第1章 3 温泉と石鹸 1

馬車に揺られて気が付いたが、あの時、領主様が抱えてくれていなければ、痛みで死んでいたかもしれない・・・

そう思うほどに、馬車は揺れる。馬車のせいか、道のせいか、或いはその両方か。

日本という世界では、車という鉄が人を運んでいた。人は足でアクセルという物を踏むだけ。止まりたければ、ブレーキ。

この動作だけで、快適かつ、馬車よりも速く移動する。しかも道は平らでなめらかだ。

そんな物は、さすがにこの国では作れない。桜の記憶にも、その作り方まではなかった。

道に関しては、改善できる可能性はある・・・かも?

断崖絶壁の道を通ったかと思えば、降りしきる雨の中、轍がはまって動けなくなったりと、予想外の事が起きたりもした。

それに途中で寄る宿場はどこもあまり変わりはない。

料理がおいしいか、まずいかの違いはあるが、基本は同じ作り。1度だけ豪華な天蓋の付いた寝台のある宿に泊まったが、寝心地はさして変わりない。

馬車で移動し、宿に泊まり、また移動する。そんな日が20日近く続いた。

おかげで、腰とお尻が痛い。

しかし、悪い事ばかりでもなかった。

途中で休憩がてら寄った場所に、大きな滝のある所があった。

十分な水量と、高さがあり、迫力は満点だった。しかも空気は清々しく、水も澄んでいた。

思わず、皆の前で素足になり足を浸けたら、炎珠(エンジュ)が慌てて駆けてきて足を隠す。

私がそれを払いのけると、女は足を気安く人の見せてはいけないのだと教えてくれた。

前はそんなこと気にしたことはなかったし、気にしていては仕事も出来なかった。

炎珠(エンジュ)があまりに言うので仕方なく、足を隠して代わりに手で水を掬う。

あまりに綺麗な水なので、飲めそうだがやめておいた。

母は日陰でお茶を飲み、護衛の人達はそれぞれに飲み食いして、旅の途中なのにのんびりとした時間だった。

それも半日ほどで終わり、後はまたガタガタ揺れる馬車の中。

それでも何とか珠璃までたどり着いた。

規模は朱義ほどではなく、どちらかというと黄泰に近い。

門番の調べは、護衛の持つ朱家の木牌で難なく通れてしまった。なんて便利な・・・いやいや恐れ多い牌なのだろう。

そんな物を私個人が所有していると思うと、やはり気が重い。

夕方に着いた珠璃の通りは、提灯が店軒を照らし、橙色に染まっている。

それは夕日と相まって朱色の布の上を進んでいるような、風情のある光景だった。

朱色に染まる道の先に、朱家の別邸はあった。

ここもしっかりと門先に朱雀の石像が対で建っている。

馬車の到着と共に、門から初老の男性と若い女性が何人かが出迎えてくれる。

私が歩く先々で一礼されるものだから、私もつられて一礼しようとして、母に止められた。

あなたはもう朱家の人間なのだから・・・と。

確かに貴族の身分になった私が、使用人に挨拶を返すのはおかしい。

しかし、癖という物は治らない物で、ついついその癖が出てしまう。

一礼される度、返したくなる衝動を抑えつつ、用意されていた部屋へとたどり着いた。

ここも朱義の屋敷と変わらないほど広い。

部屋までたどり着くのに、かなり歩いた。

寝台に腰をかけて、しばしの休息を取る。後で夕食を取らなくては・・・

珠璃には1月程滞在予定だ。ここは朱領でも有数の湯治場で、私の足にも良いだろうと、領主様が手配してくれていた。

ここから少し馬車で行かなければならないが、温泉に浸かれるかと思うと、嬉しくなる。

この国では、沐浴するにも一苦労なのだ。井戸から汲んだ水を湧かし、それを木の浴槽に何人か掛りで運び、水を足して湯の加減を整える。そこへ香りのする花や薬草で臭気を払うのだが、以前は夏には川で体を洗い、それ以外の季節は、湧かしたお湯の残りで体を拭くだけだった。

でも、今回は天然の風呂に入ることが出来る。

・・・・何か忘れているような・・・・・

あっあああああああああ!!!!

せっかく温泉に来たのに、石鹸を完成させていない!!

