第33話 新生活に向けて


 朝。

 知美が信也の枕を蹴り飛ばした。


「あんた、嫁が出来ても朝は変わんないのね」


「姉ちゃん……その起こし方は勘弁してくれとあれほど」


「何回声かけたと思ってんのよ。早希っちはもうご飯食べてるよ」


「分かった起きるよ」


「早くしろよ」


「姉ちゃん」


「ん?」


「色々……ありがとな」


「……ま、この貸しはいずれ返してもらうよ」


「ほんと、ありがとう。秋葉のことも」


「ほら、婚約者がいるのにその名前出さないの。結婚する前から修羅場なんて、姉ちゃん見たくないよ。あ、そうでもないか。それはそれで面白いか」


「あのなぁ」


「それからもうひとつ貸しね」


「もうひとつ?」


「着ぐるみ。あれ、あんたたちにあげるから」


「いらないって」


「早希っち、喜んで袋に入れてたから。あんたの分も」


「マジか……」


「ほら、さっさと着替えて来る」





 電車の中で、早希は嬉しそうに昨夜のことを話していた。


「でね、お母さんがお風呂で背中流してくれたの。気持ちよかったー」


「よかったな」


「それにね、夜も3人で並んで寝て。あ、勇太くんもいたから4人か」


「狭かったろ」


「誰かと一緒に寝るのっておばあちゃんと住んでた時以来だったから、すっごく嬉しかった」


 送迎用のバスの中でも、早希はずっと話し続けていた。

 他の従業員の耳にも、二人の婚約の話は入っていた。

 埃と油まみれの職場で生まれた、恋の物語。

 バスの中でも、二人に自然と視線が集まっていた。

 誰かが運転手に声をかけ、いつの間にか流れていたラジオの音量も下がっていた。

 信也が何度か「もう少し声を下げて」と小声で言い、その都度「ごめんなさい」と声を下げるのだが、話している内にまた大きくなっていく。

 信也の実家に泊まったという事実は、こうして朝礼時には、ラインの作業員たちの知るところとなっていた。





「副長。隣、いいですか」


 昼休み。

 信也はいつもの場所で、煙草を吸いながら動画サイトを見ていた。

 その信也に声をかけて来たのは、4月からラインに配属された五百旗頭いおきべだった。


五百旗頭いおきべさん、どうぞどうぞ。珍しいですね、いつも中の喫煙所なのに」


 50代後半の五百旗頭いおきべは、メーカーの販売店で店長をしていた。

 どこの街にもあった販売店。昔は地域密着で、地元の人間はそこで購入するのが当たり前だった。工事も修理も、全て顔なじみの店員がしてくれる。どこのメーカーも、こぞって販売店を街に作っていた。

 しかし大型店の進出で、その状況は変わっていった。品揃えや値引きで販売店を圧倒する状況に、メーカーも縮小を余儀なくされた。

 そして五百旗頭いおきべのように、長年勤めあげていた店長ですらリストラの対象となり、それでも働くことを選択する者たちは、こうして工場の作業員として配属されるのだった。


 この人もこれまで、必死に頑張って店長にまでなったんだ。それなのにある日突然、解雇に等しい移動を通告され、家族のため、工場で一からの仕事に励んでいる。彼のこれまでを全否定するようなやり方に、信也はどうしても納得いかなかった。

 作業員たちも、いきなり現れた初老の新人に困惑していた。だからこそ信也は、少しでも早く仕事を覚え、周囲に溶け込めるようにと五百旗頭いおきべへの指導に力を注いでいた。


