5. かげぼうし



 手記を読み終えた私は、言い表せない感情に支配されていた。

 怒りとも悲しみとも違う。

 

 私は、無力だ。


 空っぽになった心は、更に底があったのだ。

 私を維持する大切な物が、全て灰で包まれていくような気がした。


 虚ろな眼差しで最後の行を何度も眺めていると、じぃちゃんが再び話し出した。


「コク、お前たち2人の運命が悲劇を繰り返していたとしても、今世でのお前はお前だけだ。ハクもだ。今世のハクはあいつだけだ」


 そこまで言うと、カウンターに置いていた手を私の肩にそっと置いた。


「いいか、忘れるな。ハクがお前を守ったのは下らない自己犠牲からなんかじゃない。お前達の運命を変えようとした結果なんだ。お前を、そして自分自身を救うために。今もお前の瞳となって一緒に戦っているんだ」


 そうか。

 彼女は散りゆく運命だと理解した時、私に何かを言いかけていた。

 それはきっと私を縛る枷となり、私を救う薬になる事だったのだ。


 “私と戦って”


 私は、虚ろだった瞼をそっと閉じた。

 ゆっくりと瞳を開けると、じぃちゃんの目をまっすぐ見た。


「じぃちゃん、私、旅に出るよ」


 そう言うとじぃちゃんは、優しい笑顔を浮かべて私の肩を力強く叩いた。

 やっぱり、じぃちゃんは厳しくて優しい人だ。


 いつの間にか固く握っていた拳を緩く開いた時、灯りを見つけた心で蓋をした感情を見つけた。


 それでも、一緒に生きていたかったな。


 𓃹


 しばらくカウンターで飲み物を頂いていると、2階から小さな男の子の声が聞こえてきた。


「じぃー!ごはんー!」


 じぃちゃんは、男の子に返事をしながら私もついてくるようにと言った。


 2階は住宅になっていた。

 階段と繋がった心地よい狭さのリビングに、扉がついた部屋と扉のついていない部屋が隣接している。

 リビングの真ん中には、ちょうど良い大きさの机と丸い椅子が6脚並んでいた。


「あら?お客さん?」


 じぃちゃんと同じ色をしているであろう朗らかな女性が、リビングに付属したキッチンからこちらを覗いた。


「おう。こいつの分も用意できるか?ハクの片割れだ」


 じぃちゃんがそう言うと、エプロンで手を拭いながら女性が歩いてきた。


「あらぁ。この子が森の魔女さんかね。いつもありがとうね。それにしてもほんっと、ハクちゃんそっくりなんだねぇ」


 優しくて暖かい眼差しに頬が緩んだ。


「コクちゃんの分は問題ないよ。いつもの癖で作りすぎちゃってねぇ。どうしようか考えていたところだから助かるよ」


 シャーリーと名乗った女性がそう言って食卓に案内してくれた。


 食卓には先客が2人居た。

 さっきじぃちゃんを呼んでいた小さな男の子と、私よりも少し歳上に見える女の子だ。


 一生懸命話をしている男の子を、女の子が優しく見守っていた。

 その空間は、とても温かくて懐かしいものだった。


「わー!くろいまじょさん!?」


 こちらに気がついた男の子が大きな声で言った。

 