今更気が付いた・・・黄泰で作ろうとしていたあの材料は、どうなったのだろう。

急いで出た上、怪我のせいですっかりと忘れていた。

寝台の上で、一人頭を抱え悶えていると、鈴明(リンメイ)が部屋に入ってきた。

「うわぁ、桜綾(オウリン)の部屋、広いねぇ。あっ桜綾(オウリン)様って呼ぶべきかな?」

「やめて。鈴明(リンメイ)に様付けされるとか違和感ありすぎ・・・いやいやそんな話をしている場合じゃないの!石鹸!石鹸の材料ってどうなったの!!」

鈴明(リンメイ)につかみかかると、驚いて尻餅をついたものだから、私もつられて鈴明(リンメイ)の上に倒れ込む。

その様子を師匠が見て、大笑いを始める。

どうやら鈴明(リンメイ)と一緒に来ていたらしい。入ってくるのが少し遅かっただけで、この有様を見る事になり、腹を抱えて笑っている。

「おじさん!笑ってないで起こして!」

「師匠、石鹸!石鹸の材料は!」

鈴明(リンメイ)と私は同時に叫んだ。

それにまた爆笑しながら、師匠は鈴明(リンメイ)と私を起こそうとする。

「お前達は・・・何をやってるんだ?俺を笑わせるためにわざとやってるのか?」

笑っているせいで腕の力が入らないのか、2人起こすのに時間がかかった。

やっと立ち上がった時には、師匠が腹を抱えて座り込んでいた。

「師匠!分かったから、石鹸だってば!」

座り込んでいる師匠の頭上から私は叫ぶ。

「あぁああ、今更か。石鹸までは出来てないが、油は作って持参してある。思ったよりは少ないかもしれんが。なんせ、実が腐ったのもあったからな。俺の部屋に置いてある。」

やっと笑いの止まった師匠は自分の部屋を差しながら答える。

「お前が寝込んでる間、時間があったからな。油までにはしておいたが・・・後の行程を忘れてな。そこまでしか出来てない。」

忘れたって・・・まぁ油が出来ているなら、後はそんなに時間はかからない。

「師匠、これから木炭と水用意出来る?出来るよね?木炭なんてここには沢山あるだろうし・・・それから水と、鍋も用意しておいてね。どこかでムクロジでも手に入ればいいんだけど・・・」

「お前・・・思い出した途端、俺をこき使う気か?しかもここに着いたばっかりだぞ!休ませてくれよ・・・」

笑っていたはずの師匠は今、座ったまま項垂れている。

隣ではあきれ顔で立っている鈴明(リンメイ)の姿もあった。

「あっごめん、ごめん。ついつい・・・」

どうせ温泉に行くなら石鹸が欲しくて、つい思考がすべてそっちに持って行かれてしまった。

鈴明(リンメイ)が座っている師匠を立ち上がらせる。

「桜綾(オウリン)も大概、発明馬鹿よね・・・。おじさん程じゃないと思ってたけど、同じ匂いがする・・・。」

返す言葉が見つからず、頭を掻く。

「いや、石鹸はずっと欲しかったものだから、ついつい・・・」

「その割には、忘れていたじゃないか。」

師匠はむくれて私に言葉を返す。

「だから、ごめんって。材料は明日、私が集めるよ。油もその時にもらいに行く。どうせ、ここの人に聞きたい事もあるし。」

「聞きたい事?」

鈴明(リンメイ)が師匠の衣の裾を叩きながら、こちらを見る。

「うん。ムクロジ・・・うーん、水に浸けると泡の出るような実を知らないかと思って・・・この辺にもしあれば、石鹸をもう少し改良できるかなぁと。山も近いし・・・」

「あぁもしかしてあれかな?黒い実で・・・なんて言ったかなぁ・・・」

鈴明(リンメイ)は頭を叩きながら思い出そうとしている。

初めに石鹸を作る時は、ムクロジのようなものが存在するとは思っていなかったが、どうやら存在するらしい。

薬草の書物にも載っていなかったと思うが・・・まぁそもそも薬草の分類ではないのかも。

「思い出した!泡活草の実だ!」

「泡活草?」

聞いた事がない・・・

「私も見たことはないよ。聞いた事があるだけ。黄泰にいた頃、国中を旅してる一座の人から聞いたの。どこかは分からないけど、そういうのがあるって。」

泡活草の実か・・・手に入れば良いけど。黄仁の国は広いし、ただの実だとしたら売られている可能性はないかも・・・

もしくは、探してみるか・・・いやいや、探すにしてもこの足では、いける範囲も限られている。確かムクロジは温かい地方に生息していたはずだけど、泡活草がそうかも分からない。

