2. 浮雲朝露
「よぉ。すまねぇな夜遅くに。」
昼間の男だとすぐに分かった。
だが、何故家の前にいるのかが分からなくて、嫌な汗が吹き出た。
「何故ここに居る」
「怖い顔すんなよ。お前達と話がしたいだけだ。町の奴等がいると昼間みたいになるだろ」
だから来たと言う男を警戒したまま、彼女に家へ入るよう視線を向ける。
「その子が妹?色は似てねぇけど、なるほど、鼻が似てるな」
何を言っているんだ。
彼女は、私の服を握って首を少し振った。
離れるつもりはない、という事だろうか。
「どうしてこの森に入ってこれた。お前は何者だ」
「あー。そうだな。信用しねぇと思うけど、俺はお前達の両親の友人、だな」
驚いたのは、私より彼女の方が先だったらしい。
彼女の服を握る手がピクっと揺れた。
「嘘だな」
「…あぁ。白髪の方か。なるほどなぁ。真実が視える白鳥の子と、堕天使に愛された黒鳥の子、ね」
彼女には嘘を見抜く能力がある。
嘘を見抜くというよりも、発した言葉に彼女にしか感じない何かを感じるらしい。
その何かに、違和感や不快感を感じると嘘だという事だ。
「じゃあもういいか。俺は“生命の種”と“悪魔”を探してる」
聞き覚えの無い言葉に首を傾げた。
この森には様々な魔獣がいるが、そのような存在を耳にした事はない。
「最初はさ、なんとなくお前達の事かと思ったんだよ。でも白髪はともかく、黒い方は魔力全然無いし」
「魔力が宿る素材なのか?」
「素材っつうか、“悪魔”は魔力を持つ生命らしいんだよな。だからお前達かと思ったけど、まぁ違う気がするからなぁ。お前ら狩っても仕方ねぇし。それに“生命の種”は見つけた。この森の湖にあった。ただの青い石だったよ」
石をひらりと掲げて、期待外れだという表情をした。
湖とは森の奥にある湖の事か。
人魚が住む湖とされているから、街の人も滅多に近づかないのだが。
男は、最後に“青い石”と言った。
そうだ、こいつには色が分かるんだ。
私と同じように。
「ああ、嬢ちゃん。色が分かるんだな」
「…!」
「この町の奴等、色なんて無いみたいな話し方するんだよ。俺の事もここの者だと思ってるし。まぁ服が違ったから、旅人だって分かってもらえたけどさ。なんか歓迎されたよ。お前には見えるんだろ?俺の髪」
「…ああ。白に近い、薄い金色…だな」
男は肩で笑うと、片手をあげて背を向けた。
「まぁ、それだけだな。お前達に手は出さねぇよ。ただ、悪魔を狩るまではこの森に居させてもらう。よろしくな」
「おいまて!なんでこの森に入ってこれたんだ!」
去っていく背に向かって叫んだ。
「あ?普通に町長を脅した」
乱獲から森を守る意味…。簡単に脅されるなよ町長…。
そう思いながら男の背中が闇に溶けるのを待った。
「ハク、家に入ろう」
「あ!うん!そだね!はぁ。なんか、疲れたぁ」
何かぼんやり考え事をしていた彼女に声をかけると、気の抜けた返事が返ってきた。
「ね。あのさ…。聞きたいこと、あるんだけど」
彼女が、珍しく控えめな声色で話しかけてきた。
「あれ…、あおっていうの?“悲しいの時”の、だよね?」
頭がぐらぐらとする感覚を覚えた。
同時に、彼女の力について初めて納得した。
そうか、彼女は色という概念を知らないだけで、見えていないとは限らなかったのか。
「コクにはずっと見えてた、というか知ってたの?なんで知ってるの?私、知らないよ?」
少し寂しそうに不安そうに、ゆっくりと冷たい空気を揺らした。
「私は生まれた時から知ってたよ。色の名前も、それが何を表すのかも。でも皆、ハクも、お父さんもお母さんも知らなかったから、隠してた」
「そっか。そうだよね。それは、あれだなぁ。私も隠しちゃうかも」
ヘヘっといつもの調子で笑う彼女に安堵しながら、私も微笑み返した。
「そっかぁ。悲しいは青だったんだ」
彼女のそう呟く声が、何故か酷く鮮明に、褪せた記憶の中でずっと息をしていた。
𓃹
謎の男が訪問してから1週間。