 先程から思っていたが、私は魔女だと言われているのか。魔法なんて使えないのに。


「わぁ。本当だわ!魔女様に会えるなんて…!あ、初めまして!私はリリーです。ほら、ミケルもご挨拶して」


 男の子の視線を追って振り向いたリリーが、立ち上がって頭を下げた。

 髪を後ろで1束に緩く編んだ、優しい瞳の女の子だ。


「あ!ミケルです!えっと!まじょさんに、いつもありがとうって言いたかったです!」


 リリーに習って立ち上がったミケルは、瞳を輝かせながらそう言って頭を下げた。

 人に頭を下げられる経験が無かった私は、目の前で手を振りながら慌ててしまった。


「あの、魔女じゃなくてコクです…。あ、あと頭あげて…。あ、初めまして…」


 結局、私も頭を下げた。

 人とのコミュニケーションは難しい。


「ははっ!お前達仲良くなれそうじゃねぇか!まぁ、ほら!席に着け!」


 私のご飯を持ってきたじぃちゃんが、豪快な笑い声をあげて言った。


 大人しく席に着いた私達4人は、2つ空いた座席と静かになった外の景色に触れないまま、楽しく食事をした。


「コク。お前さん、しばらくここに泊まるといい。旅に出るとは言っても、すぐに出る訳にいかんだろ。外の世界の事、学んでからにしなさい。金の使い方とかよ。それから、その景色に慣れるまでここにいろ」


 デザートを用意してくれたシャーリーにお礼を言っていると、じぃちゃんがそんな提案をした。

 

 私は、慣れない視界と不安な心を強引に背負って、すぐにでも谷を出ようと思っていた。

 じぃちゃんのおかげで、行くあてもなく彷徨いそうになった衝動を、引き留めることが出来た。


 私の部屋はリリーの隣だった。

 扉付きの部屋が寝室になっているらしい。

 おやすみなさいと微笑んだリリーの優しい笑顔が、空っぽの心を少しだけ撫でた。


 𓃹


 翌朝、知らない窓から、まだ霧が立ち込めている外を眺めた。

 

 夢ではなかったのだなと思った。

 色が無くてもご飯は美味しいし、彼女がいなくても随分と楽に息をしていた。


 窓の外には、蔦でできた手すりのベランダがついていた。

 ベランダに出ると、朝の隙間なく鮮明で霞んだ空気が肺を満たした。

 

 あの日も確か、こうだったな。

 魔物避けのランタンが、さらりと霧に流れていて。


 あの日、記憶が戻ったのか。

 ああ、そういえば。

 思い出したって言っていたのは、そういう意味だったのか。


 なんと言っていたか…。

 また守られた、そう言っていた。

 彼女の世界は、孤独だったのだろうか。


「あらぁ?早いのね、おはよう」


 リリーの部屋とはベランダが繋がっているようだ。

 目を擦りながらベランダに出てきたリリーが、ふわりと微笑んだ。

 つい、彼女の影を重ねた。


「おはよう、リリー。私は狩りに行っていたから、このくらいに起きるの癖なんだ」


 そう言うと、リリーの手が頭に伸びてきた。

 偉いなぁと大袈裟に言って頭をふわりと撫でる。

 心地よくて寝てしまいそうだった。


 リリーと共にリビングへ行くと、シャーリーが朝食の準備をしていた。

 ちょうど、天井が丸い窯からパンを取り出すところのようだ。

 見覚えのあるパンだ。

 私達がいつも食べていたパン。


「そのパン、シャーリーが焼いてたんだ。私、好き」

 

「そりゃ嬉しいねぇ!毎週ハクちゃんに渡す時もね、コクのお気に入りなんです〜!なぁんて言われてさ」


 パンをケーキクーラーの上に並べながら、懐かしむように言った。


「コクちゃんの好み、今みたいに教えてくれよ。しばらくこの家にいるんだしさ。いつも魔獣を狩ってくれていた恩返しをさせてくれ」


 母のような笑顔でそう言うと、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 リリーもそうだが、この家の人は頭を撫でる習慣でもあるのだろうか。


「おはよー…。まじょさんまだいるー?」


 ポテポテという効果音がしそうなミケルが、猫のぬいぐるみを抱えながら頑張って起きてきた。


「おはよう、ミケル」


 私はしゃがんでミケルの頭をそっと撫でてみた。


「まじょさんいたー!ゆめかとおもっちゃったー!」


 ふわりと笑うミケルの頭をもう一度撫でた。

 自由に踊る寝癖に、つい彼女の影を重ねた。


 𓃹


 朝食が終わった後、じぃちゃんを訪ねて階段を下りた。

 

