第56話 動き出す運命


「戻ってきたぞ、愛しの我が家」


「私たちの愛の巣!」





 あれから30分ほどかけて、二人は遊歩道を散歩した。

 純子の件で少し微妙な空気になったのだが、途中で早希が、


「はい、この話は終わり終わり! 考えたってしょうがない。私が純子さんと話してたのは事実、信也くんも疑ってる訳じゃない。だからこれで終わり! はい、次いってみよー!」


 そう言ってくれたおかげで、お互い気持ちを切り替えることが出来た。

 少し引っかかりもしたが、純子が信也に気付いて席を外した、そう考えれば何の問題もない話だ。

 信也もそれ以上言及することなく、二人はこの話題を打ち切ったのだった。


「信也くん。私、紀崎早希になって初めてこの家に入るよ」


「そうだな。俺も正式に早希の夫、そう思ったら身が引き締まるよ」


「帰ったら何したい?」


「とりあえず煙草だな」


「何それ。私が今望んでること、煙草に負けるの?」


「ごめんごめん。早希と同じこと考えてるよ」


「同じことって、何?」


「言わせんなよ、恥ずかしい」


「えー、言ってよー。ほら、家に帰ったら何したい? 二人っきりの家、隣にいるのは新妻だよ」


「新妻……」


「あー。信也くん、今すっごくだらしない顔になったー」


「あ、いやそれは……仕方ないだろ、そんなワード出されたら。俺に絶対縁のないものだったんだから」


「やらしい顔に変わった」


「勘弁してくれ……」


「それで? 何がしたい?」


「早希に言ってほしいな。可愛い奥様からの最初のおねだり、聞きたいな」


「ふふっ。信也くんったら、またそんな恥ずかしいこと言って」


「嬉しくない?」


「嬉しい」


「じゃあ奥様、どうぞ」


「いっぱいキスして」


「それから?」


「それから……」





「やっと戻って来たんかい」


 マンションのエントランスに入った所で、聞き覚えのある大阪弁が聞こえた。


「え?」


「何が、え? じゃボケ。遅いんじゃ紀崎」


「ナ……ナベさん?」


「おお三島っち、今日もべっぴんさんやな。ほんま、紀崎のアホにくれてやるのが勿体ないわ」


「森さん?」


「紀崎お疲れ。三島、おめでとう」


「作業長……」


 エントランスに、ラインの作業員たちが集まっていた。


「副長、三島さん、お帰りなさいっす!」


「副長、それから奥さん、入籍おめでとうございます」


 篠崎も五百旗頭いおきべもいる。


「お兄さん、おめでとう」


「ええっ? あやめちゃん?」


「皆さん、信也さんの家の前でずっと待ってたんですよ。それで私が家にご招待して、お二人が帰ってくるのを待ってたんです」


「さくらさんまで」


「さくらっちがもうすぐ帰って来るって言うんでな、わしらみんなで窓から見とったんや。ほんだら見てみい、アホ面さらしたうちの副長発見や。そんでみんなして降りてきたんや。感謝せいや、出迎えなんぞ、おどれには10年早いんやさかいな」


「じゃなくて、なんでここに集まってるんですか? せっかくの休みに」


「アホんだら、んなもん決まっとるやろうが。お前らの結婚祝いや」


「酒はたんまりあるで」


「えええええええっ?」


「料理はさくらっちが作ってくれるっちゅうてくれた。三島っちも、すまんけど頼むわ」


「何やったら出前でもかまへんで」


「おい紀崎。どうせお前、今から三島とええことさらすつもりやったんやろうが、そうはいかんぞ。何が新婚初夜じゃ、んなもんわしらが叩き潰したる」


「いやいやいやいや、山さん、それおかしいでしょ」


「ごちゃごちゃ言うとらんと、さっさと行くぞ。お前もいっぱしの男になったんや、いちいち細かいことぬかすな」


「今日はとことん飲ましたるさかいな」


「ええええええええっ?」


「あ、でもみなさん、今日は信也くんのその……誕生日のお祝いも一緒にしようと」


「三島っち。いくら三島っちの頼みでもそれは聞けん。なんでこないなアホにふたつも祝ったらなあかんねん。んなもん明日でも構へん。とにかく今日は、こいつをとことん酔いつぶしたるんじゃ」


