第5話 緩急!
「先生、そんなこと簡単に言いますけれど、二分間ずっと逃げ回る訳にはいけないですよ。反則負けになりますよ」
菩提山高校ボクシング部の日比野はステーキを切るナイフとフォークの手を止めて、口を尖らせて不満気に言う。
「ああ、そうですね。でも勝とうとパンチを打つと地獄のカウンターが待ち構えています。だから、まずはできるだけ脚を使ってできるだけ回り込むように動き回って
竹中教諭は言い終えると、飲み物のように猛烈な勢いで辛口のキーマカレーを頬張る。
「先生、Tシャツにカレーが飛んで染みになってますよ」
井ノ口高校ボクシング部の森小五郎が見かねて注意する。
「なあに。大丈夫。カレーのこの色は材料の香辛料ターメリックの色素のクルクミンです。クルクミンは紫外線に弱くて分解されやすいから、洗った後何回か天日に干せば目立たなくなりますからへっちゃらです。あまり細かいこと気にしたら負けですよ」
「はあ、さすが進学校の先生ですね。なんて合理的な!」
「森くん、菩提山高校は進学校だけど、竹中先生ほどマイペースな先生は他にいないから。普通の先生方はちゃんと汚さないように食べてるからマネしないほうがいいよ」
明日、三分と対戦予定の遠山が森に釘を刺す。
「え、そうなんだ。ありがとう、わかった」
「大丈夫です。ステーキは飲み物じゃないから、君たちはよく噛んで食べましょう」
「カレーも飲み物じゃないんですが。まあそれは置いといて。先生、ガードを固めて超接近戦でボディ狙いって、さっきの革工の柿田くんみたいな戦法だとやっぱり三分くんの肘の餌食になるんじゃないですか?」
日比野が反論すると、当事者の遠山も、既に三分に一回戦で秒殺された森もうなずく。
「だからそうならないように、遠山君、まずは超接近戦で遅いパンチを打ってください」
「え? 遅いパンチですか?」
遠山が思わず裏返った声で聞き返した。日比野も森もポカンと口を開けたままだ。皆、ステーキを食べる手が止まってしまった。竹中教諭はセットになっていたラッシーをじゅるじゅる音を立てて飲み干しながら話を続けた。
「そうです。遅いパンチです。三分くんは反射神経が良すぎますから、少々速いパンチを打ってもどうせ当たりはしませんよ。あ、ウエイターさん、ラッシーもう一杯ください」
竹中教諭は生徒たちが混乱しているのにかまわず、マイペースに飲み物をお代わりした。
「竹中先生! ちょっと待ってください! 三分はパンチの中で一番速いジャブにすら絶妙にタイミング合わせてハイジャックするようなカウンターを打つ化け物ですよ! そんな相手に遅いパンチを打つだなんて、それこそ三分の思いのままじゃないですか?」
三分にKOされた森が反論すれば、遠山も日比野もうなずいている。
「野球のピッチングでも緩急が大事じゃないですか。三分くんには初球スローボールが有効ということです。予想されるスピードのパンチよりもずっと遅ければ、彼の攻撃的な肘ブロックも空振りになるか、タイミングが狂って肘がこちらの腕の急所にあたったとしてもジャストミートじゃなくってファウルチップですむはずです」
「「なるほど!」」
日比野と森が感心する。だがそれに異を唱えるものが一人。遠山だ。
「でもそんなパンチ当たっても効かないんじゃないですか?」
「「あ!」」
日比野と森がしまったという顔をする。だが竹中はにこにことして話を続ける。
「でも、三分くんは今までの試合を見ている限り、まともにパンチをもらったことがないから、打たれ強いのか打たれ弱いのかは僕にも予想がつかないんですよ。効かないとは思うんですけど効けば儲けものじゃないですか。ともかく、効かなくてもいいから、ボディでもガードしている腕でも超接近戦でぺしぺし叩いちゃってください」
「先生、その効かないパンチに意味はあるのですか?」
