社の同僚とかに、って名前の男性が居たりするかな?」


 唐突だった質問に羽田野くんは顔を上げ、きょとんとした顔を見せた。


江里口えりぐち? 誰それ? 知らないよ?」


 羽田野くんの答えに本気で知らなそうと私は思えて。あの悪魔と羽田野くんに繋がりがないなら、どうして悪魔は?――そんな事を考えていたから、すぐには気付けなかった。


「ねぇ、小野寺さん。佐々木でさえ忌々しいのに、どうしてボクの前でまた違う男の名前を出すかな?」


 羽田野くんの顔に焦点を当て直した私はとっても驚いた。これまで見た事の無い羽田野くんの憤怒の形相に。少なくとも私の前では柔和かしょんぼりか得意気か、強いネガティブな感情は見せて来なかった。だから、私は怯え切ってしまった。


「小野寺さん、いや花織――まだ、身のほどを弁えてなかったんだね。叩き込んであげるよ――きっちりと」


 聞いたことないような低い声で、私に主従を叩き込むと宣言する羽田野くん。恐怖に身を捩りベッドの上を這って逃げようとする。同時に悲鳴を上げようとしたけど、凍り付いた喉を言葉が通らない。叫びは内心で昌幸さんへ助けを求めるものだけに。


――怖い。羽田野くんが、怖い。羽田野が怖い。怖い。怖い怖いこわいこわいこわいこわいコワイコワイコワイコワイ――


 追いついた羽田野くんに背後から襟首を捕まれ、強引に体を起こされる。次いで顔を羽田野くんの方へ向けさせられ――


――バシン!!


 頬を強く張られた。衝撃で私はベッドに後頭部から倒れてしまう。その私の顔を羽田野くんは両手で挟み――


「花織にふさわしい夫はボクだ」


 ぶつけるように口付けしてきた。唇を割られ、口内も蹂躙されていく。顔を挟まれているから、反抗することも難しく私は為すが儘に。次第に呼吸が追いつかなくなったようで、羽田野くんが顔を離した。私は口内に溜まった唾液を何とか飲み込み、荒れた呼吸を何とか整える。


「さあ、子作りを始めよう!」


 宣言と同時に私はひっくり返され、ビリリッとズボンから音がした。あの日、羽田野くんに甘い考えをしてしまった私が居た事に、今もっとも激しく後悔した。背後から羽田野くんに圧し掛かられながら……


――ごめんなさい昌幸さん。花織は反省します。遅くなってごめんなさい。反省してます。我儘言ってごめんなさい。だから、助けて――



   ◆◇◆◇◆



 仕事を探し始めてから一か月。既に幼年向けの英会話スクールで働き始めていた。


 得意の英会話を使う仕事、けれど幸花の世話と天秤に掛けないで済む仕事。仙台という大き目な都市まちとはいえ、条件を満たす募集を自力で見つける事は叶わなかった。昌幸さんと相談した結果、結局は昌幸さんの幼馴染の水琴さんに協力をお願いし、水琴さんが紹介してくれた仕事で落ち着いた。先々は幸花にも通わせると思えば、ちょうど良かったとも言える仕事だった。


 仕事に出るのは平日の月火木金の四日にしてもらった。水曜はスクール自体が休みであるし、土日は昌幸さんを優先したかったから、週末のシフトから除いていただいた。さすがに生後五か月目の幸花を預かれる施設は併せ持っていなかったから、仕事に出る間のお世話は昌幸さんのお義母様にお願いした。


 お義父様が亡くなられてからのお義母様は、単身者向けのマンションで一人ひっそり生活されていた。昌幸さんが実家と呼ぶ家は処分せず、水琴さんに管理を委ねながら。それだけに、ちょっとした生きがいを提供できてホッとしたところもある。でも幸花がお婆ちゃんっ子になりかけてショックも受けた。おかげで私も、幸花を甘やかすようになったと思う。


 こうして日々は過ぎていく。ほぼほぼ順調な生活。けれど一人寝の淋しさだけはどうしようもなくなって、結局は昌幸さんに相談することにした。この事は昌幸さんも同じだったらしく、相談を受けて良かったと言われて。相談も無いから――単身で解消できているのか、それとも浮気して解消しているのか――疑念が少し芽生え出したところだったと、逆に打ち明けられた。


「こうして毎日通話をしていて、そんな訳ないでしょう。幸花の世話に、時にはお義母様のお宅のこともあるし、何より仕事の準備もあって、浮気を考える暇もありません」

「ごめんな。僕ばっかり弱音吐いてさ。元は花織の悩みごとの話だったのに」


 杞憂な話にピシャリ言い切ると、昌幸さんに謝られてしまった。切っ掛けは私の悩みでも、昌幸さんの弱気な声は聞きたくない――


「うんん、私も配慮が足りませんでした、ごめんなさい。昌幸さんが良ければビデオ通話で掛け直しませんか?――お顔を見てお話したい――プツ!」


 励ますためにも通話を切り替えようと提案したら切られてしまう。何か機嫌を損ねることを言ってしまったのだろうか――急に不安が込み上げ掛けた、その時――


――ルルルルルルルル! ルルルルルルルル!


 ビデオ通話の着信音が鳴り響き。慌てて応答すると昌幸さんが画面に登場した。


「花織、決めたよ! 次の週末、仙台へ戻ったら一緒に買い物へ行こう! そして、僕らの部屋に――」


 私の昌幸さんへの気遣いから出た言葉は、私たちの生活スタイルに思わぬ変化を生ませてしまった。まさかお互いのアレなところを……ビデオ通話で見せ合うなんて。でも、数度試したところで取り止めた。お互いに不満が余計に募ってしまった。結局は触れ合わなければ解消出来ないのだと、二人で思い知ったから。


   ◇◆◇


――ピリリリリリリリ! ピリリリリリリリ! ピリリリリリリリ! ピリリッ!


