第60話 もう一度会いたい


 静まり返った寝室で一人。

 信也は壁にもたれかかり、一点を見つめていた。


「……」


 おもむろに煙草を取り出し、火をつける。


 何度も体を重ね、早希と愛を確かめあったこの部屋。

 寝室で煙草はやめておくよ。引っ越しの日、信也はそう言った。

 早希は信也がくつろげるなら構わない、気にせず吸っていいよと言ってくれた。

 その思いが嬉しくて。やはり吸わないでおこう、そう決めたのだった。

 しかし今、その部屋で煙草を吸っている。

 もうどうでもよかった。


 視線の先には小さな祭壇。早希の遺骨と遺影が祀られていた。

 衣装合わせの時に信也が撮った、ウエディングドレス姿の早希。

 本当に幸せそうだった。


「信也くん。どうかな、このドレス」

「そう? えへへへ。ならこれにする」

「……私、こんなに幸せでいいのかな」


 息を吐くと、真っ暗な部屋に白い煙がゆらゆらと舞った。


「早希……」


 あれから数日が経っていた。





 買い物を終えてマンションの前に着いた時、遊歩道に群がる人々に不安がよぎった。

 堤防から真っ直ぐに落ち、フロント部分が完全にへしゃげている車。

 人々の緊迫した声。

 その中で、聞き覚えのある声がした。


「早希さん! 早希さん!」


 あやめの声だ。

 いつも囁くように話す彼女が叫んでいる。


 ――そして彼女は、早希の名を呼んでいた。


 一気に堤防を駆け降り、群衆をかき分けた先で見たもの。

 それは血まみれで横たわっている、早希の姿だった。


「お兄さん……」


 パジャマ姿のあやめが振り返り、信也を見て声を震わせる。

 信也は咄嗟に上着を脱ぎ、あやめの肩にそっとかけた。


「……」


 愛する人の変わり果てた姿。

 震える手で頬に触れると、まだ温かかった。





 あれ……なんだこれ。

 おい早希。お前、こんなところで何してるんだ。

 俺を驚かそうとして、下手な芝居うってるのか?

 分かったから。もういいから。早く目を開けろって。

 あやめちゃんのおかゆ、作るんだろ?

 俺にも食べさせてくれるんだろ?





