第五話
二階の奥にあるその物件へ歩く間に、相見氏がおおよそのことを教えてくれた。
「二か月前、一月の十二日のことなんだけど、私はここから離れた京都府内のマンションに住んでいたの。そこに、突然電話が掛かってきた。息子からだった」
「ほぉ……息子さんとはよく会ってたんですか?」
「いや、ここ一年くらい、いや、下手すりゃ二年くらいになるかもしれないわ。電話もメールも無いし、帰ってくることも無かった。私は一年前まで東京に居たんだけど、あまりに心配で、何にもならないってことを分かりつつも京都に引っ越してきたわ」
「息子さんはおいくつなんです?」
「ええと、二十四ね。大卒二年目になって、出版社の広報として勤めていたわ」
出版社なら、大小はあってもかなりの重労働ではないか。日々のストレスが祟った、という可能性もまだ捨てきれはしまい。
「この前のスレッドの会話ですけど、どうやってこのスレ見つけたんですか? 日ごろからよく使うんですかね?」
「ええ、実は息子が務めていた出版社というのがオカルト系の雑誌を出している会社でもあって、彼も元々そういうのが好きなこともあって、よくこのスレッドに参加していたと高校生の時に聞いていたのよ」
あのスレッドはそこまでの歴史があったのかと、内心驚く。その昔には、ここまで酷い誹謗中傷は無かったのだろうか。
話をしていると部屋の前に着いた。
あらかじめ管理人から合鍵を預かっているようで、相見氏は皺のある手で鍵を強く握りながら、そっと穴に差し込んだ。
「あ、ちょっと待って」
俺は急いでポーチからスマホを取り出した。
「今から、動画撮らせてくださいね」
キロリと相見氏を睨むと、彼女は不承不承といった様子で頷いた。
「はい、みなさんこんにちは。中学生怪談ユーチューバーの鎧塚将門です。さて本日はですね、途轍もなく奇妙な死に方をしたある人のお宅へやってきております。詳細は部屋の中で、こちらにいらっしゃるEさんにお話を伺おうと思っておりますので、よろしくお願いします」
それでは、ドアを開けてしまいましょう! と言ったタイミングで、相見氏は鍵を回し、ドアノブを掴んでゆっくり引いた。
キィィィィィィ
蝶番の悲鳴が耳を掻きまわす。
ギギギィィィィィィ
ドアが開けていくほど音はもっと、心臓をぶつ切りにするような酷いものへ変色してゆく。
そして、その開けたドアの向こうには、埃の積もった薄暗いフローリングの細い廊下が真っすぐ、一つの部屋へ向かって伸びていた。
「何か、もう、いかにも陰湿な部屋ですね。既にそんな雰囲気をまとっているように見えます。それでは、部屋へ上がらせていただきましょう」
廊下からは左右二つずつドアが付いていた。どちらのドアも、ささくれの酷く、虫が這いずり回ったような跡だらけ、おまけに、所々にシロアリの死骸が葬られている。
俺は深く息を吸って、吐いた。
「廊下はこのような様子です。かなりかび臭い……かびの臭いと、跡は、雨の臭い、あれがもっと腐って酷くなったというか……そんな臭いがします」
隣にいる相見氏も荒い息をついていたが、もはやカメムシ口臭が俺の鼻腔に入り込む余地は無かった。
「さて、まず……左手前の部屋から覗いていきましょうか」
と、言って開けたものの、ちょっとした物置だった。もちろん、中身は何もない。
「続いては……左奥行きましょうか」
今度は、廊下と並行に細長く伸びる設計の洗面所、脱衣所と風呂だった。
「狭い……ですね」
一通り調べたが、特にこれと言ったものは無く、ごく一般的な部屋に見えた。
「では次、右手前はどうでしょう」
開けてみると、左の二つのスペースよりは随分広い、畳六畳ほどの個室だった。
白い糸のようなものが四隅に生えている、畳の部屋。襖には、散りゆく梅の花が描かれていた。
「あれ、ちょっと見てください、障子に破られたような跡がありますね。ここだけ張り替えられてる。被害者が破ったのでしょうか?」
「多分そうでしょうね。会社での仕事はきつく、取引先の人もなかなか自分のことを理解してくれない。本は売れないし、上司や編集の人からも強く当たられていたと聞いたから」
ここまで、苦虫を嚙み潰したように口を結んで歪めていた相見氏が口を開いた。
「壁に、血の跡が付いているでしょう? これは、さんざん壁を蹴って指から出血したらしいわ。襖も何度も外れたみたいだし……そんな行為を夜な夜なするから、当然ご近所さんとのいざこざもあったみたいだわ」
沈痛な表情で語る彼女の顔を、俺は思わずカメラで映してしまっていた。慌ててそれを直したが、彼女はそれには全く関心を示すことなく、廊下へ出ていった。
「それでは、次、右奥の扉です」
ンガアァァァ
下手な鳥の鳴き声のような、軋む蝶番の音。
現れたのは、キッチンとダイニングだった。
キッチンはガスコンロで、被害者が死んでから管理人らはろくに手入れしていないのか、換気扇もコンロも真っ黒で、流しにはぐちゃぐちゃに潰れたトマトが挟まっていた。
――これを最後に食おうとしていたのか。
「ちょっと、これを見てみて。きっと、視聴者が関心を持つはずだから」
彼女が導いたのは、ダイニングのフローリングの床だった。
周囲は埃が積もっているのに、そこだけは埃がほとんど無い。
彼女が指さした先には、何かの生き物の上顎に垂れ下がった危なげな細い牙の絵があった。
赤黒く細い線で、今、刻まれたかのように、くっきりと。
俺の脳裏では、ニマリと嗤った蛇がだんだんだんだん、ニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロニョロ近づいてきていた。
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