第59話 その時
あやめが時計を見る。30分ほど眠っていたようだった。
「……」
まだ熱がある。体の節々が痛かった。
おぼつかない足取りで台所に向かい、冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを取り出す。飲むと、少し楽になった気がした。
そして扉を閉めようとして、中の物に目がいった。
「桃缶……あった」
手に取り、小さく笑う。
「早希さんに言わないと」
部屋に戻り、携帯で早希の番号を押した。
「今日もいい天気だな」
堤防沿いの道路を、早希が歩いていた。
いつもは遊歩道を歩いているのだが、たまにこうして、堤防の上を歩くのも好きだった。
ここからだと川が一望出来る。その景色も早希にとって、お気に入りだった。
「すっかり春だな……お花見も終わったし、次はゴールデンウイーク。去年は独りぼっちだったけど、今年は信也くんと一緒だもんね。ふふっ、楽しみ……旅行もいいよね」
ご機嫌な様子で、両手を天高く伸ばした。
「気持ちいいな」
陽の光に目を細め、微笑む。
「あーはいはい、誰かな誰かな」
ポケットから携帯を取り出す。
「はーい早希でーす。あやめちゃん、もう起きたの?」
「あ、早希さん、今起きたんだけど……桃缶、家にあった」
「そうなんだ、あはははっ。でもまあいっか、缶詰だし長持ちするから」
「もしかして……買ったの?」
「うん、今持ってるよ」
「え……早希さん、今なんて」
「もうすぐ戻るからね」
「ひょっとして今、外に……」
「それが聞いてよあやめちゃん。信也くんってばね、携帯置いて出ちゃってたのよ。忘れ物はないって自信満々に言ってたのに」
「早希さん! 一人なの!」
「あ、えーっと……あははっ、ごめんごめん、あやめちゃんと約束してたよね。近くのコンビニだから、いいかなって思って」
「早希さん! 今どこ!」
「えーっとねえ、今は堤防沿いの道路。もうすぐ着くよ。今日もいい天気、元気になったらまた一緒に散歩しようね」
「早希さん! 今すぐ安全なところに行って! 迎えに行くから!」
「え? いいよいいよ、あやめちゃん大袈裟だって。もう着くから待ってて」
「早希さん! お願い、聞いて!」
「ほぉら、見えて来たよ愛しの我が家。私たちの愛の巣!」
そう言った早希の目に、猛スピードで向かってくる車が映った。
「え……」
何が起こったのか分からなかった。
衝撃と共に、自分の体が空に近付いた。
真っ青な空。
吸い込まれそうな気がした。
ああ。ほんと、綺麗だな……
次の瞬間、全身が地面に叩きつけられたのが分かった。
何度も何度も体が跳ね、そして転がっていく。
川の柵に激突し、ようやく動きが止まった。
「早希さん! 早希さん!」
あれだけの衝撃があったのに、右手は携帯を離していない。
すごいな、私の右手……早希が力なく笑った。
大きな衝突音と共に、クラクションが鳴り響く。
さっきの車が、堤防から遊歩道に転がり落ちていた。
早希の体は、道路から数メートル下の遊歩道まで飛ばされていた。
「……」
だんだん周りが静かになっていく。
クラクションも、あやめの声も聞こえなくなっていた。
「信也くん……」
目が霞んでいく。
「あれ……ひょっとして私……」
左手を動かそうとするが、うまく力が入らない。
それでも無理に動かそうとすると、激痛が走った。
「おい! 大丈夫か!」
人が集まってきているようだった。
しかし朦朧としていて、よく分からない。
もう一度力を入れて、ゆっくりと左手を動かす。
「動かすな! 折れてるんだぞ!」
「え……あ、あははっ……折れちゃってるのか、私の左手」
「すぐ救急車が来るから、頑張れ!」
「救急車……」
痛みをこらえ、左手を顔に近付ける。
薬指に光る、結婚指輪。
梅田の露天商で買ったペアリング。
「信也くん……」
早希が指輪を見て微笑んだ。
私……どうなっちゃうの……
これから信也くんと二人で、幸せな毎日が始まるんだよ……
6月には結婚式もあって、みんながお祝いしてくれて……
信也くんも気に入ってくれたあのドレス、着るんだよ……
勉強もして、いつか大学にも行きたいなって……
信也くん……
駄目、駄目です神様……
私まだ、死にたくない……
私が死んだら、信也くんはまた一人になってしまう……
やっと……やっと信也くんが笑ってくれるようになったんです……
やっと人を信じようって……言ってくれたんです……
幸せになろうって、思ってくれたんです……
だから私……まだ死ねない……
信也くんの傍にいたい……
私、信也くんに約束したんです……
ずっとずっと、一緒いるって……
だから神様……お願いです……
私をまだ、連れていかないで……
「早希さん! 早希さん!」
あやめの声が聞こえる。
目を開けると、泣きじゃくるあやめの顔がそこにあった。
「あ……あははっ……ごめんねあやめちゃん……約束破ったから、罰があたっちゃったよ……」
「早希さん! 早希さん!」
「駄目だよあやめちゃん、パジャマで出たりしたら……そんな格好、信也くんに見せちゃ駄目……だからね……」
早希が空に目をやる。
どこまでも青く澄み渡った空。
力を振り絞り、ゆっくりと手を空に捧げる。
「信也くん……会いたいな、もう一度……」
信也くん……
信也くん信也くん信也くん……
信也くんから離れたくない……
寒いよ……
寂しいよ、信也くん……
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