第55話 入籍


「確かにお預かり致しました。ご結婚おめでとうございます」


 3月9日土曜日。

 大阪市淀川区役所に赴いた二人は、無事婚姻届けを提出した。





 阪急三国駅で降りた二人は、そのまま遊歩道に入った。


「やっと終わったな。ほっとしたよ」


「あー、信也くん、また訳分かんないこと言ってる。なにが終わったのよ」


「だから、提出するのが終わったなって」


「また言った。あのね信也くん、こういう時はそうじゃなくて、始まった、なの」


「意味は同じだろ」


「全然違う。いい? 終わりと始まりとでは、意味が全然違ってくるの。私たちのこれからは、今から始まるんです」


「あ、はい分かりましたすいません」


「ほんとにもぉ……そりゃね、ここまで来るのに色々あったし、大変だったのは分かるよ」


「早希の告白」


「信也くんの家に押しかけて」


「姉ちゃんに会って」


「摂津峡にも行って」


「梅田デートもあったな」


「信也くんの実家にお泊まり」


「引っ越し」


「壁紙、五百旗頭いおきべさんにはほんと、感謝だね」


「さくらさんとあやめちゃんがやって来て」


「秋葉さんも来てくれた」


「篠崎のチキンっぷりに早希が怒って」


「受験勉強」


「ハンバーグも作った」


「信也くんがよく笑うようになった」


「早希のお父さんたちにも会えた」


「そして今日」


「入籍」


 そう言って、二人は共に見つめ合った。


「信也くん。私をお嫁さんにしてくれてありがとう」


「俺のこと、好きになってくれてありがとう」


「これからもよろしくね、旦那様」


「こちらこそよろしく。可愛い奥様」


「ふふっ」


「ははっ」


 二人は手を取り合い、見つめ合い。

 今この時の幸せを噛みしめていた。


「信也……くん……」


 早希が目を閉じ、信也にキスを求める。

 可愛い仕草に照れながら、信也も早希に近付く。

 そこでやっと、自分たちが今、どこにいるのかを思い出した。


「待て待て待て待て! あーやばかった、あやうく公衆の面前でキスするところだった」


「えー、いいじゃない。意地悪」


「いやいや駄目だろ。早希さん、周りよく見て」


 そう言われて周囲を見回すと、散歩している家族連れたちが遠巻きに二人を見ていた。


「あー、あの人キスしようとしてるー」


「こら、指差しちゃいけません」


「あ……」


「分かってくれた?」


「はい……ごめんなさい」


「また後でな」


 早希が顔を真っ赤にしてうつむいた。


「とりあえず、この恥ずかしい場所から撤収」


「分かったいくよ、せーの!」


「スタート!」


 二人でその場から、逃げるように走っていった。

 共に笑いながら走るその姿に、往来の人たちも自然と笑みを浮かべたのだった。





「……は、走ったな」


「信也くん、飛ばし過ぎ……」


 全力ダッシュなんていつぶりだろう。息を切らしながら信也は思った。

 早希も肩で息をし、咳き込んでいた。


「飲み物買ってくるよ。早希はそこに座ってて」


「りょ、了解……信也くん、お願い……」


 信也が堤防を上がっていくのを見届け、早希はベンチに腰を下ろした。


「あー疲れたー。婚姻届を出した日に全力で走る夫婦なんて……ふふっ、私たちぐらいじゃないかな」


 息が整いだすと、早希はさっきまでのやり取りを思い出し、幸せそうに微笑んだ。

 空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっている。

 神崎川は今日も穏やかに、ゆっくりと流れている。水の匂いに交じって、草花の香りがする。


「もう春だな……」


 青空に両手を捧げ、大きく伸びをした。





「楽しそうね」


 振り返ると、そこに一人の女が立っていた。

 年の頃は30ぐらいだろうか。

 日傘を差したその女は、年齢の割には少し地味、と言うか古風に感じられるデザインのワンピースを着ていた。

 腰まである黒髪は艶やかで美しい。

