3. 灰被りの暮れ
「どうかなぁ。私の景色だよ」
そう言って微笑む彼女は、目を瞑ったままだった。
彼女の目が開くことはきっともう無いのだと、分かってしまった。
彼女の目は、私の目になったから。
「コクに私の力をあげるからね。泣かないでね」
ふふっと笑う彼女の瞳に、透き通る水色が見える日はもう無い。
泣かないでなどと言う彼女の、我儘で自分勝手で、どこまでも気まぐれで、そんなところに腹が立ちそうだった。
「やだよ。置いていかないで…」
「置いてかないよ!また会えるもん!また会う日まで、ちょっと離れてるだけ」
「意味、わかんないよ」
「うん。外に行けば分かるよ」
目を瞑って柔らかい笑みを浮かべ続ける彼女を、しっかりと見ることが出来なかった。
マンジュシャゲが散るざわざわとした音だけが響いていた。
静かな世界で、モノクロに変わった自分の手をただ眺めていた。
「ああ。でも…」
ふいに彼女の歌うような声が、風に乗って運ばれてきた。
「ちょっと寂しいかなぁ。ずっと一緒に居たからね」
私は弾かれたように彼女の顔を見た。
本当に離れてしまう、彼女がいなくなってしまう。
それがどういう事か、しっかりと分かってしまったから。
彼女の身体を見た。彼女の足が僅かに震えていた。
ああ、怖かったのだな、と思った。
なんて言葉を伝えたらいいのか、私には何も分からなかった。
涙が出そうになった。
「ねぇコク、外に行く時は地図を持ってね。じぃちゃんも生きてるはずだから、じぃちゃんのとこ行ってきてね」
「でも私、町に行けないよ」
「ああ、それなら平気なの。コクは気づかなかったかもしれないんだけど、町の人凄く減ったんだよ。みんなあの悪魔に食われちゃったの」
「…え?」
「ふふ、ね、気づいてなかった。あの悪魔は、私達の中にある妖精の涙っていう魔力を食うんだよ。コクには妖精の涙が宿っていないからねぇ」
「私、知らないよそんなこと」
「うん。私も色の名前、知らなかった」
ああ、つまり、私が何故か色を知っているように、彼女も今起きた全ての事を理解していたのか。
「そっか。じゃあ、挨拶に行くね。じぃちゃんのところに」
「じぃちゃんにやっと会えるね!嬉しいなぁ」
「…悲しくないの?町の人、喰われたんでしょ?」
「うん。また会えるの」
「絶対?」
「うん!絶対だよ!」
輝くような笑顔でそんな事を言う彼女に、私が泣いて縋るような事は出来なかった。
ただ、いつか覚めるこの夢を永遠にまで引き延ばせるように、記憶の中で彼女が生き続けるように、マンジュシャゲの花弁が散る世界で微笑む彼女を見つめていた。
「コク、そろそろ私も散るみたい」
「うん」
「ありがとね」
「うん」
「またね」
「…うん、またね」
彼女の時間が止まった。
春の空気が濃くなって、夏の空気を受け入れる準備をしているような、そんな日だった。
全ての花が散った世界は、緑の草原ではなく灰が積もっているかのようだった。
なんて、寂しい世界だろうと思った。
空に散っていった花弁を思って、視線を上にあげて驚いた。
空は青かった。
ああ、そうか。
彼女は空の色を知っていたんだ。
私と同じ景色を見ていたんだ。
そうか。
そうだったんだ。
「…ははっ」
笑ってしまった。
ひとりぼっちになったこの世界で、初めて彼女の事を知った。
外に出たらきっとたくさんの事を知るんだ。
彼女の事を。
そして、自分の事を。
私に、耐えられるだろうか。
私は、生きていけるだろうか。
膝を抱えて蹲った。
𓃹
どれくらいの時間が経ったのか。
今見えている光が、太陽なのか満月なのか分からなかった。
モノクロームの世界は驚くほど静かだ。
眠るように横たわる彼女の傍で、長い時間を過ごした。
意を決して立ち上がる。
この町に葬送の文化は無い。
私達に明確な寿命が無いからだ。
死という概念がピンと来ない。
ただ、両親が亡くなったように、町の人が食われたように、彼女が旅に出たように、死という事象は存在する。
そんな時に、この町の人達は遺体を湖へと還す。
湖の底へと沈んでいく彼女を見たくなくて、彼女を抱えたまま湖に浸かり、彼女の顔を眺めた。
綺麗な顔には、満足気な笑みが張り付いているように見えた。
また会えるよ、という彼女の声を思い出した。
彼女を水葬して帰路に着く。
森の中はいつもよりずっと静かで、魔獣の気配も全くしなかった。
濡れた両手足と空っぽになった心を背負って、長い長い帰路に着く。
翌朝、家を出る事にした。彼女の夢を叶えようと思う。
ひとりぼっちの家の中、彼女との日々を思い出しながら荷物を纏めた。
大きくて鞄からはみ出した地図に苦戦しながら、冬の間に食べきれなかった干し肉や干したフルーツを鞄に詰め込んだ。
髪と交換して得た硬貨は、この町の外でも使えるはず。
それから、彼女と私の宝箱を開いた。
あの時貰った感謝の手紙。
風景を記憶する魔道具で、家族全員の姿を記録した紙。これは両親が残してくれたものだ。
綺麗だったから宝箱に入れておいた、スノーラビットの雪の結晶。
思い出がたくさん詰まった小さな小箱に、そっと手を伸ばし、1つだけ丁寧に鞄のポケットに入れた。
私は、1人分のパンケーキとクリームシチューを作った。
そうして、彼女と過ごした時間に別れを告げた。
森と町の境い目に辿り着く。
もう結界は張られていないみたいだ。
魔獣が減ったから張る必要もなくなったのか。
術者が死んだか。
