第50話 紀崎早希
「なあ早希」
「何?」
「早希って、やりたいこととかないのか」
「やりたいこと?」
「ずっと気になってたんだ。この半年、早希はいつも俺の生活リズムに合わせてくれてた。毎日ご飯作って、仕事して、お風呂に入って一緒に寝る。
俺にとっては楽しい半年だった。でも早希はどうなんだって、ずっと思ってたんだ。ひょっとしたら、他にやりたいことがあるんじゃないかって。でも俺との生活を優先して、それを我慢してるんじゃないかって」
「う~ん、したいことかぁ」
「何かないのか」
「一番は、信也くんのお嫁さんになること」
「それは嬉しい。かなり嬉しいんだけど……他には?」
「他にはって……信也くん、私にとってそれ以上の幸せはないんだよ? 来年3月9日、私は三島早希から紀崎早希になる。私が子供の頃から、ずっと憧れてた夢。
ねえ、信也くんは気付いてた?」
「何に?」
「私の名前」
「名前?」
「そう。信也くんと結婚したら私、紀崎早希になるんだよ」
「俺が三島信也になるって選択肢もあるけどな」
「そんな選択肢はないの」
「そうなのか? 俺、別にどっちだっていいぞ。母ちゃんも姉ちゃんも、二人で考えて好きにしろって言ってたし」
「だーかーらー、そんなのはないの。私が紀崎早希になる、これは決定事項なの」
俺、なんで怒られてるんだ?
そんなことを思いながら、信也が「分かりました」と頭を下げた。
「全く……まだ気付かない?」
「気付かないって、何に」
「だから私の名前。私ね、信也くんのことを好きになった頃からそれに気付いて、一人で笑ってたの。これ、かなり面白いって」
「面白いって、紀崎早希になることが?」
「はいっ、じゃあここに私の名前、書いてみて」
「あ、はい、分かりました」
「片仮名で」
「はいはい、片仮名ね」
信也が紙に「キサキサキ」と書いた。
「……あ」
「気付いた?」
「……すごい、すごいなこれ! 全く気付かなかったぞ!」
「でしょでしょ! すごいよね、これって!」
「上から読んでもキサキサキ、下から読んでもキサキサキ」
「だから何? って言われたらそれまでなんだけど、でもこれってなんか、すごくない?」
「ああ、何がすごいのかよく分からんけど、でも確かにこれは……すごいな。日本に何人ぐらいいるのかな、こういう人って」
「しかも結婚してからこうなるんだよ? 狙っても中々出来ないよ」
「そうだな。いや、これはびっくりした。ある意味、今年一番のびっくりだ」
「だからね、私は信也くんのお嫁さんになることが、一番なの」
「だからって、そこ? いや、嬉しいんだけど……そうなのか?」
「そうなの」
「よし、抱き締めよう」
早希を抱き寄せる。
「もっと、ぎゅうって」
「ぎゅうぅ……」
「ふふっ、幸せ」
「俺の方が幸せだ」
「私だよ」
「でも、もっと幸せにしたいな、早希のこと」
「今より?」
「そう。だから早希、俺の嫁さんになるのが夢、それはすごく嬉しい。でもそれ以外、それ以外に何かないか?」
「う~ん」
「大学に行きたいって言ってたよな。それはこれから、俺も全面的に協力する。一緒に勉強しよう。それ以外、他にはないか? 何かしたかったこととか。趣味でもなんでもいいんだ」
「私ね」
「うん」
「いつも信也くんに偉そうに言ってたから、正直に言えなかったんだけど……いい機会だからちゃんと言うね。多分私、信也くんより趣味、ないかもしれない」
「ええっ? そうなのか?」
「色んなことに興味はあるよ。だからテレビも観るしネットで調べるし、外にも出る。でも、何もかも忘れて打ち込めるもの、それは何ですかって聞かれたら私、何もないかもしれないんだ」
「……衝撃のカミングアウトだな」
「色んなことに興味があるから、逆に何も残らなかったって言うか。それに私、まずは生きるのに精一杯だったから」
「……それだ」
「え?」
「それだよ。やっと答えが出た。早希はやりたいことがない訳じゃない。ただそれが許されない環境にいた、それだけなんだ」
「そう……なのかな」
「そうだよ。だから興味あるものに出会っても、無意識にブレーキをかけてたんだ」
「……信也くん」
「何だ?」
「抱き締めてもよかですか」
「おいで」
「むぎゅううっ!」
「ははっ、可愛いな、早希は」
「信也くん……信也くん信也くん信也くん」
「ここだよ、俺はここにいるよ」
「愛してる愛してる愛してる」
「……なあ早希、だったらこれから早希がしたいこと、一緒に探さないか? 俺も手伝うから」
「いいの? 信也くん、そんなことに付き合ってくれるの?」
「早希が一生懸命何かに挑戦する姿、見てみたいから」
「愛してる、信也くん。今日の信也くん、今までで一番格好いいかも」
「とりあえずは勉強、頑張ろう」
「うん!」
「それから神崎川で散歩。これも欠かせないな」
「そうだね。ある意味一番のお気に入り」
「後、これは俺が興味持ったことなんだけど……あやめちゃんの影響かな、昔の映画、色々観てみたいと思ってる」
「それは私も思った。とりあえずドラキュラシリーズ、全部観てみたい」
「リリースされてないのもあるみたいだけど、ちょっとずつ集めるか」
「うん!」
テレビから、除夜の鐘の音が聞こえてきた。
「早希……今年一年、ありがとう」
「私と一緒になってくれて、ありがとう」
「早希と出会えて、俺は本当に幸せだ」
「もっともっと、信也くんと幸せになりたい」
「来年も」
「さ来年も」
「これからもずっと……」
「ずっとずっと……」
唇を重ねる。
「二年越しのキス……幸せだな」
「早希……愛してる……」
おごそかに除夜の鐘が鳴る。
互いを抱き締め、互いの存在を確かめ合う。
そして。
二人にとって、運命の年が幕が開けた。
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