 憂いを帯びた大きな瞳には、見た男を虜にする妖艶さがあった。

 この人を信也くんに会わせてはいけない。浮気されるかもしれない。

 本能的にそう思えるほど、美しい女性だった。


「隣、いいかしら」


「あ、はいどうぞ……って、私のベンチじゃないですけど」


「お連れさんが戻るまで。ちょっとだけ失礼するわね」


「……ひょっとして見てました?」


「見てたって……ああ、さっきのキス?」


「いやあああああああっ! ごめんなさいごめんなさい、さっきの私、浮かれすぎて変になってただけなんです!」


「ふふっ、別に変に思ってないから。でも……若いっていいなって思ったわ」


「そんな、えーっと」


「純子よ」


「純子さんですね。私は三島……じゃなかった、紀崎早希です」


「早希ちゃんね、よろしく」


「はい。それでさっきの話ですけど、純子さんも私と歳、そんなに変わらないじゃないですか。若さを羨むような歳じゃないですよね」


「あらあら、うふふっ。そう言ってもらえると嬉しいわ」


 手を口に添えて笑う仕草は、確かに大人びて見えた。


「今日は何かあったの?」


「え、ええまあ、その……なんと言いますか……」


「何かいいことがあったのかなって。さっきのお二人を見てそう思ったの」


「ごめんなさいごめんなさい、ほんとすいませんでした忘れてください」


「うふふふっ。そうじゃなくて、どう? 今日は何か特別な日なの?」


「はい、実は……私たち、入籍したんです」


「そうなのね、おめでとう早希さん」


「あ、ありがとうございます。なんか嬉しいな……結婚して初めて、おめでとうって言ってもらえた」


「と言うことは、本当に入籍したばかり?」


「はい。ほんの30分ほど前です」


「じゃあ今、最高に幸せね」


「はい。こんなに幸せな気持ち、生まれて初めてです」


「よかったわね、早希ちゃん」


「はい。でも、信也くん……主人が言うには、これを最高にしちゃいけないって。これからもっと、幸せにならないといけないんだって」


「いい旦那さんね」


「はい。私には過ぎた旦那様です」


「早希ちゃん。今のその気持ち、忘れないでね。それから……幸せをいっぱい感じて、たくさん旦那さんに感謝してね」


「はい」


「それから思いきり甘えて」


「それは大丈夫です。今までもいっぱい甘えてきましたから」


「新婚生活に不安、ない?」


「全然ありません。と言うか私より、主人の方が心配で」


「そうなの?」


「はい。主人はなんて言うか……幸せ慣れしてないところがあるんです。今感じてる幸せも、ある日突然消えてなくなるんじゃないかって。そんなことを思って、いつも不安そうにしてる人なんです」


「でも早希ちゃんは、そんなことないのよね」


「私の役目は、そんな主人の不安を消すことですから。だからずっと一緒にいる、絶対離れたりなんかしないって。それが最後の口説き文句でした」


「じゃあ旦那様から離れず、いっぱい甘えてあげないとね」


「はい、そのつもりです」





「早希、お待たせ」


 信也がジュースを手に戻ってきた。


「遅くなっちまったな、ごめん」


「ううん、この人が話し相手になってくれてたから。信也くん、こちらは純子さん」


「え?」


「え、じゃないわよ。この人と一緒にお話ししてたの」


「誰と?」


「だからこの人って……あれ?」


 早希が振り返ると、隣に座っていた純子の姿がなかった。


「あれ、いつの間に……さっきまでいたのに」


「そうなのか? 早希しか見えなかったけど」


「そんな訳ないって。一緒にお話ししてたんだから。結婚おめでとうって、純子さんに言ってもらったんだから」


「ま、まあいいじゃないか。別に疑ったりしてないから。それよりほら、ジュースお待たせ」


 そう言って信也が差し出すジュースを受け取り、早希は小さく「ありがと」と言った。

 そして狐につままれたような顔で川面を見つめ、「変だな……」そうつぶやいた。



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