そもそも乱獲を減らす目的じゃなかったのかもしれないな。
私は、世界の事を何も知らない。
彼女の知る世界は孤独だったのだろうか。
生まれて初めて入った町の空気は、冷たかった。
灰が固く積もったかのような家が並び、所々に淡く光る白い光は消える瞬間をただ待っている。
色のない世界は、気を抜くと呼吸の仕方を忘れてしまいそうだ。
町の奥に進むと、1軒だけ光が漏れている家があった。
ドアノブに手をかける。
しかし、開けていいものだろうかと悩み手を引っ込めた。
でも、この町の奥にはじぃちゃんの家しかないって聞いた事があるから、この家はじぃちゃんの家かもしれないと思い、もう一度手をかける。
小さく息を吸い、そっと開けた。
扉の隙間から、木の香りがする温かい室内が見えた。
「…!君は…コクだな?」
柔らかい声音の中に、ざらついた砂糖のような響きをした男性の声が、私の名を呼んだ。
視線を声の方向に定めると、酒場のようなカウンターに男性が座っていた。
白い髭の生えた初老の男性は、驚いたような安心したような顔をした。
ああ、この人がじぃちゃんなんだと1目で分かった。
私は小さく頷くと、男性の目の位置まで視線を上げた。
「ああ。そうか。ハクは、瞳を渡せたんだな。良かった。町の者は皆、形すら残らなかった」
私は再び俯いた。
まるで、彼女が瞳を渡す事を知っていたかのような口ぶりだ。
彼女は、ずっと前から自らの運命を定めていたんだな。
「じぃちゃん、は、どうして無事、ですか…」
彼女意外とまともな会話をする事などなかったから、どのようにして話かけたら良いのか分からなくて、何度かつっかえてしまった。
じぃちゃんは何故か驚いた顔をすると、豪快に笑い出した。
「そうか、じぃちゃん!ははっ!そうだよな。ハクがそう呼んでたからお前さんもそう呼ぶよな。……ハクはお前さんの中でしっかり生きてるんだな」
視界がじわりと歪んだ。
そうだ、私の中に生きているものは全て彼女のものだ。
ああ、私はしっかり恩返しができるだろうか。
「どうして無事なのか?だったな。それは簡単な話だ。お前さんと一緒だよ。俺達にも妖精の涙が宿ってねぇんだ」
どういう事だろうか。この国のものでは無いという事か?
でも確かに白髪にグレーの瞳をしているのだが…。
いや、まてよ。
「もしかして、じぃちゃんの髪はブロンド?それで、妖精の涙は目が青?じぃちゃんは、目が…、青じゃない?…ですか」
「こりゃ、驚いたな。ああ、その通りだ。色が見えている、訳ではなさそうだな。」
彼女の瞳になってから色の判別が出来なかったから忘れていた。
そうなると、あの男と同じ国の人間なのか。
「昔、色が見えてました。今は見えないけど。この瞳は、えっと、ハクの瞳で、おでこをつけたら私のになって。ハクが外の世界に行ったら色々分かるって言ってて、あと夢だって。私は、ハクの世界をもっと、もっと知りたくて、じぃちゃんは外の事も、ハクの事も知っているかもって思って…」
私の言葉足らずな説明でも足りたのか、じぃちゃんは何かを考え込むようにした後、ここに座れと言った。
丸い小さな椅子に座ると、じぃちゃんは立ち上がって、私と向かい合えるように、カウンターを越えていく。
「いいか。今から話すことはコクにとって、あまり良い話ではないかもしれない。だが、それでも聞きたいのなら、ハクが背負っていたもの、コクが背負っていたもの、そしてこれからコクが背負うものを知りたいのなら。俺は話す」
私は小さく息を吸うと、じぃちゃんの瞳をまっすぐ見つめながらゆっくりと頷いた。
「どこから話したらいいものか…。まずは俺の事からだな」
じぃちゃんは、机の上に置いたままだった杯を手に取ると、飲み干してから語り始めた。
「俺の先祖は外の国から来た。メロウの民に淘汰されていく中で、俺のように先祖の姿を受け継いだ者達を、“妖精の守り人”と呼ぶ」
そう言うと、ちょっと待っていろと言ってカウンターの奥から隣の部屋へ行った。
守り人、という事は何かを守っているという事だろうか。
一体何から守っているのか。
妖精という事は湖?それとも森だろうか…。
じぃちゃんが言っていたように、私達はメロウの民というらしい。
妖精の涙を体内に宿すメロウの民を守っているのか?
そんな事を考えているとじぃちゃんが戻ってきた。
「これは先祖が残した手記だ。俺たちは、ここに記された事を代々受け継いでいる。これを後の世代まで継承し続けることが、俺たちの使命だ」
そう言うと、繊細な模様が施された手のひらより少し大きめな木の箱を、机の上に置いた。
「この箱は、2000年前の民によって封印の魔法陣が施されている。1番魔力を多く宿すものが町長となり、大体50年に1度、この箱に魔力を流す。こうして、封印の陣を維持してきた」
確か、魔法陣は魔法と違って、術者が死んでも魔力が消えない限り効果が続くのだったか。
2000年というのがどのくらいの時間なのかよく分からなかったが、きっと相当な年月なのだろう。
「この手記を読め。お前の知りたい事が分かるだろう。ここには、コクとハクの運命が書かれている」
じぃちゃんが木箱から取り出した手記を受け取り、ページを開く。
1ページ目には、2000年前のものだとは思えないほど鮮明な文字で、こう書かれていた。
“白鳥と黒鳥の悲劇を救う者へ”
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