第58話 運命の悪戯


「ゴホッ、ゴホッ……」


「大丈夫かい、あやめちゃん」


「うん……ごめんなさい……」





 4月13日土曜日。

 前日の勉強会、あやめは調子が悪いと言って早目に帰っていった。

 心配で朝、二人で様子を見に行くと、丁度出勤するさくらと出くわした。

 あやめは寝込んでいるらしかった。さくら曰く、たまにこういう時があるそうだ。

 繁忙期で休むことが出来ないさくらに代わり、信也と早希はあやめの看病を引き受けたのだった。


「熱、どうだった?」


「38度5分。結構あるね」


「マジか……あやめちゃん、薬はある?」


「お姉ちゃんが、帰りに買ってきてくれるって」


「なんだよそれ、水くさい。早希、家に解熱剤あったっけ」


「ごめんなさい、うちも切らしてたんだ」


「じゃあ俺、買ってくるよ」


「いいよ、お兄さん……悪い……」


「遠慮しなくていいよ。最近ちょっと元気なかったけど、ずっと体調、悪かったんじゃない? 駄目だよ、無理しちゃ」


「……ごめんなさい」


「謝るのもなしだよ。じゃあ早希、俺ちょっと行ってくるから。さくらさんに、薬はこっちで買っておくって伝えておいて」


「分かった、メッセージ送っておくよ」


「ついでに昼飯も買ってくるよ。あやめちゃん、何か食べたいもの、ある?」


「今はちょっと……」


「じゃあ食べられそうなもの、適当に買ってくるよ」


「ごめんなさい」


「さっきも言ったよ。謝るのはなし」


「……ごめんなさい」


「ははっ。じゃあ行ってくるよ。それまでゆっくり休んでて」


「分かった……ありがとう、お兄さん」


 そう言って瞼を閉じると、あやめはすぐに眠りについた。


「疲れてたんだろうな」


「だね。最近ずっと、勉強頑張ってたし」


「こんなちっこい体で、本当、頑張るよな」


 そう言ってあやめの頭を撫でると、早希がその上に手を重ねた。


「お願いね、信也くん」


「分かった。家に戻って財布取ってくるよ」


「あ、私もちょっと戻る」





「財布持った?」


「持ったよ。食べ物、何がいいかな」


「うーん、解熱剤飲むんだから、何か食べておかないとだもんね。とりあえずおかゆかな、こういう時は」


「と言うことは、特に何もいらない?」


「卵。あと二つしかなかったから。それとスポーツドリンク」


「分かった」


「お米炊いておくね」


「どうせだからおかゆ、俺の分も作ってくれる?」


「構わないけど。信也くん、そんなので足りるの?」


「考えたら早希のおかゆ、まだ食べたことなかったから。ちょっと食べてみたい」


「ふふっ、そんなこと言う信也くん、なんか可愛い」


「そう?」


「うん」


 早希が信也の腰に手を回し、キスをする。


「ん……」


 いつもより少し濃厚なキス。


「ぷはぁ……」


「どうした? なんかちょっと、甘えん坊モードだな」


「あやめちゃんには悪いんだけど、信也くんと二人っきりになっちゃうと、どうしてもこうなっちゃう」


「俺もだよ」


「ねえ……私が熱出しても、あんな風に看病してくれる?」


「当然。て言うか、元気でいてくれよ」


「分かってる。でもね、さっきの信也くん見てたら、私も看病してもらいたいなって思っちゃったの」


「その時はいっぱい、甘えていいから」


「あやめちゃんより?」


「勿論」


「ふふっ、嬉しい」


 信也の首に手を回し、熱く激しく唇を求める。信也もそれに応え、舌をからめる。

 やがてお互い優しいキスへと変わり、そしてゆっくりと、名残惜しそうに離れた。


「駄目、やっぱもう一回」


 そう言ってもう一度、そっと唇を重ねた。


「満足していただけました?」


「半分くらい。続きはまた後で」


「了解。すぐ帰ってくるよ」


「あやめちゃんの為に?」


「ははっ。寂しがり屋な奥さんの為にもね」


「合格。行ってよーし」


「じゃあ行ってくるよ」


「気を付けてね」


「ああ。あやめちゃんのこと、頼むね」


「信也くん」


 そう言うと、もう一度唇を重ねた。


「……私、本当に幸せ」


「俺の方が幸せだ」


