MID1 《重力の沼》①

 午前七時半。

 八九寺はまず、その光景に吐き気を抱いた。


 冬の朝の冷気。少し暗い街。

 警告色の規制テープが張り巡らされた石段の先。雪ヶ峰神社の境内。

 常なら参拝客や観光客が穏やかな時間を過ごしている場所。

 玉砂利と石灯籠、名残雪が白いその場所の、入り口。



 鳥居に、異形の死体がぶら下がっている。



「……なるほど、獣化種キュマイラだな」


 獣化種キュマイラ

 感染の結果、その身体を獣に変貌させる症候シンドロームが発現したもの。


 多かれ少なかれ、獣化種の姿は人間からかけ離れたものになる。

 ある者はその身体を巨大な黒豹に変じ。

 またある者は、七つの狐の尾を生やす。

 魚の鱗で全身を覆う者もいれば、全身に鋭い角を生成するものもいる。


 首を吊っている死体は、明らかに人間の形をしていなかった。


 異様に発達した、猫科のそれに似た獣脚。

 破けたロングコートから覗く右肩には、昆虫に似た堅牢な甲殻。

 顔面は人間というよりは犬に近く、肥大化した犬歯がだらりと開かれた口内に覗いている。


「……自殺じゃないのが問題だな、クソ」

「あ、分かります?」

「他殺じゃなきゃあり得ねぇだろ」


 八九寺は懐のスキットルを撫でながら、谷口の言に応える。



 犯人は純血ピュア操血種ブラム=ストーカーだな。しかも手練れ」



 谷口はヒュウと口笛を吹いた。死体の前で気楽な奴である。

 下腹部が内側から破裂している、異形の死体。

 ……逆に現実味がなくて良いのかもしれない。


「いやぁ、流石ッスね八九寺さん。

 死因はこっちでも特定できてましたが、犯人の症候シンドロームまで……」

「見りゃ分かるだろ」


 八九寺は自分の認識を確かめるように、眼前の状況と経験による情報を照らし合わせる。


「返り血を使った高度な血液操作による体内侵蝕滅びの遺伝子の結果とみていい。

 一度に大量の血液を必要とし、その威力も雑種クロスじゃまず出せない。

 操血種ブラム純血ピュア限定の切り札……。

 被害者は切り札を使わせたうえで、負けた」

感染者オーヴァードどうしの戦闘ッスか」

「ほぼ確実に」


 谷口はうへぇと呻いた。


「……ちなみに、手練れと判断した理由は?」

「周囲に血痕がない」


 八九寺は周囲を見回した。

 雪ヶ峰神社の境内は、綺麗なものである。


 玉砂利は静かに並び。

 石灯籠には血を知らない顔の苔が広がり。

 石畳はよく掃かれ、名残雪には八九寺と谷口、そして捜査関係者の足跡しかない。


「掃除屋を雇ってるか、修復するだけの余裕がある。

 まず素人じゃない。それに加え……」


 死体は鳥居に吊られていた。

 自殺を偽装する気が欠片もない死にざまで、である。



「挑発してやがる」



 その挑発が何に向けられたものかは、まだ八九寺にも分かっていなかった。

 日常の守護者を騙るUGNか。

 UGNの宿敵、FHか。

 あるいは、今誰よりも先に現場を洗っている、谷口たちR担か……。


「…………被害者の身元を特定するのが先決ッスね。心当たりは?」

「無い。異形化完全獣化までされたら顔も分からねぇしな」


 谷口のどこか責めるような視線から、八九寺は目を逸らした。


「データベース総当たりしかないッスかねぇ……」

「お前らのデータベースに触る権限は俺には無いぞ」

「なんで急にそんなこと」

「手伝えって言いそうだったからな」


 谷口の舌打ちを背に受け、八九寺は石段を下りはじめた。


「ここは任せたぞ」

「あっ逃げないでくださいよ八九寺さぁん!」

「逃げる訳じゃねーよバカ。探偵にゃ探偵の伝手があるってだけのことだ」


 八九寺は、これ見よがしにガラパゴスケータイを振った。

 伝手、コネクション。

 その中には、可愛い元・後輩には見せられないものもある。




 八九寺が谷口に見えぬよう、番号を打ち込む。

 電話は、すぐに繋がった。




「ハローハロー、ミスター・ディアボロス?」

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