私は考えながらどうやら、ブツブツ言っていたらしく鈴明(リンメイ)が肩を揺らして、私を現実へと戻す。

「ちょっと、桜綾(オウリン)、しっかりしてよ!もうすぐご飯だから着替えないと。汚れた服じゃ、また炎珠(エンジュ)に怒られるよ。」

そういうと私を寝台の縁へ座らせた。

「おじさんも疲れてるなら、早く部屋に戻りなよ。桜綾(オウリン)は私が見るから。」

その言葉に、師匠はトボトボと部屋を出て行った。

それを確認した鈴明(リンメイ)は扉を閉めて、私に着替えを促した。

以前は、何日も同じ服を着ていたし、それも着古したものばかりだったが、今では綺麗な衣を、度々着替える。

正直、めんどうくさいと思う事もある。大して汚れてもいないのに着替えるなんて。

着ていた衣の上を脱ぎ、鈴明(リンメイ)が用意してくれた衣に袖を通す。

薄紅色の春らしい衣には、花と蝶の刺繍があしらわれている。

たが、麻糸で作られたものよりも軽いが、ひらひらとして動きにくい。

頭にも慣れない豪華な簪が挿されているし、正直苦手だ。

鈴明(リンメイ)が着ているような、袖が短く、しっかりした作りの物の方が動きやすそうだ。

朱有についたら、ああいう衣の方が仕事もしやすいな。

と、そんなことを考えていたら、炎珠(エンジュ)が夕食の支度が出来たと呼びに来た。

重い腰を上げて、杖をつきながら部屋を後にした。



翌日、私は朝早くから、薪小屋の前にいた。

木炭の灰をもらうためだったが、予想以上に沢山あったので、取りあえず桶に半分をもらうことにした。

今はそれを入れてもらっている最中だ。

桶に入れ終えたところで、それを受け取り、片手で運ぼうと振向いた時、そこにいるはずのない人の姿があった。

「領主様!」

驚いて声を上げ、尻餅をつく寸前で領主様が私の手を掴んでくれたので、どうにか免れた。

「足が悪いのに相変わらず桜綾(オウリン)は、目を離すと無茶をするねぇ。」

そう言いながら、持っていた桶を領主様が取り上げる。

「いつこちらへ?昨日はいらっしゃらなかったという事は、昨夜のうちに来られたのですか?」

私は姿勢を正し、杖を持ち直して領主様に尋ねる。

領主様は笑顔のまま

「夜遅くにこちらについた。皆、寝ているようだったから、起こさなかったのだ。さて桜綾(オウリン)。こんな朝早くから、君はこんな所で何をしていたのだい?」

灰の入った桶を掲げながら聞いてくる。

「石鹸を・・・」

「あぁ、そういえばそんな話もあったね。忘れていたよ。」

「師匠が椿の油だけは作っておいてくれたらしいので、どうせ温泉に行くなら、作りたいな・・と」

朝日だけでも眩しいのに、無駄にまぶしさを振りまく領主様に、ちょっとだけ迷惑感を持ちながら、うつむき加減で話す。

(そうだ、泡活草・・・領主様なら知ってるかも)

そう思って、顔を上げると、至近距離に領主様がいたので、慌てて後ろへ下がる。

「そんなに毛嫌いしなくても・・・」

「いや、そんなに近くなくても、話は出来ますから!」

(この人、絶対わざとやってるんだろうな)