男の訪問は、その後一切なかった。
いつもより少し早く起きてきた彼女が、散髪用のハサミを持って私の背後に回った。
彼女は、鼻歌を歌いながら、顎下で切りそろえられた白い髪と同じくらいの長さに、私の髪をカットしていく。
「ほい!どう!いい感じ!?きゃぁ可愛い!」
「いつもと同じくらいじゃん」
いつも通り大袈裟な彼女の反応に苦笑を漏らす。
「前髪もね結構長く伸びてたから、かなり短くしたよ!ほら!私と同じくらい〜」
鏡を持ってきて、人差し指を滑らせながら同じだよ〜と笑っている。
こうして並んでみると確かに双子だ。
なんとなく、自分の鼻と彼女の鼻をつまんでみた。
「ぶぇ!なに!」
ヘンテコな声を出す彼女が面白くて、カラカラと笑った。
「さ!町に行くぞぉ!今日は来る?量も多くないし1人でも行けるよ!」
彼女が、固く握った拳を胸に打ち付けて得意げに言う。
「量は少ないけどついて行こうかな。あいつもいるし、心配」
「あー!まだいるのかなぁ!全然来ないから分かんないねぇ」
正直いなくなって欲しいのだが。
それから、あの男が言っていた“悪魔”というのも気になる。
悪だの呪いだのは散々言われてきたが、私では無いらしいし…。
「さあ!出発〜!今日もコクとお散歩〜」
両腕を振りながらご機嫌な彼女の後ろをついて行く。
いつもと変わらない森と彼女の様子に、少しだけ安心した。
「じゃあ、私はここでまってるね」
彼女を見送りながら、森と町の境い目に立つ。
たまに町の人の視線を感じることはあるが、前のようにコソコソしたりはしていなかった。
しばらくして戻ってきた彼女は、今日も大荷物だ。
「おっまたせ!はぁ。すごい量だよ〜!ね、じぃちゃんからコクに!ほら、はい!」
彼女の手に握られたものをゆっくりと受け取った。
「魔道具?」
手の平に収まるペンダントのようなそれは、中央に青い石がついていた。
「なんか石が盗まれたからそれの、ううんっと、ごめんなさいの証?だっけ、コクが持っていれば森が静かになるかも?だってさ!あとお守り!」
なんだかよく分からないが、盗まれた石というのはあの男が持っていた青い石の事だろうか。
「これから熊さんに狙われるかもだけど、その石がお守りになるらしい!着けておいて!だって!」
「ハクの分は無いの?」
「うん!なんか私は付けない方がいいって!綺麗だからおそろい欲しかったぁ〜」
確かに、この青い石と彼女の瞳はよく似ているから、彼女の方が似合うだろう。
そんな事を考えながら、短くなった髪の毛でスッキリとした首元に手を回した。
「あ!つけたげる!貸して貸して!」
彼女の腕が、前から抱きしめるように伸びた。
彼女がつけてくれたお守りをぎゅっと握る。
なんだか少しだけ、モヤモヤとした心が落ち着いた。
𓃹
「じゃあ、行ってくるね」
「はぁい!行ってらっしゃい!」
朝日が昇る少し前、私達の住む小さな家の扉を控えめに開けて外に出る。
家の周りに魔獣避けのランタンの橙が、朝霧に霞んで遠い記憶のように揺れていた。
掠れた温度に、少しだけ寂しくなった。
今日は久しぶりの狩りに出る。
魔獣は、夜に最も活発になり朝は静かになる。
そして、また夜にかけて活発になるから、早朝に狩りに行くのだ。
鞄に括り付けた猟銃の重さに、安心感と覚悟を感じながら、1歩1歩森の奥へと足を踏み入れる。
すると、1匹の針鼠と目が合った。
魔獣の針鼠は、人間の子供くらいのサイズがある。
背に背負ったドリルのような針を飛ばして攻撃してくるから、少々面倒な相手だ。
だが、針以外の強度はそれほど強くない。
鞄を下ろし猟銃を構え、ドリルを躱しながら距離を詰める。
針鼠の脳天に銃口を突きつけ、額に直接弾を打ち込む。
ドンッと大きな音が響き、針鼠が後ろへ倒れた。
針鼠の素材は、針と甲羅、そして心臓部にある青い魔石だ。
素材を回収しながら、背負っていた鞄に収納する。
少し歩いた所で、群れで行動する蜂に遭遇した。
厄介な相手で、数が多いから猟銃と相性が良くない。
