たまには屁理屈や口答えも良い

 たまには、というより今年になってはじめて、自分の持つ屁理屈へりくつの属性が「良かったかもな」と思えた。


 幼い頃の僕はと言えば、どうしようもない屁理屈へりくつ小僧こぞうで。ああ言えばこう言う、口答くちごたえをすることに命を懸けるかのようなクソガキでありました。恥ずべき過去。

 成人後の僕はと言えば、まぁそれなりのわけ番長で。職場にて交渉の類を任されたり、私生活では嫌なゲームをするクソオトナでありました。むべき過去。


 この「嫌なゲーム」は何がダメって、藁人形ストローマンスタイルやら論点のすり替え、受け取った言葉の部分的な捏造ねつぞうや曲解に、ゴールポストずらしや詭弁きべんもまかり通るようなろくでもねえゲームで。


 恥ずべき過去の小学生時代、言葉尻ことばじりとらえたあしとりを行って父親から殴られたり母親から玄関の外へまみ出されたトモフジテツは、何ら成長できない人間性のまま、忌むべき時期に、屁理屈をこねて言い逃れをしたり責任をなすり付けるゲームに興じていた。



 タイトルの件。


 あおるだとか、皮肉ひにくを言う・自分の正当性を主張する、といった具合の屁理屈はもう卒業したんですけれども。


 そういうケースではなく、たまたま気落ちした人や心細さを感じてしまった人に対して、元気付けたり不安をなるべく取り除きたいと思った時に、理屈や根拠を明示しながら言葉を伝えられるのって「あり」かもな、と思い始めております。毎度毎度それをやると絶対ウザがられる気もしつつ。


 実例や体験、はたまた対象の発言をまじえて「だから好き」「なので、ここは素晴らしい」と伝えたり、伝えずとも日々考えてみたり言語化の練習をする行為がどこか心地よい。これはもしかすると、幼少期にカリフラワーを分析していた頃から脈々と続いてきた性分なのかもしれません。



 理由もセットでくれるの助かる、と何度か言ってもらえて、しかしながら「いついかなる時も伝えることができる、伝われば解決」などと思い上がってはいないんですよね。

 実際、人の辛い気持ちを解消できない時だって多々ある。長々と書きつらねずストレートに話した方が良い場合もある。


 それでも、最近は過去を少しだけ肯定したり、許すことができるようになりました。


 そしてそれはひとえに「受け取り手」のおかげとも思えるので、次回はその辺りについて書きたいと思います。


 伝える伝えない、発表するかしないかは別として、思考や作品を文字として日々残しておく行為はやっぱり楽しい。生涯、この姿勢は変わらない気がします。


 

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