第61話 ただいま


 鍵を開けた時、隣の部屋からあやめが姿を現した。


「お兄……さん……」


「あやめちゃん、ただいま。やっと全部終わったよ」


 疲れた顔を見せまいと、笑顔を繕う。


「……」


 信也の言葉に、あやめはその場に膝から崩れた。

 信也が駆け寄り、肩に手をやる。


「……ごめん……ごめんなさい……わたっ……私のせいで……」


「なんであやめちゃんが謝るんだよ。あやめちゃんのせいじゃないって、何度も言ったろ?」


「でも……」


「でもじゃないよ。俺があの時、携帯忘れなきゃよかっただけなんだ。なああやめちゃん、頼むからそんなに自分を責めないでくれよ。そんなあやめちゃんを見てると、俺も辛いんだ」


「そうじゃない、そうじゃないの……私、分かってたはずなのに……」


「よく分からないけど、どっちにしてもあやめちゃん、誰も君のせいだなんて思ってないから。それにあやめちゃんがそんなんだったら、早希も辛いと思うよ」


「……」


「落ち着いたら、また一緒に勉強しよ? 少しずつでいい、元の生活を取り戻していこう」


「元の生活……」


「そう、いつもの日常。こういうのは時間しか解決してくれないものなんだ。そしてそれには、いつも通りの生活に戻すのが一番なんだ」


「……分かった……お兄さんは、その……大丈夫なの」


「流石にちょっと疲れたから、今日は早めに寝ようと思ってる。今週いっぱい休みもらえてるし、その間に何とかね。

 さくらさん、まだ仕事だよね」


「うん……お姉ちゃんもお兄さんのこと、ずっと心配してた……お兄さんも疲れてるだろうし、お姉ちゃんには明日、顔を出すように言っておく」


「熱は下がった?」


「大丈夫……早希さんの桃缶のおかげ」


「ならよかった。まだ夜は冷えるからね、あったかくして寝るんだよ」


「うん……」


「それじゃ、また」


「あの……お兄さん、その……」


「ん?」


「あ、いえ……なんでもないです……」


「じゃあまたね」





 扉を開けると、線香の香りがした。

 宗教に興味はないが、この匂いは嫌いじゃなかった。


 靴を脱ぎ、中に入る。

 もう二度と、早希が「おかえりなさい」と迎えてくれることはないんだ。

 そう思うと、また寂しさが込み上げてきた。


「……」


 煌々こうこうと明かりのともったリビング。

 消し忘れたか。朝、バタバタしてたもんな。

 でも、今日はこれでよかったのかもしれない。まるで早希が迎えてくれてるようだ。

 そう思い、寝室へと向かう。

 そこでふと、テレビ台に目がいった。


「……どういうことだ?」


 投げ捨てたはずの石が、綺麗に並べられていた。

 しかも、いつも早希が並べていた通りに。


「俺が元に戻したのか……いや、そんな記憶ないんだけど」


 そう思ったが、やがて「どうでもいいか」、そうつぶやき、早希の元へと向かった。





 祭壇に祀られた早希の遺影。

 本当に綺麗だ。

 本当に幸せそうだ。


 早希……

 もう一度、お前を抱き締めたかった。

 もう一度、愛してるって言いたかった。

 もう一度……愛してるって、言ってほしかった……


 溢れる想い。

 信也は遺影に向かい、微笑んだ。


「ただいま、早希」





「おかえり、信也くん」





「え……」


 聞き覚えのある声だった。

 この数日、幾度となく求めた声。

 ついに幻聴まで聞こえてきたのか? ヤバイな、俺。

 そう戸惑う信也の胸に、何かが飛び込んできた。


「……え?」


 何が起こっているのか理解出来ず、狼狽する。

 しかしこのぬくもり、覚えがあった。

 この匂い、覚えがあった。

 ゆっくりとこちらを見上げたその顔に、信也は目を見開いた。


「早希……」


 信也の目に映ったもの。

 それは満面に笑みを浮かべた、愛する妻。

 早希だった。


「そうだよ。早希だよ、信也くん」


 そう言って信也にしがみつく。


「え……ちょ、ちょっと待ってくれ。これって一体」




「言ったでしょ。私は信也くんと、ずっとずっと一緒だって」




「ほ……本当に早希なのか?」


 混乱しながら早希の体を触る。


「やだなあ、もぉ。信也くんってば、数日私がいなかったからって、そんな大胆に触らなくてもいいじゃない。エッチ」


「あ、ごめん……じゃなくて早希? 早希なのか?」


「そう言ってるじゃない。それとも何? 私が違う誰かに見えるのかな。あやめちゃんとか秋葉さんとか」


「いやいやいやいや、そうじゃなくて……って、何でそこで二人が出てくるんだよ」


 あまりに自然な早希に、信也もいつもの感じで突っ込んでしまう。


「だって信也くんってば、お通夜とかお葬式の時も、ずっと二人にベタベタしてたしー」


「してないから、してないから。てかお前、見てたのかよ」


「全部見てましたー。秋葉さんの肩を抱いてたのも、あやめちゃんを抱き締めてたのもー」


「いや、だからそれは」


「許しませーん。許してほしかったら、二人にした分の倍、私にしてくださーい」


「あ、はい、分かりました」


 そう言って早希の頭を撫でる。


「えへへへっ。やっぱいいな、信也くんに撫でられるの」


「こんなのでよければいつでも……って、違うだろ。早希、お前本当に早希なのか?」


「だからそうだってば。私は紀崎早希、信也くんのお嫁さんです」


「でもお前、車にはねられて」


「はねられたねー。あんなに飛んだの、初めてだったよ」


「安置所で、お前が死んだのを確認して……」


「色々ありがとね」


 信也を抱き締める。


「本当に……早希、なのか……」


「うん……信也くんに会いたくて、約束守りたくて……戻って来ちゃいました」


「戻ってって……どこから」


「あの世」


「……」


「だって私、死んだんだもん」


「と言うことはお前、幽霊なのか」


「その辺の説明が難しいんだけど、簡単に言ったらそうなるのかな」


「じゃあなんで、こうやって触れられるんだ」


「それは……うーん、説明すると長くなるから、明日にしよう」


「しようって、お前」


「それより信也くん、この数日お疲れ様でした。私の為にありがとね。それから……ごめんなさい」


 そう言って唇を重ねる。

 ずっと求めていた感触。

 温かくてやわらかくて。心が穏やかになっていく。


「ぷはぁ~」


 いつもの様にそう言って、可愛く微笑む。


「早希……」


「何?」


「……」


 早希を見つめる信也の目から、涙がこぼれ落ちていた。

 その涙に、信也自身が驚いた。


「あれ、おかしいな……叫んでもわめいても出なかったのに……何で今になって……ははっ……涙が、涙が止まらない……」


 肩を大きく震わせる。


「早希……」


 早希の胸に顔を埋める。


「早希……俺……俺……」


 信也の頭を、早希がいとおしそうに撫でる。


「ありがとう、信也くん。私のこと、こんなにも愛してくれて……私、本当に幸せだよ」


「……」


「私はこれからも、信也くんとずっと一緒だよ」





 抑え込んでいた感情が、涙となって流れていく。

 やがて信也は、そのまま眠りに落ちていった。


「大変だったもんね……お疲れ様でした、私の旦那様」


 そう言って小さく笑うと、早希は信也の頬にそっとキスした。





「ただいま、信也くん」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る