3.理想の御伽噺。





「やあ、本日は初勤務お疲れ様だね。天ヶ瀬礼音くん」

「し、失礼します! 亜笠アガサ理事長!」



 生徒二人による学校案内を終えると、ちょうど理事長との面会の時間に。そんなわけで、俺をこの学園に招き入れた女性のもとを訪れた。

 ノックして入室すると、亜笠クリスさんは景気の良い口調で声をかけてくる。こちらの緊張など気にしない様子で、長い黒髪を揺らしていた。眼鏡の奥にある理知的な視線を俺に向けている。以前に居酒屋で会った時と同様、ピシッとしたスーツ姿の理事長はおもむろに立ち上がって部屋の中央にあるソファーへ移動した。


「そこまで気を張らなくても構わないから、そちらに掛けてくれ」

「あ、ありがとうございます……」


 俺が促されるままに失礼すると、彼女は対面に腰かける。間に置かれているテーブルにはボトルやグラスが用意されていたが、もしかして仕事中でも嗜むことがあるのかもしれなかった。

 そう考えていると止める間もなく、理事長はとても自然な流れでグラスに紫の飲料を注いだ。そして、これまた自然な流れでこちらへグラスを差し出す。


「新たな門出の日だよ。……さっそく、乾杯といこうじゃないか」

「え、いや……でも……」

「ははは。遠慮しなくていいさ。それに、ヴィンテージだぞ?」

「余計に飲めないんですけど……!?」


 俺は緊張感から拒否するが、彼女は気にした素振りもなかった。

 さすがにこれ以上、相手の好意を断るのは失礼だろう。そのように考え直した俺は、一つ小さく呼吸を整えてグラスを手に取った。

 すると理事長も同じようにして、自身のそれを軽く持ち上げて言う。


「……乾杯」


 そして優雅に、ヴィンテージワインを口にした。

 俺もそれに倣って一口、少量を流し込む。すると今までに飲んだことのない深みある味わいが、舌先から喉の奥へと伝っていくのが分かった。これがいわゆる『芳醇な』というものだろうか。

 鼻を抜けていく香りに魅了され、俺はすぐにもう一口。

 理事長はそんなこちらを見ていたのか、クスリと笑って言った。


「どうだい。新しい仕事を終えた後の一杯は」

「……正直なところ、驚いてます」

「ふふ、そうだろうね」


 彼女の言葉に素直に答えると、思い通りのものだったらしい。

 穏やかに笑みを浮かべて、理事長はさらに続けた。


「でも、もっと大きな役割を果たした後はもっと美味いものだよ。天ヶ瀬くんにはこれから、さらに活躍してもらいたいと考えているからね」

「さらに、活躍……ですか?」

「あぁ、そうさ」


 俺が聞き返すと、理事長は頷く。


「キミも知っての通り、この学園は特殊な場所だ。外の世界から隔絶されているにもかかわらず、それを感じさせない。しかし時がきたら、少女たちは有無を言わさず最前線へと放り込まれる」

「………………」

「理事長である私が言うのもアレだが、ここは牢獄か。あるいはそうだな、自分の思い通りに子供たちを調教する場所、とでも表現すればいいだろうか」

「そんな、言い方……」


 俺が微かに目を伏せると、理事長はゆっくりと首を左右に振った。

 そして、昼にも聞いたような現実を突き付けてくる。


「だが、それが事実。そのことは、受け止めなければならない」

「それは、そうですが……」


 さすがの俺も、事実というのは言い返せなかった。

 だから沈黙するしかない。しかし、そんなこちらに理事長は言った。


「もっとも、それはあくまで現状に過ぎないよ」

「現状に、過ぎない……?」

「噂を耳にしたのだが、キミは今日の昼に威勢のいいことを言っていたらしいじゃないか」

「あ、う……それは、たしかに言いましたけど……」


 いったいどこから仕入れたのか。

 俺は様々な可能性を考えたが、居酒屋で初めて会った自分の名前を知っていた彼女に、細かいことを気にしては負けな気がした。だからいっそ認めることにして、正直な気持ちを告げることにする。


「……そう、ですね。言いました。現状が悪いのであれば、それを変えていくようにするのが大人たちの役割だとも思っています」

「なるほど、ね」


 すると理事長は小さく笑みを浮かべながら、またワインを一口。

 その上で、どこか念を押すように言うのだ。


「いまの世界はたしかに歪だ。そのことは、キミ自身も理解しているだろう。だけどね、現状のシステムを改革するのに人間一人の力はあまりにも弱い」


 それは、間違いなくそうだろう。

 いくら権力がある人間でも、容易に国を変えることはできない。だってたくさんの人間の集合体が国であり、全員が同じ方向を向かなければ変革などしようがない。

 そのことがいかに難しいのか。

 日常の一端を変えることさえ難しいのだから、考えるまでもなかった。


「それでもキミはまだ、大人の役割はより良き未来を示すことだ、と?」

「………………」


 難点を示した上で、理事長は訊ねてくる。

 だが、ここで引いてはいけない。俺はそんな覚悟では、いないのだ。


「理想論だというのは、理解しています。それでも、少なくとも――」



 だから真っすぐに、彼女の目を見て宣言する。



「俺はそう、信じています」――と。



 理想は掲げ続けなければ、意味などない。

 たとえ、笑われたとしても。その領域に達した人々はみな必ず、そこへ行きたいと考え続けていた人に他ならないのだから。

 だから俺は、たとえ馬鹿にされても理想を掲げ続ける。


「そう、か……」


 そんな俺の声を聞き届け、理事長は目を細めた。

 そして、ワイングラスを掲げて言う。



「ならば、見守らせてもらうよ。……その御伽噺フェアリーテイルを」



 俺はきっと、その時の彼女の表情を忘れない。

 何かを深く憂いているような、悲しげなその眼差しを……。



 

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