「このやり取り、いつまで続くんだろうね」


「多分、ずっとだな」


「そうだったらいいな」


「そうだよ、きっと」


 そう言うともう一度信也が優しくキスし、早希の頭を撫でた。


「行ってくるね」


「信也くん、もっと」


「はいはい」


 子供の様にせがむ早希の頭を、信也がもう一度撫でる。


「続きは帰ってからな」


 愛おしそうに早希に微笑み、玄関の扉を開けた。


「いってらっしゃい。気をつけてね」





「……」


「目が覚めた?」


「早希さん……」


「どう? 水分摂っておく?」


「うん……ちょっと喉、乾いたかも……」


 早希から手渡されたスポーツドリンクを、ゆっくりと口にする。


「はぁ……ちょっと落ち着いた」


「よかった。熱も少し下がったみたいね」


「お兄さんは?」


「信也くんはお買い物。帰ってきたらおかゆ、作ってあげるから」


「……ごめんなさい」


「また言ってる。あやめちゃんは病人なんだから、ちょっとぐらい甘えてもいいんだよ。出来れば信也くんじゃなく、私に」


「それは別の話。兄に甘えるのは、妹の特権」


「じゃあ、妹として甘えてね」


「ふふっ」


「その様子だと、もうちょっと寝てたらよくなりそうだね。その前にあやめちゃん、体拭いてあげようか」


「お兄さんがいい」


「……それ、冗談でも信也くんに言っちゃ駄目だからね」


「分かってる、ふふっ……」


 上着を脱いだあやめの背中を、早希が濡れタオルで拭いていく。


「あやめちゃんの肌、ほんと綺麗だよね」


「そう……かな」


「うん。実はね、初めて会った時、お人形さんみたいな子だなって思ったんだ。出来ればお持ち帰りして、部屋に飾っておきたかった」


「……何てこと考えてたんですか」


「そのあやめちゃんとこうしてお隣さんになって、仲良くなれて。嬉しい」


「私も」


「そんなあやめちゃんの体を今、私が拭いてる。なんて幸せなんだろう」


「あ、あの早希さん、変なところ触らないで」


「分かってる分かってる。お姉さんに任せといて」


「……なんか、鼻息荒い……」


「気のせい気のせい。あ、でもあやめちゃん、信也くんにはこの体、絶対見せちゃ駄目だからね」


「早希さん、本当にお兄さんのこと、好きなんだね」


「勿論。何と言っても私、妻ですから」


「キサキサキ」


「あ、その……ロボットみたいに言わないで」


「ふふっ……でも私、二人といると本当に楽しい」


「早く元気になってね。また一緒に勉強したいし」


「うん……ありがとう」


 上着を着せ、あやめを横にして布団をかける。


「食欲はどう? 何とか食べれそうかな」


「……まだちょっと、ご飯は無理かも」


「でもお薬飲む前に、何か食べておかないと。何か食べれそうなものないかな」


「……桃缶」


「桃缶かぁ。確かにあれ、熱が出た時の定番だよね。分かった、じゃあ信也くんに言って買ってきてもらうよ」


「早希さん……」


 あやめが早希の手を握った。


「あやめちゃん?」


「私も……早希さんのこと、大好き……こうして早希さんやお兄さんと、ずっと一緒にいたい」


「いれるよ。何たって私たち、あの家のオーナーだからね。ずっとここにいるから」


「……私……早希さん、好き……」


 あやめが笑みを浮かべながら、また眠りについた。


「……もぉ、あやめちゃんてばほんと、可愛いんだから」





 部屋に戻り、信也に電話をかける。


「……あれ?」


 着信音が、和室から聞こえてきた。


「あらまあ。信也くんてば、携帯忘れて行ったんだ。仕方ない、ちょっと買いに行きますか」


 そう言って玄関に向かった。

 そして鍵を出そうとポケットに手を入れた時、自分がスウェット姿だったことに気付いた。


「やば……流石にこれで外には出れないわ。信也くんにおばちゃん化してきたって笑われる」


 クローゼットを開け、慌てて着替える。


「あやめちゃんも待ってるし、マッハで行かないとね」



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