腰につけたポーチの中から、この魔獣が好む香りに似た毒草の粉末を取り出した。
それを空中に投げ、自身の口を塞ぐ。
すると、群れて黒い塊となった蜂達が一斉に上空へと軌道を変えた。
そして、ボトボトと鈍い効果音をたてて落下していく。
1匹1匹から素材を丁寧に回収して、更に奥へと進む。
気がつけば霧はとっくに晴れていて、朝の光が爽やかに降り注いでいた。
ふと、魔獣の数が減っていることに気がついた。いつもより遭遇する回数が少ない。
不思議に思いながら鞄を開き、パンとミルクを取り出した。
少し遅めの朝食、少し早めの昼食だ。
今日はもう引き返してしまおうか、とぼんやり考える。
食事を摂り終えてから来た道を歩いていると、不思議なものを見つけた。
季節に似合わない、白いマンジュシャゲの花が咲いていたのだ。
雪解けがまばらに終わって、これから春が来ると言うのに。
あまりにも不似合いな光景に歩みを止めた。
気まぐれに伸びた花弁が柔らかく空中に広がっている様は、どことなく彼女のようだ。
この花を持ち帰ったら、彼女は喜んでくれるだろうか。
自然に咲く花を折ってはいけない、という彼女の声が聞こえた気がしたが、どう見ても不思議だから採取の一貫として持ち帰る事にした。
しかし、雪と土の隙間に1輪だけ咲く花を折るのは少し躊躇らわれた。
私は、花の前にそっと跪き、合掌してから花をポキッと折った。
花を眺めながら再び歩いた。
彼女と私が住む家に続く小道を歩いていると、突然酷い焦燥に襲われた。
雨なんて降っていないのにぬかるんだ地面。
大きな足跡。
私は咄嗟に走った。
小道の先には、先程までの不可思議が当然のように広がっていた。
家を囲むように、白いマンジュシャゲが咲き誇っていたのだ。
しかし、私の瞳に映っていたのは花ではなかった。
黒くて大きな熊の魔獣が、大きな前足を上げている。
雪原のような花畑の中、呆然と立ち竦んでいる彼女に向かって。
私だけが知る世界の温度は、まるで氷の中にいるみたいに冷たくなった。
気がつくと、必死になって足を動かしていた。
私は、彼女の前に立ちはだかって両手を広げる。
パリンと何かが砕ける音がした。
唇を噛んで訪れるであろう衝撃を待っていた。
「あ。思い出した」
彼女の小さく呟く声が、私の背に落ちた。
次の瞬間、目を開けていられないほどの強い光に包まれた。
世界が光で溢れた後、目の前にいる熊は前足を挙げたまま後ろに跳ねた。
跳ねたというか吹き飛んだ。
熊は、姿が見えないくらい遠くに飛ばされた。
じぃちゃんから貰ったペンダントに熊の前足が近づいた途端、眩い光と共に熊を弾いたのだ。
私は、粉々に砕けちったペンダントの欠片を震える手で触った。咄嗟に起こった出来事に心音が速くなる。
瞼を閉じる事も忘れて、熊が飛んで行った方向を凝視していた。
「…コク!コク!大丈夫!?」
しばらく呼んでいたのだろう。
彼女が、心配そうにふらりと揺れた水色の瞳で私を覗いていた。
「大丈夫。ハクは?平気?」
やっと呼吸を取り戻したように肩で息をしながら、鮮明になった景色の中、彼女に話しかける。
「うん!コクが守ってくれたからね!……また守られちゃった」
彼女はいつもの笑顔の最後に、俯いて憂いの帯びた表情を付け足した。
また、とはどういう事だろうか。
こんな風に私が彼女を守った事など、今回が初めてだと言うのに。
「それにしても、これ白いマンジュシャゲ?綺麗〜!不思議〜!」
花畑の中を、くるくると妖精のように駆けていく彼女。
彼女の頭にも、白い花が咲いているみたいで微笑ましくなる。
「熊がまた来るかも。家に入ろう」
「そうだね!さっきは危なかったぁ〜」
彼女は、いつもの調子で緩やかに空気を弾ませる。
掃除の途中だったのか、家の中には掃除用具が出したままだった。
「さっきね、突然窓の外が真白になったから驚いて見に行ったの!そしたら熊さんが来てさぁ」
