ちょっとこれ全人類に言いたいんすけど


 世の中って「自助努力で解決できる問題」と「どう頑張っても無理な問題」というのがありまして。


「コメダ珈琲店のモーニングのセットが食べたいから11時より前に入店するために早起きしよう、ひいては早寝したい、アラームもたくさんセットしたい!」

 ↑

 これ、解決可能なやつ。

 コメダ珈琲店のモーニングのセットが食べたいな問題。


「コメダ珈琲店の期間限定メニューが美味しかった。今すぐに再販させて再び食べるには一体どうすれば……」

 ↑

 これ、どう頑張っても無理なやつ。

 コメダ珈琲店の限定メニューを今すぐ食べたいな問題。


 後者の「無理なやつ」を見ると「出来るわけねえだろアホか」と笑い飛ばすような内容なのだけれども、意外にもこの「頑張ってもどうしようもない話」をグズグズ悩む人が多いよな、って最近思う。


 厳密に言うと「無理」という表現は語弊があって、例に挙げた「コメダ珈琲店の限定メニューを好きなタイミングで再販させる」も抜け道や可能性があるかもしれない。

 

 株主になるとか。(極めて頭の悪い解決策。多分無理)


 何というか「解決可能かもしれんけど難しいっすよね」「解決するために提示する(してもらえる)回答ものはあっても、それが正しいのか分からなさ過ぎますよね」みたいな話。


 その点、コメダ珈琲店モーニング食いてえ問題はシンプル。早起きすりゃいいだけ。



 この話って色々な人が似た内容に触れてて、だから僕が改めて言及する必要あるかと考えるとはっきり言って「ない」のですよね。


 でもせっかくなので自分の言葉もセットでもう少し続けると「分かるってばよ」とも思う。

 自罰や自己否定の感情や発信が気持ちいい時期もある。攻撃性を内側に向けることで「うん、正しい!」と勘違いして浸ることもできるし、いつでも中断できる。外方向に攻撃性を向けるよりはマシまである。

 でも、そうやって自分で自分をいじめてスッキリするのって一時的には満足しても癖になってしまって、長期的に見ると心の健康によろしくない。


 それなら、楽しめることや気持ちよくなれることを探したり考えてみる方が建設的かなと。刹那的でも良いじゃないすか、人間だもの。


 少し似た話で「他人を変える」というのも、ほぼほぼ無理では? と思ってる。

 他人の思考や行動に変化をもたらすこと。家族友人恋人、ネットの読者さん、全部。


 はなから「ほぼ無理」と割り切った方が、たまたま響いたり届いた時の嬉しさもひとしおというもの。

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