「うわああああああっ!」


 信也にしがみつき、あやめが泣き叫ぶ。

 あやめの頭を撫で、耳元で「大丈夫、大丈夫だよ、あやめちゃん」そう囁いた。


 しばらくして救急隊員が到着し、救命処置が行われた。

 何度も胸に電気ショックを与えるが、意識が戻る気配はない。

 しばらくして隊員が小さく息を吐き、関係者の方はいますか、そう尋ねた。


 泣き崩れるあやめを説得して帰宅させ、救急車に乗り込み総合病院へと向かった。

 霊安室で改めて遺体の確認が行われ、その後幸子と知美に連絡した。

 検死作業が行われている間に到着した二人は、取り乱した様子で「嘘よね! 嘘だと言って!」そう何度も叫んだ。

 検死が終わり、遺体と対面した幸子と知美は泣き崩れた。

 遺体を抱き締め、何度も何度も彼女の名を呼んだ。





 しばらくして司法解剖の説明が行われ、そこで初めて信也が感情をあらわにした。


「今更早希を切り刻んで、どうなるって言うんですか!」


「遺族の方には辛いことなのですが……これは事故死になりますので、死因を特定しないといけないのです」


「死因の特定? それに何の意味があるんですか。早希は連れて帰る。解剖は拒否します」


「……申し訳ありません、司法解剖の拒否は出来ないのです。その処置を済まさないと死体検案書の発行が出来ず、葬儀等が行えないのです」


 職員の言葉に苛立ちをぶつけた信也だったが、知美の説得により承知したのだった。


 ――これが現実。受け入れるしかなかった。


 棺に入れる際に着せたい服はあるかと聞かれ、信也はすぐ結婚式場に電話した。

 プランナーに事情を伝え、早希が着るはずだったドレスを買い取らせてほしいと言った。

 無理難題な要求だったが、信也の言葉にプランナーも心を動かされ、何とかすると言ってくれた。





「早希……」


 ほとんど眠っていないこの数日で、心も体も限界だった。

 しかし、今夜も眠れそうにない。

 この数日の出来事は、本当に現実だったんだろうか。そんな思いが頭を巡った。


「なあ早希。お前はどう思う?」


 白い息を吐きながら、早希の遺影にそう語り掛けた。





 葬儀は家で行うことにした。

 無神論者の信也にとって、葬儀に意味はなかった。

 戒名も位牌も必要なかった。


 解剖が終わった頃には、夜も更けていた。

 早希と共に家に戻ると、林田姉妹と篠崎が迎えてくれた。

 棺の蓋を開けると、早希の穏やかな顔が現れた。

 口元には笑みも浮かんでいる。


「早希。家に帰って来たよ」


 信也が静かに語りかける。

 早希の顔を見た瞬間、これまで耐えてきた感情が限界を迎え、さくらもあやめも大声で泣いた。

 棺を抱き締め、早希の名を叫ぶ。

 篠崎も涙を流し、声にならない声をあげていた。


 やがて作業員たちも現れた。

 皆一様に沈痛な面持ちで、一人ずつ早希と対面した。

 信也と知美は慌ただしく台所とリビングを行き来し、作業員たちに酒と料理をふるまった。

 作業員たちが信也を抱き締める。

「なんでこないなことになっとるんじゃい……」そう声を震わせた。


 さくらもあやめも、幸子も知美も。作業員たちも皆、泣いていた。

 家の中が、涙で溢れていた。

 しかし信也は泣かなかった。泣けなかった。

 それは決して、泣けば早希が安心して逝けない、そんなありふれた理由ではなかった。

 ただただ、現実と向き合えなかっただけだった。





「早希……お前、いつまで下手な芝居してるつもりだよ……」


 再び早希に語り掛ける。


「お前、いつもそうやって俺のことからかって……もういいからさ、俺の前に出て来いよ……」


 そう言ってゆらりと立ち上がり、早希の姿を求めた。


 風呂の扉を開ける。早希はいない。

 トイレにもいない。

 リビングをぐるりと回り、コタツの中を覗く。


「4月なんだし、もうコタツはいらないだろ」


「分かってない、分かってないよ信也くん。コタツの魔力はまだ残ってるの。せめてゴールデンウイークまで、このままにしてあげようよ」


「ははっ、なんだよその理屈。まあ、早希がいいならそれでいいけど」


 早希とのやり取りを思い出し、小さく笑う。





「……」


 テレビ台の石に目が行く。


「石……何も変わらない石……だから俺は好きだった……」


 虚ろな目でそうつぶやく。


「でもな……なんでお前らがここにいるのに、早希はいないんだよっ!」


 台の上の石を荒々しく叩き落とす。


「なんなんだよ、なんなんだよこれはっ! なんでお前らがいて、早希はいないんだよっ!」


 そう言って残る石をつかみ、投げ捨てようとした。


 ――手の中に収まる、小さな丸い石。


 その感触、覚えがあった。

 それは信也が、早希にプレゼントした石だった。

 マジックで日付と共に、「信也くんからの初めてのプレゼント」そう書かれていた。


「なんだよお前……」


 肩を震わせ、石を胸にひざまずく。


「……早希……なんでお前、いないんだよ……出てきてくれよ、早希……」

 