私の反応を見て楽しんでいるように見える。

が、今はそれよりも・・・

「領主様、お聞きしたいことがあるのですが、この辺りに泡活草があるかどうかって分かりますか?」

「泡活・・・草とはどんなものなのだ?」

「私も詳しくは分からないのですが、実を水に浸けて混ぜると泡が立つような草木です。」

鈴明(リンメイ)にきいただけなので、随分と大雑把だが、それ以上の情報がないので仕方がない。

「それは前に言っていた材料の中にはなかった様に思うが、石鹸に使うのか?」

師匠よりは記憶力が良いようだ・・・まぁ領主様なら当然か。

「以前はそんなものがあるとは、思っていなくて。でもこの世界にも存在すると聞いたもので。」

「この世界?」

あっやってしまった・・・というか、そんな所の会話を。拾わないでよ。

「いやいや、この街に売っていたりするかなぁとか・・・あっもしくは自生していたりとか・・・」

慌てて誤魔化すが、領主様の目は細くなっている。明らかに何か言いたげだ。

「この街に、・・・ねぇ。私は知らないが、欲しいなら探してみよう。急ぎなのかい?」

意味ありげに答えるが、それ以上は聞いてこなかった。

「いえいえ、急ぎではないのですが・・・それにどうしても必要と言うわけではないので。取りあえずそれを運びたいのですが。」

私は自分の部屋の方へ目を向ける。ずっと灰を持たせたままでは申し訳ない。

「そうだったね。持っている事を忘れていたよ」

領主様は笑いながら、私の部屋の方へ歩き始めたので、私も付いて行く。

こちらの早さに合わせてくれているのだろう。ゆっくりとした歩き方だ。

「こちらに来るのに、不便はなかったか?」

「馬車の揺れはひどく、道はガタガタで・・・お尻が痛くなった以外は快適でした。」

「いや、それは快適とは言わないのでは?大半が馬車での移動であろう。」

おっしゃる通り。不便ではなかったが、快適ではなかった。

私は苦笑いを返す。

「確かに長旅での馬車移動は疲れるが、歩くよりはましだろう。その足では歩けば、いつここにたどり着けたやら」

そんなことを話しているうちに、部屋の前までたどり着くと、炎珠(エンジュ)が立っていた。

領主様の存在に気が付き一礼すると、私の元へ駆け寄り

「桜綾(オウリン)様!心配しましたよ!もう。どこへ行かれていたのですか。領主様!何を待たれているのですか?私がお持ちします!」

鈴明(リンメイ)に負けず劣らず、まくし立てたように話す。

「体調もいいし、石鹸を作ろうと思って、木炭の灰をもらいに行ったら、領主様にお会いしたの。」

ことの経緯を説明する。

「なら、私か鈴明(リンメイ)を呼んでくだされば良いのに。で、石鹸とは何ですか?」

う・・・また石鹸の説明をするのか。もう何度目だろう・・・

「こう見えても、桜綾(オウリン)は発明家なのだ。新しく、汚れを綺麗に落とせる石鹸というものを作るらしい。まぁ出来て見れば分かるだろう。私も楽しみにしている。」

めんどうくさいと思っていた私の代わりに、領主様が説明してくれる。

炎珠(エンジュ)は持っている木炭と私を交互に見ながら、不思議そうに問う。

「灰で汚れが落ちるのですか?」

「灰ではさすがに落ちないよ。それに手を加えないと。まぁ一緒に作れば、分かるよ。」

炎珠(エンジュ)が持っている木炭を取り上げ、地面に下ろす。

「灰が沢山入るくらいの鍋を一つ、借りてきてくれない?あと、桶に熱いお湯も欲しい。」

そういうと、炎珠(エンジュ)はまだ首をかしげながら、厨房の方へと向かっていった。

領主様は縁側に腰掛けて私達の様子を見ている。

私は部屋から絹の生地の手巾を2枚持ち出すと、それを重ねる。

炎珠(エンジュ)が持ってきた鍋には、全部の灰は入らないため、鍋に三分の一程の灰を入れて、そこにお湯を鍋一杯に注ぐ。

後は粗熱が取れるのを待たなくてはならないので、そのまま放置することにした。

粗熱を取った灰汁と、一晩寝かせた灰汁と2種類の灰汁で作って見るつもりだ。

取りあえず、今は出来ることがないので、領主様の横に腰掛ける。

「もう終わりなのかい?」

「今は出来ることがないです。あの鍋のお湯が冷たくなったら、次の作業に移ります。」

