第四話
裏庭に出て、百葉箱を相手にパチンコの練習でもしようかと考えながらぶらついていると、大きな植え込みがガサガサと不自然に揺れた。
さわさわ、さわさわ、さわさわ
風に揺られているというわけでもなく、何か動物が潜んでいるような揺れ方。
――ん?
怪談ユーチューバーなどというものをしていると、スッとカラスでも中にいるのではないかという結論を出せない。
俺の胸中は潮騒に呑まれていた。
――何か、とんでもないものが潜んでるんじゃねぇのか?
がさがさがさ、がさがさがさがさ
周囲の風がピタリと止んだ。
俺は生唾を飲んだ。
同時に、沸々と湧き上がる期待が汗となって額に沁みた。
「クフッ、クフフフッ、ヒヒッ、ヒャハッ、ヒャハハハハ」
汗が見事なほどに蒸発していくのを肌で感じた。
「おい、もう誰も追ってこねぇから、出てこい」
「えー、バレてたん?」
植え込みの中から浅黒い手が伸びてきた。
「笑い声が聞こえたから、もう分かったわ。あんな特徴的な笑い方、なぁ」
葉っぱまみれのグリーンウーマンが、植え込みを掻き分けて出てきた。
「ありがと、助けてく、れ、て」
色気を漂わせているつもりなのかもしれないが、実際に漂ってくるのは土と腐った水の香りだけだ。
「おう、まあ……ん?」
「え?」
俺の目は自然の色になっている彼女の顔ではなく、その腹にしがみ付いている一匹の蝶にピントを合わせていた。
両目の焦点がそれに合ったその途端、俺は可乃子目掛けて飛び込んだ。
「ひゃっ?!」
甲高いノイズがかった悲鳴が聞こえたころには、俺の手の中には一匹のクロアゲハがじっとしていた。
「よっしゃ、これ、めっちゃええわ」
「また、家に飾るってわけなん……?」
鼻を掻き、頬を掻きながら可乃子は訊いた。
「そらそうよ」
「……まあ、ええけど」
そう言って、可乃子はぷいと唇をあつい唇を尖らせてそっぽを向いた。
「……まあ、ありがと」
その後、そんな風に言ったように俺は聞こえた。
結局あれから、俺は両親に連れられ、饅頭頭とネズミの家を訪問したり、学校で話し合いの時間を取られたりと自由を失い、帰ってくるのは当然夜。早寝早起きが習慣の家なので、文献を漁り、動画を進める時間など確保できるはずが無かった。
一週間前に投稿した動画の再生回数は、一の位が二つ増えただけで、はけ口の見つけられない静電気のような怒りがチクチクと溜まってゆく。
饅頭頭は、腰をやった。ネズミは、前歯を折った。
その原因は、自分たちが俺を挑発したこと、もっと言えば饅頭頭が太っていたこととネズミの前歯が長いことにあるはずなのに、なぜ。
「大丈夫や、お前は悪ない。確かに、暴力はあかんことやし、理不尽な暴力によって世界ではお前くらいの年の者もぎょうさん死んどる。ただ、今回は間違いなく正当防衛は働くんや。次やられたら、今度は暴力以外の方法で仕返せ」
静電気が少しだけ発散されるのは、この父の言葉があった時だけだった。
「出かけてくる」
目を擦りながら、俺は装備が全て入ったポーチを手に取った。
「え、翔ちゃんどうしたん急に」
「まあ、動画のネタになるところに」
「それってどこ?」
「ミナミの方らしい」
「え、都会の方やん! 大丈夫? どうやって行くん、いつ帰るん、何しに行くん」
まだ四十歳の母の顔は、心なしか頬の皺が深くなっている気がする。
矢継ぎ早に質問を飛ばす彼女に詳細を明かさずに行くのはさすがに可哀想かという考えがよぎったが、ここまで放任してくれた母なら大丈夫だろうという考えが勝った。
「知らん。まあちゃんと帰ってくるからええよ」
「ご飯はどうするの?」
「適当にするわ」
「絶対食べへんやろ! ちょっと、おにぎりでも作ろか」
「いらん、もうええから、ほっといてくれ」
最後まで言い終わらないまま、俺は洗面所に入って、細い針金みたいな長髪をしゅろ縄で縛った。
目ヤニだけ落として、いつもの毛皮の服に手を伸ばそうとしたが、ドアに絹の洋服がいつの間にやら置いてあることを見て、俺はそれを身にまとった。
さらにその下に、二つの塩むすびがあったので、一瞬躊躇ったがポーチの中に入れ、キッチンの方をちらりと覗いてから、俺は外に出た。
ゴオオオオオオ
五両編成の電車がトンネルの中へ消えていくのを見届けてから、俺は空を見上げた。
いつ雨を下界へ落としてやろうか、と迷っているような曇天だった。
マンションは、駅から二十分ほど歩いた高台にあった。
その前に、頬の肉がごっそり削げ落ちたグレーの柄のワンピースの女性が前方の一点をぼんやりと見つめていた。
「こんにちは、鎧塚将門です」
彼女のすぐ手前に来て挨拶すると、彼女はギョッとした様子でこちらを見た。
「あら、あなたが……毛皮の服を着てると聞いていたから、見つけるのに手間取ってしまったわ」
吐いた溜息からは、鼻の奥をつつくカメムシのような臭いがして、思わず目を歪めてしまった。
「すみません、服変更しちゃって。やっぱりこういう場なんで、さすがにもうちょっとちゃんとした服の方がいいかなぁと思いまして」
敬語を使いこなし切れていない相手の顔を、彼女はしげしげと見つめた。
「あの、失礼だけど、今おいくつ?」
「十四ですね」
「あら……そう」
百六十八センチの身長と、よく焼け、周りに比べたら濃い目の体毛が、年齢を錯覚させたのかもしれないな、なんて考えながら、俺は言った。
「ひとまず、お部屋に案内してもらってもいいですか?」
「ああ……分かったわ。管理人さんには許可をもらっているから。息子の事件から誰一人と住んでいないそうよ。価格は相当安いみたいだけど……」
訛りが無い、少し高貴な話し方で、関東圏に住んでいたのだろうかと推測する。
「あら、名乗っていなかったわね。私は
では行きましょう、と細すぎる身体を揺らしながら、相見氏はちょうどやってきたエレベーターの中に入っていった。
俺は彼女を追いながら、雲と寂れた六階建てマンションを交互に見つめた。
闇を増した空の下にある事故物件は、中世のドラキュラの住む城のように見えた。
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