私も帰る途中で、彼女ために真白の正体を摘んだのだ、と話した。彼女の元へ走った時、どこかに落としてしまったらしいが。
「え〜!私のために〜!嬉しい〜!けど!自然に生えてるものは摘んじゃだめだよぉ!」
思った通りの事を言う彼女が面白くて、クスクスと笑う。
ふと、彼女の表情に再び影が刺した。
「ねぇ、コクは、コクはさ、私の事絶対に守ってくれるじゃん。いつも」
彼女のようで彼女ではない何かが目の前にいるような、そんな錯覚に陥った。
「私も、コクを守るからさ。だから…」
彼女にしては珍しく言葉に詰まっていた。
影のある表情のまま、苦しそうに胸元をぎゅっと握ると、諦めのような切ない笑顔でなんでもないと言った。
𓃹
「おはよぉ!町に行く日だぁ〜!コクは!?来る!?」
朝から元気いっぱいの彼女だが、あの日から少し無理をしているようにも見える。
たまに表情が曇る事も、窓の外を不安げに見つめている事も、全部気がついている。
生まれてからずっと一緒なのだから。
「行くよ。心配だし」
窓に目を向けながら答える。
満開のマンジュシャゲが咲き誇る景色にも、すっかり慣れてきた。
「嬉しい。ちょっと怖いんだぁ」
彼女も幻想的で少しぞっとする窓の外に目を向けて、そう答える。
何がとは言わないが、なんとなく彼女が何に怯えているのか想像する事が出来た。
きっと、私を1人にする事が怖いんだ。
でも、それは私も同じだ。
「よし!じゃ、行こうか!」
「朝ごはんは?」
「食べながら行く!今日はさっさと行って、さっさと帰ってこよう!」
平穏な森の中を元気な彼女と共に歩いた。
その背中は、なんだか消えてしまいそうだった。
「よし!ここでまっててね!すぐ行ってくる〜!」
いつものように、大声で言って小走りで離れていく彼女。その背中を眺めてから空を見上げた。
少し肌寒い季節の、空が透けているような青空だ。
彼女の瞳の色に最も近い、青空。
しばらくすると、大荷物で彼女が戻ってきた。
「た、ただいまぁ〜。なんか今日もたくさんもらったよぉ〜」
彼女の荷物を半分持って、お疲れ様と声をかける。
「あ!コクに伝言がたくさんある!えっとね、まずじぃちゃんが、役に立って良かったって!でも本当に気をつけた方が良いかもって言ってた。で!町長さんが謝ってた!本当にすまないことをしたって!なにかされた?」
じぃちゃんからの忠告は素直に受け入れるとして、町長さんはなんだ?全く身に覚えがない。
男を森に入れたことか?それは、男が悪いのであって…。
ううんと悩んでいると、彼女もううんと唸り始めた。
「わからないよねぇ。何が?って聞いても教えてくれないし…。ううん…。」
まぁいいかと思って、ちらほらとマンジュシャゲが咲く地面を歩く。
「この花、ずっと咲いてるねえ…。」
「うん。なんでだろうね。季節じゃないのに」
「ね!私さ!外の世界に行きたいの!」
会話の流れをばっさりと切って、彼女が言った。
じぃちゃんから聞く外の話を私にもしてくれていたから、外の世界に憧れがあるのは事実だ。
しかし、実際には難しい事だと知っていた。
私達は、この森の管理をしなくてはいけないから。
「どうしたの突然」
「突然じゃないけどね!じぃちゃんに聞いたの!外の世界の魔獣は魔道具の素材じゃなくて、お洋服の素材が取れるんだって!それに、色んな髪色の人がたくさんいるんだよ!」
夢を見るかのようにうっとりとした顔で、彼女は語った。
「そうしたら、そうしたらさ!一緒にお洋服買いに行けるし!きっと嫌な事も言われない!」
やはり、ここ最近の彼女は少し変だ。
何かから逃げようとしているけど、逃げれないという諦めのような…。
私は彼女の少し前に出て、彼女の両肩に優しく触れた。
「ハク、大丈夫だよ。私は、いなくならないよ」
彼女は驚いたような、寂しいような、そんな顔をして、知ってるよと微笑んだ。
なんだか、彼女が遠くに行ってしまう気がした。
家に戻ると、また肉と野菜がたくさん入ってるよぉ〜と彼女がはしゃいでいた。
私は、いつものように日用品の補充をする。