領主様の横に座ったものの、そこから何を話して良いか分からない。

炎珠(エンジュ)はすることがないと分かると、私の部屋の掃除へ行ってしまった。

手持ち無沙汰に、庭を眺めている。その間も領主様はそこを離れる気配もなく、一緒になって庭を眺めていた。

花に寄ってきた綺麗な蝶を目で追いながら、春の生温かな風を感じていた。

黄泰よりもこの季節にしては暖かい気がする。珠璃の方が南に位置しているのでそう感じるのかもしれない。

「桜綾(オウリン)の周りはいつも穏やかだね。」

突然、領主様が口を開く。

「そうですか?鈴明(リンメイ)も炎珠(エンジュ)も師匠も皆騒がしいですよ。いつも怒られてばかりですが。」

まぁ私が騒いでいる時もあるが、どちらにしろ、穏やかとは違う気がする。

今のこの時間の方がよっぽど穏やかだ。

「騒がしくても、私には桜綾(オウリン)の周りの空気が好きなのだ。よく分からないが、落ち着く。」

私の方がよく分からないが、領主様がそういうならそうなのだろう。

「私の周りは静かすぎて、時折、空しくなる時がある。大半は仕事でそんなことを思う暇もないが、ふと我に返ると、その静けさが妙に虚無に感じることがあるのだ。」

領主という地位は私達平民からすれば本来、手が届かない程の人だ。けれど、人に出来ない仕事な分だけ、人に言えないことも多いだろうし、逆に、その地位のせいで人から距離を置かれる事もあるだろう。

皇帝は孤独だという言葉を知っているけれど、領主様もそうなのかもしれないと思った。

そう考えると、私に丁寧な言葉を止めろと言うのも、分かる気がする。私の勝手な解釈だが。

「私達が朱有に行ったら、うるさくて仕事が手に着かなくなるんじゃないですか?そしたら、静かな時間が恋しくなるかもしれませんね。」

少し微笑み気味に返す。領主様は少しうつむき加減で、笑顔だけど目は笑ってなかった。

「だから、そろそろその話し方を直してもらえないだろうか。普通に話して欲しい。せめて2人の時くらいは・・・」

まだ言ってる。よほど私の話し方が嫌なのか・・・どうして、そんなに話し方にこだわるのかは分からないけれど。

「初めて会った時は素直に直してくれただろ?そうしないと私もこの話し方を崩せない。」

・・・・・・・・・・・・・・

少しの間沈黙した。きっとここで直さなければ、また命令するんだろうか。でもこれほどまで言うのはきっと、本当に普通に話す事を望んでいるのだろう。

はぁぁぁ。

1回大きくため息をついて、領主様の方をまっすぐ見る。

「分かりました。分かったから。これでいい?でも2人の時だけ。領主様に変な噂でも立ったら大変だし、私もそれで嫌われたくないから。」

領主様は俯いた顔をこちらに向けて、にっこり笑って縦にブンブン頭を振っている。

(犬か・・・)

「それから、領主様じゃなくて、宇航(ユーハン)だよ、ユーハン。呼んでみて。」

(名前まで呼べと・・・ああ!もうどうにでもなれ。犬を呼んでいると思えば・・・)

なんて頭の中では大変失礼な事を考えていたりするが。

「宇航(ユーハン)・・・様?」

「そうそう。様は要らないのだけが?」

「駄目です。様は譲りません。それが嫌なら、領主様と呼びますよ。」

「分かった、それでいいよ。」

そういうと、両手を上に上げたまま、後ろへ勢いよく倒れ込む。

ゴンッという鈍い音がしたが、宇航(ユーハン)様は笑っている。打ち所でも悪かったのだろうか。

「ありがとう。桜綾(オウリン)。」

急に真面目な顔つきで私に礼を言う。

「お礼はいいから、起きて。衣が汚れるから。それ洗うの、大変なんですよ。それにもうすぐ朝食時間です。汚れた衣で行くつもりですか?」

なんだか不思議な言葉遣いになるが、慣れるまでは我慢してもらうしかない。

宇航(ユーハン)様を起き上がらせて、私は立ち上がった。

それに付いて宇航(ユーハン)様も立ち上がる。

「そろそろ行きましょう。きっと皆、宇航(ユーハン)様の顔を見たら喜びますよ!」

杖をつきながら広間への道を歩く。宇航(ユーハン)はその後を相変わらずの笑顔でついてきた。

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