「おい篠崎、何とかならんのかこの猛獣共」


「……無理っすね、諦めてくださいっす」


「だよな……」


「ほんだらいくぞ! まずは新郎の胴上げじゃ! ほんでとことん脳味噌揺らした後で酒、浴びるほど飲ませたれ!」


「おおっ!」


「ちょ……ナベさん、浜さん」


 みんなが信也を担ぎ上げ、エントランスからマンション前の公園に向かった。


「紀崎信也―! バンザーイ!」


「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」


「胴上げじゃああああっ!」


「ワッショイ! ワッショイ!」


 信也の体が何度も何度も宙を舞う。


 戸惑っていた信也も、体が舞うごとに笑顔になっていった。

 両手を天に捧げ、


「うおおおおおおおおっ!」


 そう雄叫びをあげた。


「やるぞおおおおおっ! 俺はやるぞおおおおおっ!」


 宙を舞う信也の雄叫びを聞きながら、早希は人知れず涙を拭った。


「幸せだな、私……」


 その早希の手をあやめが握る。


「早希さん、おめでとう」


「あやめちゃん……うん、ありがとう」


 照れくさそうにうなずき、あやめに微笑む。




 ――その時、あやめが目を見開いた。




「早希……さん……」


「……あやめちゃん?」


「そんな……」


 あやめが真っ青な顔で早希をみつめる。体が震えていた。


「あやめ、どうかした?」


 さくらがあやめの肩に手をやる。

 その感触にはっとすると、あやめはそのまま早希の腕にしがみついた。


「え? え? あの……あやめちゃん? どうしたの、気分悪くなった?」


「……あやめ?」


 あやめは早希の腕に顔を埋め、ただ首を振るだけだった。


「よっしゃ! ほんだら紀崎んで祝いじゃあああっ!」


 ようやく胴上げの終わった男たちが、再びエントランスに戻って来た。


「あやめちゃん、どうかした?」


 早希にしがみつくあやめに、信也が声をかける。


「よく分からないんだけど、急にこうなっちゃって」


「なんすかあやめちゃん、信也お兄ちゃんを取られたっていじけてるんすか? いいんすよ、あやめちゃんにはこの俺、とおるお兄ちゃんがいるんすから」


「ボケ、お前じゃ紀崎よりもっと頼りないわい」


「ええっ? 浜さん、それ酷くないっすか」


「ほんと、どうしたのあやめちゃん」


 信也がそう言ってあやめの頭を撫でる。


「大丈夫……ごめんなさい、変な空気にしちゃって」


「いや、それはいいんだけど……ほんとに大丈夫?」


「うん……大丈夫……」


 しかし早希から離れようとしない。


「……」


 信也と早希が顔を見合わせる。


「行こう……早希さん」


 あやめがそう言って、早希の腕を引っ張る。


「おい紀崎、三島っち。さっさと行くぞ」


「あ、はーい」


「じゃあ行こうか」


「そうですね。あやめ、お姉ちゃんと行こ?」


「……早希さんと一緒が……いい……」


「そうなの?」


「じゃああやめちゃん、行こっか。今日はご馳走一杯作るからね。何だったら後でピザも頼も? ガーリック多めで」


「……うん」


 エレベーターに向かいながら、早希はあやめの様子に違和感を覚えていた。

 ついさっきまで、あやめはいつもと変わらなかった。

 自分の顔を見てからだった。あやめの様子がおかしくなったのは。

 そう思うと、何かしら言い知れぬ不安が胸の中に沸き上がってきた。


 あやめと出会った日のことを思い出す。

 摂津峡で初めて会ったあの時。

 あの時もあやめは、自分を見て驚いていた。

 今の彼女は、その時とどこか似ている。そんな風に感じられた。


「早希、行くよ」


 視線を向けるとそこには、この世界で一番大切な人が、笑顔で手を伸ばしていた。


「……うん! 信也くん!」


 早希がその手をつかむ。

 そうだ。私にはこの人がいる。

 誰よりも不器用で、誰よりも優しくて。そして誰よりも私を愛してくれるこの人が。

 わたしには今、この温もりがある。

 この温もりがある限り、たとえどんなことが起ころうとも、私は乗り越えることが出来る。

 早希は信也の胸に飛び込み、今心に生まれた不安を消し去った。





 私はこの人と、この仲間たちと。ずっとずっと共に生きるんだ。



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