 生活の中で順調でない部分もある。英会話スクールでの仕事を始めてすぐの頃から登録の無い番号からの呼び出し音が、偶に鳴る事が起き出した。もちろん以前から稀に間違い電話がやって来る事はあった。でも繰り返し――数日置きに、同じ番号からの呼び出し音が鳴る。


 昌幸さんとの約束通り、連絡先未登録の番号からの呼び出しの時は通話に応じないようにした。呼び出し音が鳴りやんだら、着信履歴から削除する。でも、この番号が既知のものだったら?――そう思ったから、仙台の女友達に連絡を取ってみたけど、心当たりがないとの話になった。


 結局、昌幸さんと相談して、この番号をブロックした。でも後から思えば、ブロックした事は私へのちょっかいを許した要因になった気がした。


   ◇◆◇


 季節は廻り夏が来た。夏に巡る少し前に、勤め先の英会話スクールへ市役所から一つの要請があって。仙台の夏祭りといえば七夕祭り。その会場であるアーケード街へやって来る外国人旅行者向けの案内ブースを出店して欲しいというもの。スクールは受諾してスクールスタッフ総出での対応とした。


 そして祭り当日。アーケード街の一角に出した案内ブースでのワークタイムは、私にも割り振られていた。午前中に案内ブースへと詰め、そして必要があればお店なり観光スポットなりへ観光客を案内する。一組目、二組目と他のスクールスタッフ達が案内に出、三組目は老夫婦と思われる二人組の男女を私が案内した。


 彼らの目的地は仙台名物である水産加工物を販売するお店。アーケード街を一緒に歩き、時折り祭り以外の事で受け答えしつつ目的のお店を目指す。目的のお店に辿り着けば私はお役御免とばかり、別れの挨拶を交わしてブースへ来た道を戻った。そして、その途中――


「チョト、オタズネ、シマゥス」

「はい、何でしょう?」


 片言の日本語を使う外国人男性に呼び止められた。案内スタッフの腕章を付けている事もあって無視はできない。私は足を止めて、その彼の方へと振り向いて用件を尋ねた。


「ショクジドコロ、サァガィシテマゥス」


 雑誌の切り抜きだろうか?――お店の情報が書かれた紙を見せて、彼は手招きしてきた。私はその紙をよく見ようと近づく。


「コノロジ、オクノビル?」

「そうですね。ビルの入口まで案内いたします」


 見せてもらった紙には牛タンを提供するお店の情報が載っている。そのお店がすぐ側にある路地の奥にある事は確かで。私は役目を果たそうと、先に立ち路地へ入って行く。彼が後ろから付いて来るのを確かめながら、目的のビルを目指した。


 そして牛タンを提供するお店の入ったビルのエントランスまで来た。ビルのエレベーターを目の前にして、男性へと振り返る


「目の前のエレベーターで三階に上がれば、目の前に目的のお店がありますよ」

「アィリガト、ゴザマス。ファミリーツレテ、マタィキマス」


 そう私に告げて外国人男性は、アーケード街へ向けてビルを出た。また一つ仕事を達成できたことにホッと一息吐いた、その時――


「あれ? そこに居るの、小野寺さん?」


 エントランスの奥から出てきた一人の日本人男性に呼び掛けられる。それは同期入社の羽田野充彦くんだった。どうして仙台に?――疑問が先に来て、思考が一瞬の間止まった私に、彼が先手を取って事情を話し始める。


「七夕祭りってことで遊びに来たんだ。こんなところで小野寺さんに出会えるなんてとーても幸運だ。今日もおっぱい大きいね」

「……あっははは、そっそうかな? それと今は佐々木だから、よろしく――えっえっ」


 大変に感極まった表情を見せる羽田野くんに、思わずたじろいだ。それに何より、私を旧姓で羽田野くんは呼ぶから、つい訂正したのだけど。でも私の言葉には何も返す様子もなく、羽田野くんは私へと向かって一歩一歩詰め寄って来る。なので、私は後ずさりして――


――トン!


 私はエントランスの壁際に追い詰められていた。そして更に羽田野くんは近づき、両手を壁について私を囲ってしまった。いわゆる壁ドン状態に。この状況になってようやく私の心の内で警戒アラートが鳴り渡った。


「えっと、羽田野くん? 解放して、くれるかな? 私、お仕事の途中だし、お仕事まだまだ続くし――」

「それには及ばないよ。ボクがお仕事、キャンセルさせて貰ったから」

「――えっ! ええっ!!」


 羽田野くんへ解放をお願いしたら、頓珍漢な事を言われた。何の権利があって羽田野くんが私の仕事に口を出せるのか。理解出来なさに驚ていると、私のスマホが震えた。スマホを取り出して画面を見ると、メッセージが届いていた。


――急用との事で理解しました。本日の業務は終了で構いません。お帰りはお気を付けて。


 送信元はスクールの所長。誰からどんな連絡が入ったのか分からない。けど、私へ早退許可が出てしまった事に唖然としてしまった。言葉を紡げずにいると、羽田野くんが語り掛けてきた。


「ねっ、キャンセル出来たでしょ。じゃ、ボクに仙台を案内してよ。お願い」

「あっ、いや、でも……」


 自分がやった事を誇らしげに、それでいて愛くるしく両手で拝むように私に懇願してくる。何とか断ろうと言葉を重ねるのだけど、羽田野くんは聞き入れず哀訴してくるから、私は根負けして仙台の街を案内する事になってしまった。いつまでもここに居ても――そう思って羽田野くんと共にビル出た――


 少し離れたビル陰から、そんな私を観察する人物に気付くことはなかった。

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