 床に頭を擦り付け、何度も何度もそうつぶやいた。





「秋葉……遅い時間にありがとな」


「知美ちゃん……」


 日付が変わる頃に、秋葉が駆けつけてきた。

 知美に通されて中に入ると、棺を見てその場で膝から崩れた。


「そんな……」


「秋葉、来てくれたのか。ありがとな」


 信也がそう言って微笑む。


「信也……ごめん、ごめんね……」


「何だよそれ、訳分かんないぞ。ほら、早希に会ってやってくれ」


 その言葉に小さくうなずき、力なく立ちあがる。

 足が震え、満足に歩けなかった。信也は秋葉の肩を抱き、早希の元へと連れていった。


「……」


 目に大粒の涙をため、唇を噛み締めて早希を見つめる。

 しかしやがて、その糸はぷつりと切れた。


「早希さん……うわああああああああっ!」


 棺を抱き叫ぶ。

 その姿に皆がまた、肩を震わせ泣いた。

 あやめもさくらも、幸子も知美も声をあげて泣いた。


「うわあああああああっ!」


 信也は秋葉の頭を撫で、耳元で「ありがとな、秋葉」そう囁いた。





 火葬炉から出てきた遺骨を見て。

 全てが終わったんだ、そう思った。

 棺に横たわっていた早希の顔は本当に穏やかで、今にも目を開けそうだった。


「じゃーん! ねえねえ信也くん、驚いた? 驚いた? ほんとに死んだと思った?」


 そう言って起き上がってくるんじゃないか、そんな淡い希望を持っていた。

 しかし今、早希の骨を目の当たりにして。本当に早希の人生は終わったんだ、そう告げられたような気がした。

 足が震え、吐き気がしてきた。

 しかし何とかこらえ、知美や幸子たちと骨を拾い上げ、骨壺に納めた。

 火葬場を出て空を見上げると、暗い灰色の雲で覆いつくされていた。

 その空が、自分の心を映し出しているような気がした。





 最後の部屋、洋間の扉を開ける。

 クローゼットが半開きになっていた。


「……」


 脱ぎ散らかされたスウェットが目に入る。

 ひざまずき、そのスウェットを手に取る。

 早希の匂いがした。

 いつも傍で感じていた、心地よい匂い。


「早希……お前がいないと俺……俺……」





 これは罰なのか?

 人を信じることから逃げていた罰なのか?

 俺の犯した罪は、早希を失うほどに重いのか?


「……こうなるのが怖かったから、誰も信じないって言ったんだ……愛さないって言ったんだ……

 なあ早希……お前、約束したんじゃなかったのかよ……ずっとずっと、ずっとずっと傍にいるって……なのに……なのに……」


 信也はスウエットを抱き締め、何度もそうつぶやいた。

 そしてやがて。

 そのまま眠りに落ちていった。





 翌朝。シャワーを浴びて着替えると、JR東淀川駅へと向かった。

 以前、早希から教えられた住所を頼りに向かった場所。

 それは早希の唯一の身内、叔父のいる姫路だった。


 早希の死を電話で伝えたが、葬儀にも顔を出してくれなかった。

 そのことに憤りを感じたが、これが最後のけじめと言い聞かせ、出向くことにしたのだった。


 しかし早希の言った通り、叔父の反応はあまりに酷いものだった。

 玄関先で信也は、改めて早希の死を報告した。


「だから……何度も言ったと思うが、わしらはもう関係ないんだ。いちいち巻き込まないでくれ」


「どうしてそこまで、早希を無下に扱うんですか。あなたの姪じゃないんですか」


「あいつの父親、兄貴のことがそもそも嫌いだったんだ。あいつは子供の頃から勉強も出来て親にも可愛がられて、挙句の果てに一流企業に就職しやがった。そんなやつの弟だった俺の気持ちが分かるか?

 だからあいつが事故にあった時、正直すっとした。ざまあみろってな。そんなやつの娘だ。可愛い? 冗談じゃない。早希を追い出した時は痛快だったよ。あいつの娘を、社会に一人投げ捨ててやったってな」


 その言葉は、信也の中の凶暴な何かを目覚めさせようとした。

 だがぐっとこらえ、


「分かりました……失礼します」


 そう言って頭を下げ、家を後にしたのだった。





 早希……お前、どれだけ辛い思いをしてきたんだ。

 ごめんな、気付いてやれずに。

 そんな思いが頭を巡った。


 脱力感が支配する中、信也は帰路についたのだった。




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