「美味しいミルクをたくさん貰ったから、パンケーキ焼きたいなぁ〜!クリームシチューもいいかも〜!」
彼女はそう言うと、涎をじゅるっと啜った。
憂いが晴れた訳では無いが、それでも心無しかいつもの彼女に戻ったような気がする。
「あ!そうだそうだ!あのねじぃちゃんがね、もし外の世界に行くことがあれば〜って言って地図を入れてくれたの!」
日用品の中に、くるくると丸められた大きな地図があった。所々に赤い丸印が書かれたそれを、どの方角からみるんだと腕を交差させて悩んだ。
「あはは!えっとね確かこう!今いるとこが…、ここ!メロウの谷!谷なんだって!私達、この町から出たことないから知らなかったよねぇ!谷ってなんだろうねぇ〜」
谷の事を知らないのに、ここまで感動出来るものなのか…。
私も谷というのがどのようなものなのか全く分からないが、自然が豊かだし人里離れた場所なのだろうなと思った。
「でもね、私はここから出る気がしないんだぁ〜」
「外の国に行きたいんじゃないの?」
「行きたいよ!夢だもん!でも…」
なんでもないやっと言って柔らかく微笑む彼女。
瞳の奥に、静かな覚悟と強い優しさを感じた気がした。
「さてと!そろそろかなぁ」
彼女が確かな足取りで扉に向かう。
その背中は酷くたくましくて、酷く冷たかった。
「コク、家の中に居てね。出てきちゃダメだからねぇ」
あの時のように、彼女が何か知らない存在に感じた。
彼女が扉を開けて、咲き誇るマンジュシャゲの中心に立った。
私はその光景を、なぜかぼんやりと眺めていた。
背を追いかければ良かったのに。
その背中が冷たかったら、温かくなるまで抱き締めれば良かったのに。
どこまでも純白な景色の中、ポトンと墨を落としたかのように、ソレは突然現れた。
あの日、私が対峙した熊の魔獣…。
ソレは、悪魔のような深い憎しみを感じる青い瞳をしていた。
彼女は、魔獣に躊躇いなく両手を差し出すと、いつもの笑顔が消えた透明な眼差しで魔獣を見つめた。
彼女があまりにも当然の事ように行動するから、警戒なんて出来なかった。
一瞬の事だった。
魔獣の爪が彼女の腕に近づく。
一瞬の事だった。
震える足を引きずるように動かし、扉を強引に開けると彼女の元へ走った。
両腕を喰われた彼女は、まるで真白な新品のベッドに寝っ転がるようにして寝そべっていた。
「あれ、来ちゃったかぁ。ふふっ。ねぇ、今度は私が守れたかも」
心底満足気に彼女は笑った。
その瞬間、魔獣は酷く苦しみ出した。
もっと痛くて苦しいはずの彼女は、柔らかな微笑みを浮かべたままだった。
魔獣は、暫くもがいて白い花弁となって散っていった。
まるで夢を見ているかのようだった。
「悪魔、倒したよ。コクはもう自由なの。森の管理もしなくていいんだよ。ねぇ、外の国に行って欲しいなぁ。」
「…ハクと行く」
「あはは!それはだめだぁ。」
「…なんで」
「ん〜眠たいからさぁ」
「いやだ」
「ん〜コク1人でも大丈夫だよぉ」
「いやだ、ハクと一緒に行く」
「もぉ、ワガママだなぁ」
気がつくと、彼女の周りの花が一斉に散り始めていた。
まるで、彼女が散るその時をまっていたかのように。
「じゃぁ、私の力をあげる!私はね、コクの涙になんてなりたくないんだ。力になりたいんだ」
空を眺めながら寝そべる彼女が、こっちに来てと言う。
「コク、おでこ、重ねて。私のおでことくっつけて」
彼女の言う通りに、自分と彼女の前髪を上げてくっつけた。
「めをつむっててねぇ〜。せ〜のぉっと」
ふんわりと、身体の中に春の空気が流れた。
柔らかくふわふわと散っていく欠片と、暖かく流れてくる何か。
「目、開けていいよ〜」
居心地の良い空気の中をくつろいでいると、彼女の声がした。目を開けると、知ってるようで知らない景色が広がっていた。
その日、私は世界の温度を失った。
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