きさらぎ駅・異聞
@kurohituzi_nove
きさらぎ駅・異聞
その鉄道沿線には、乗り過ごしてはいけない電車が走っている。
うっかり転寝でもしようものなら、電車はいつの間にか見知らぬ土地を走り出す。
暗がりの中、明かりも無く、延々と何処かへ向かって走り続ける電車は。
やがて、古びた駅へと辿り着く。
異界へと通じる駅。
名を「きさらぎ駅」といった。
少女はその話を知っていた。
噂噺。都市伝説。眉唾物。言わば、ただの作り話であろう話を。
だからこそ。
「すみません、ちょっと良いですか?」
目の前に現れた男性に警戒する事も無く、少女は耳からイヤホンを外した。
電車内。吊革に繋がれるように立っていたはずだが、彼はどこから出て来たのだろうか。
スマホに目を落としていたせいか、全く分からなかった。
「はい、なんでしょうか」
淡々と応える。
酔っ払い。不審者。様々な憶測に、少しだけ身が強張るのを感じる。
「この電車は、何処へ向かっているのでしょうか」
「××駅行の終電だったはずです」
「では、次の駅にはいつ到着しますか?」
それは、と思い、スマホで現在時刻を確認する。
既に終点に到着していて当然の頃合い。
背筋に冷たいものが走る。
「何も思い出せないのです。私は、此処で、何をしているのでしょうか」
明るい車内にも関わらず、俯いた男性の表情は見えない。
くたびれたスーツ姿。腕には安物の時計。土埃に汚れた手提げ鞄。
その姿は、仕事帰りと言うには、あまりにも不自然に見えた。
「私は、誰なんでしょうか」
訥々と、茫然と、無気力に。
呟くように、囁くように、問うてくる。
その様はひどく不気味で、生気の欠片も感じさせない。
電車のドアが、開く。
無人の駅。古びたホーム。ちらつく照明。
フェンスの向こうには闇が広がり、民家の明かり一つすら見えない。
心臓が早鐘を打つ。聞こえるはずの無い警報音が鳴り響く。
少女は徐にスマホを鞄に入れると、空いた手を伸ばし。
男性の手を取った。
「行きましょう」
決意のこもった瞳。強く、熱く、固い眼差しを向け。
少女は、男性と手を繋いだまま、開いたドアから勢いよく飛び出した。
「私は、私は、私は――」
尚も呻く男性の言葉に耳も貸さず。
少女は手を握りしめたまま、線路へと落下する。
浮遊感は一瞬。すぐに両足に衝撃が走り、足裏が鈍く痛んだ。
しかし、止まらない。
駆ける。息を切らし、全力で。
線路上を、暗いトンネルに向かって、ひたすらに駆ける。
「この先です。この先にきっと……」
ただひたすらに前を向き、男性の手を引いて、駆ける。
振り向く事は無い。
後ろを見れば、そこに何があるのか、少女は理解していた。
暗いトンネル内。明かりも無く、輪郭は定まらず。
その中で、無数の白色の腕が、伸びて来ていた。
追い縋るように。追い詰めるように。
ぐにゃぐにゃと迫り来る無数の腕から逃れるように、少女はただ駆ける。
荒い呼吸。背中を滴る汗。極限下の疲労感に目まいを覚える。
だが、止まらない。止まれない。
闇の中、線路の上を、ひた駆ける。
――やがて、一筋の光が見えた。
出口だ。あれが、あれこそが、出口だ。
辿り着いた。そう思い、一瞬だけ。ほんの刹那の間、気が緩み。
白色の腕の群れが、行く手を阻んだ。
まるで生気のない、蝋のような質感の、長い長い腕が。
蟲のように群れを成して、出口の光を遮った。
その時脳裏に過ったのは。
絶望、諦観、恐怖、そのいずれでもなく。
怒り。
「この人の邪魔をするなぁぁぁぁ!!!」
短いスカートを気にするでもなく、渾身の前蹴り。
歩みを止める事も無く、文字通り邪魔を蹴散らして、少女は進む。
駆ける。ひたすらに駆ける。
手を引いて、決して離さぬよう、手を強く引いて。
段々と明かりが広がる。
薄らとしていた輪郭も明確になっていく。
トンネルの出口が煉瓦造りであることも。
踏みしめる線路が錆付いている事も。
少女の鬼気迫った表情も。
男性の戸惑った表情も。
出口を抜け、ようやく少女は男性から手を離した。
自分の役目はここまで。ここから先、彼の手を握るのは、自分ではない。
「あなた!」
「パパ!!」
視線の先。線路上に居るのは女性と娘。
女性は酷く嬉しそうに涙を浮かべ、男性に向かって手を振り。
娘は思わず駆け出した。
「あれは……私は……そうか、私は!」
瞬時に我を取り戻し、男性は駆け寄る。
成長した娘に。自分より老けてしまった妻に。
失っていたものを取り戻す為に。
抱き上げた娘は、大きくなっていた。
少女は見届け、そしてくるりと振り返る。
性懲りも無く伸び続ける白色の腕の群れ。
対して、鞄の中から一枚の札を取り出した。
「いいから、さっさと……」
大きく振りかぶり。そして。
投げつける。
「かえって寝てろ!」
札が白色の腕に当たった瞬間、発光。
目も眩む光の洪水に思わず目を瞑る。
響き渡る怨嗟の声が次第に遠のいて行き。
数秒後、少女が目を開くと。
何の変哲もないトンネルの入り口が眼前に広がっていた。
「ありがとう! ありがとう! 君のおかげで私は戻って来れたよ!」
「まさか本当に旦那を連れ戻ってくれるなんて……!」
「お姉ちゃん! ありがとう!」
男性が怪異にとらえられた年月は十年。
長いとみるか、短いとみるかは人それぞれだろう。
そして、少女にとっては、一生分にも感じる長さだった。
「お礼を言うのは私の方です」
もう、良いだろう。
もう、我慢など、必要はないだろう。
「あの日。貴方は、連れ去られそうになった私を庇ってくれました」
『やめろ! 俺が代わりになる! だからこの子に手を出すんじゃない!』
「ずっと方法を探していて、ようやく見つける事ができました」
『良い子だ、泣くんじゃないぞ。この線路を真っ直ぐ歩けば元の場所に戻れるからな』
少女は、あふれ出す涙を拭う事もせず。
くしゃくしゃになった顔で、笑った
「本当に、ありがとうございました」
その鉄道沿線には、乗り過ごしてはいけない電車が走っている。
うっかり転寝でもしようものなら、電車はいつの間にか見知らぬ土地を走り出す。
暗がりの中、明かりも無く、延々と何処かへ向かって走り続ける電車は。
やがて、古びた駅へと辿り着く。
異界へと通じる駅。
名を「きさらぎ駅」といった。
少女はその話を知っていた。
噂噺。都市伝説。眉唾物。言わば、ただの作り話であろう話を。
だからこそ。
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