試合の当事者になる遠山は真剣だ。
「いっぱいありますよ。手数がでているから反則にならないで時間稼ぎになる。運が良ければポイントももらえる。三分くんがが遅いパンチにとまどえば、思考や動きが止まって隙だらけの棒立ちになるかもしれない。もしくは効かないからこそイライラしてきて雑な攻撃を繰り出して隙が生まれるかもしれない。精密機械みたいなスタイルの三分くんに隙を作らせる可能性があるだけでもやる価値はあると思います」
森と日比野は竹中の説明を唖然として聞いていた。やはりこの竹中教諭はどこかぶっ飛んでいる。
「では、三分くんが冷静に遅いパンチのスピードに肘ブロックのタイミングを合わせてきたらどうするんですか?」
遠山はさらに突っ込んだ当然の質問をする。
「その可能性が実は一番高いと思いますよ。スローに慣れてきたら今度は逆には普通のスピードでのパンチです。野球でもスローボールの後の速球は錯覚ですけど相対的にものすごく早く見えるんですよね。だから、早く打ったり遅く打ったりスピードをわざと変えることで相手のディフェンスのタイミングを徹底的に狂わせてあげましょう。三分くんのボクシング歴は半年ちょいでまだ試合経験も二試合だけです。それも圧倒的な運動神経のスペックだけで勝ち上がっています。こういった緩急の変化は未知の世界。対応できないと思いますよ」
竹中教諭はラッシーを飲んだストローを振り回して緩急の差を実演しながら熱弁した。
「先生、もし、三分がそれにも対応できる天才だったとしたら?」
「球種をもう一つ増やしましょう。速球とスローボールだけじゃなくて、チェンジアップも使いましょうか。パンチを途中で一旦停止してから再スタートさせます。再スタートの前後のパンチのスピードも速い、遅いの二種類の組み合わせで四通りできます。これで君は六種類のタイミングのパンチが打てます。これだけでもいけるんじゃないかなと思いますが、どのパンチが出るかわからないようにランダムさを徹底させるなら、あらかじめサイコロを何十回か振ってその順番を暗記しておくんですね。そして相手の動きにかかわらず、機械的にその順番でパンチを出し続ける。これだと癖の出しようもないから絶対に読まれないです」
遠山のしつこい質問に対しても、竹中は上機嫌でストローを振り回し、より複雑な緩急の差を実演して見せた。
「とは言うものの、本当に勝ちたいんだったらこれで三分くんを倒そうだなんて思わないことです。いくらポイントを取られてもかまいません。KOされたりレフリーストップにならないように第1ラウンドを乗り切ればほぼ自動的に遠山君の勝ちは確定するんですから。今できるアドバイスはこれくらいですね。このアドバイス、使うかどうか、君次第です」
「竹中先生、わかりました。貴重なアドバイスありがとうございました!」
遠山と日比野が立ち上がって礼をする。森もあわてて立ち上がって竹中教諭に向かって礼をした。
「竹中先生、すごいです! わずかな情報でそこまで相手の弱点をつかむのですから!」
「いいえ、こちらこそ、ボクシングの話ができて僕も楽しかったです。さあ、あとは普通に食事を楽しみましょう」
「「「はい!」」」
「「「先生、ごちそうさまでした!」」」
「うん。森くんも今日はありがとう」
「いいえ、貴重なお話を伺えました」
「ならよかった。じゃあみんな、また明日。遠山くん、明日頑張ってね」
「はい」
「じゃあ、おやすみなさい」
「「「おやすみなさい」」」
竹中は生徒たちと別れて一人帰途に就いた。
学生たちと別れての帰り道、竹中教諭はふうと、ため息をついた。そしてぼやく。
「ああ言ったものの、場合によっては
しばしためらった後、竹中教諭はとある番号に電話をかけた。
つづく
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