 じぃちゃん達の一族は、ドワーフを祖としているらしく、鍛冶を生業にする者が多いとリリーが教えてくれた。

 じぃちゃんも鍛冶師として、1階の鍛冶場で魔道具の加工をしているのだとか。

 1階が酒場のような内装になっているのは、お酒好きな先代の趣味らしい。


 昨日と同じ席に、杯をゆらゆらと揺らしているじぃちゃんを見つけた。


「じぃちゃん、おはよう。あのね、お願いしたいことがあります」


 話しかけると、こちらを振り向いて優しい眼差しで私を見つめた。


「昔、スノーラビットの雪の結晶を手に入れたの。ハクが気に入ったからずっと保管してて。その、この前くれたお守り壊れちゃったから、また作ってくれませんか」


 じぃちゃんは、立ち上がってこちらに来ると私の手に覆われた結晶を覗いた。


「良い品だな。状態もいい。これなら良い効果が付与できる。お前の出発までに仕上げてやる。任せろ」


 じぃちゃんは優しい笑顔を向けながら結晶を受け取った。


「よし!俺は今から作業に入る。お前はリリーにこの町の事を聞いておけ」


 私が頷くと、じぃちゃんは私の頭を雑に掴んだ。

 きっと撫でているつもりなんだろう。


 𓃹

 

「まず、生き残っているのはね、この家にいる私達の他に、畑に住んでる人達と、農場に住んでる人達。畑は、あの山の方にあって野菜を育ててくれてるんだ!多分コクも食べたことあるはず!それで、向こうの草原にある農場でが、牛とか山羊とか鶏とか!たくさん育ててるんだよ!ミルクとか卵とかはあそこから届くんだよ!」


 谷の民達がどのような生活の仕組みで生きていたのかを、リリーは話してくれた。

 私は、庭にある柔らかい草が積もった塊に座って聞いていた。


 民達には1人1人役割があって、物々交換をしながら自給自足の生活をしていたそうだ。

 

 そして、現在生き残っている民は3世代。

 とは言っても、血の繋がりはないが同じ屋根の下で暮らしている人達もいるみたいだ。

 

 リリーもそのうちの1人で、家族が悪魔に食われたら、じぃちゃん達と暮らす事に決めていたそうだ。

 ちなみに、シャーリーはじぃちゃんの娘でミケルの母親なのだと教えてくれた。


「ね、リリー。あのさ、1つ聞いてもいい?」


「なぁに?」


「リリー達はその、家族や町の人が食われてしまって、でもなんだか明るくて。どうしてなのかなって。」


 そうねぇと呟きながら、足元に生えていた花に指を絡めた。


「私達、魔力を持たない者はね、生まれた時に、この町が辿る運命を知る権利を得るの。私達だけは、幼い頃から覚悟する事を許された。家族や友達が湖に還る運命にあること」


 だからかなぁと柔らかく言った。


 ミケルはもう少し大きくなったら、世話係であるリリーが真実を話す事になるらしい。

 こうして、歴史を正しく伝承していくのだと。


「私はね、分かってたんだ。あなたが生まれた時、あぁ、悪魔は皆を喰うんだな。私はひとりぼっちになるんだなぁって。あ!別にコクが悪いわけじゃないの!コクが居なかったら、森の魔素は溜まったままだからね。私達魔力を持っていない人はね、きっとすぐに体を侵されて死ぬの。だから感謝してるんだよ」


 私の手をギュッと握ってそれにね、と続けた。


「私は、あなた達双子が生まれた時から、あなた達の事知っているの。だからね、この運命を背負っているあなた達の事、ずっと見守っていたんだよ。本当は助けてあげたかったんだけど、私は無力で」


 悪魔が消滅する前に、私が谷の真実を知る事は許されないのだと。

 私の命で民が救われる事を知ったら、私は喜んで湖に沈むだろう。

 しかし、私が自ら湖に還ることをメロウは憂いている。


 だから、見守るしかできなかったのだ。

 メロウの憂いは、祝福も災厄も与えるから。

 

 リリーの手に自身の手を重ねた。

 己の無力さを酷く感じる空虚は、私も経験した。

 大丈夫だと言いたかったのだが、どう伝えたら良いのか分からなかった。


「ふふ。本当に、ハクが言ってた通り、コクは優しい子ね」


 優しいなんてことはない。

 ただ、寂しさを知っているから、厳しくなれないだけだ。

 私は静かに首を振った。


「あのさ、魔力を持つ人が谷の真実を知る権利を持たないのはどうして?」


 先程の話を聞いて気になった新たな疑問を投げて、リリーの空虚を仮初にでも満たそうとした。


「うぅん。少し難しいんだけどね。必要な犠牲なんだって。私も正しく理解出来ていないんだけど、そうね。例えば、私達は生きるために牛や鶏の命を頂くでしょ?」


 私はこくんと頷いた。


「それで、私達がもし、その命を頂けなかったらきっと飢えてしまうわよね。森の悪魔はね、私達で言う牛や鶏が、妖精の涙なんだって伝えられているわ」


 リリーは空中に人差し指を立てながら、私にも分かるようにゆっくりと話していく。


「私達だったら、少しご飯が食べられなくても我慢出来るし、どうしても食べれなかったら外の国に行ける。でも、悪魔は違うの。食料のない飢えた悪魔は、この土地に流れる魔力を食らおうとする」


 私は途端に怖くなった。

 美しい川や、瑞々しい木々の葉が枯れ落ちる様を想像したからだ。


「私達、魔力を持たないメロウの民の目的は、この谷の存続を祈り、見守る事。…冷たい事かもしれないけれど、生態系を狂わす事が民を守ることでは無いの。谷のために喰われる運命だなんて、知らない方がきっといいの」


 なるほど。

 悪魔も自然に生まれる生き物の1種と考え、餌となるメロウの民を食らう事になんの問題もないのだ。

 私達が牛や鶏を当たり前のように食う事と、なんの違いもない。

 

 だが、私達には心がある。

 悲しむ事が出来る。


 リリーの覚悟はどのくらいのものなのだろう。

 私に推し量る事など出来なかった。


 幼い頃にその事実と対面して、残酷に去りゆく運命である民達と交流して、何度歯がゆい思いをしただろう。

 何度無力感に襲われた事だろう。

 私は再びそっと彼女の手を握った。


「大丈夫よ。私も、出来ることなら皆を救いたかった。それでもね、コクに全てを託そうとしていたハクの事を、私達は知っていたから。谷の存続を脅かす事など考えなかった。私達も強くあろうと、心を保てたのだと思うわ」


 それに魂が消滅した訳ではないから、きっとまた会えるんだ。

 そして、悪魔の魂も消滅した訳では無いから、きっとまた繰り返すんだ。

 そう語るリリーの顔を、上手く見れなかった。


 私の頭にそっと手を重ねると、幼子をあやす様にゆっくりと撫でた。


「ハクも私達も、あなたに生きていてほしかったの」


 ああ、そっか。

 私はずっと、どうして私を生かしたんだとか、私に全てを押し付けるなんて酷いという思いが、仄かに燻っていた。

 蓋をして見ないようにしていただけで。

 

 それでもきっと、私が彼女でもきっと、こうするんだろうと思った。

 私も、彼女に生きていて欲しいから。


 何かが腑に落ちた途端、涙が溢れた。

 静かに次々と流れ出る涙は、彼女と食べたパンケーキのように甘かった。


 私の背を、何も言わずにリリーはさすっていてくれた。

 私もまた、何も言わずに静かに泣いた。

 リリーの瞳にも涙が滲んでいた。


 そろそろ夏が来る気配がした。

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