「すいません副長、休憩されてるのに」


「大丈夫ですよ。それより五百旗頭いおきべさん、前にも言いましたけど、作業中以外は紀崎でいいですから。みんなそうですし」


「いや、そう言ってもらえて嬉しいんですが、どうしても癖でして……でもありがとうございます。私みたいな厄介者に、いつも丁寧に接してくださって」


「いえそんなこと。自分からしたら五百旗頭いおきべさんは、人生の大先輩なんですから」


「はっはっはっ。かなりくたびれてますけどね」


「それで、どうかされましたか。何かトラブルでも」


「いえいえ、そんなんじゃないんです。ただ、昨日副長の婚約のお話を聞いて、直接お伝えしたかったんです。副長、本当におめでとうございます」


 五百旗頭いおきべがにこやかに頭を下げる。信也は慌てて煙草を消した。


「あ、ありがとうございます」


「それにお相手があの三島さん、本当によかったですね」


「は、はい。お恥ずかしい限りで」


「三島さんも私と同期になりますが、ここでは2年先輩です。何も分からない私に、いつも親切にしてくださってます。あの人と副長なら、きっと幸せな家庭を作れると思いますよ」


「……恐縮です」


「それで副長、何を見てたんですか」


「ああ、これは壁紙の貼り方を調べてまして」


「壁紙……ですか」


「ええ。近々引っ越しする予定なんですが、そこが少し古い家でして。だからせめて、壁紙だけでも貼り直せないかと思って」


「なるほど、そうだったんですね」


 そう言って五百旗頭いおきべがにこやかに笑う。

 そして信也と一緒に煙草に火をつけ、一息吐くと言った。


「……ご迷惑でなかったら、なんですが……よければその仕事、手伝わせてもらえませんか」


五百旗頭いおきべさんにですか? いやいやそんな、悪いですよ」


「いえ本当、ご迷惑ならいいんです。ただもし問題ないなら、お二人のお祝いにと思いまして」


「ひょっとして五百旗頭いおきべさん、こういうのにお詳しいんですか」


「詳しいと言いますか、実家が工務店なんです」


「そうなんですか」


「ええ。それで私も学生時代に手伝っていたんです。父は店を継がそうと思ってたみたいなんですが、私はそっちより家電の方が好きだったので」


「なるほど」


「ですから少しはお力になれると思うんです。どうでしょう」


「いいんでしょうか」


「勿論です。副長にも三島さんにも、ずっとお世話になってますし」


「ありがとうございます。一度三島さんに相談してみます」


 そう言って、信也が深々と頭を下げた。





 帰りのバスでも、相変わらず二人は注目の的だった。


「ねえねえ信也くん」


 早希が信也のズボンを引っ張る。


「何かな、三島さん」


「もぉー、なんでそう呼ぶかな。もう仕事は終わったんだよ」


「いや、バスを降りるまでは仕事中。これ、俺のルールだから」


「はいはい分かりましたよ副長。これでいい?」


 早希の反応に、乗客の一人が吹き出した。


「絶対、尻に敷かれてると思われてるな」


「あら。副長って、もしかして亭主関白派?」


 その問いに、さらに視線が注がれる。


「そんなのどうでもいいよ。ケースバイケース、適材適所。男も女も関係ない」


「それじゃ駄目だろ」


 どこからか突っ込む声が聞こえた。それに反応し、くすくすと笑い声も聞こえる。


「はぁっ……」


 信也がため息をつくと、早希がもう一度スボンを引っ張った。


「注目されるのって、苦手?」


「俺はいない者歴長いからな。ある意味真逆の環境で生きてきたんだ。改めて考えたら、前の方がよかったかも」


「またそんなこと言って、なんでそう卑屈になるかな。人生でこんなに注目されること、あんまりないんだから。満喫しようよ」


「遠慮しとくよ」


「そんなんだったら、知美さんに相談するよ」


「いや、それは勘弁。マジで勘弁」


 バスを降り、一緒にJRに乗り込むと、信也が大きく伸びをした。


「これが続くと思ったら本当、肩が凝るよ」


「後で揉んであげよっか」


「いいよ、悪いし」


「私、おばあちゃんの肩いっつも揉んでたから。結構うまいよ」


「そうか、おばあちゃんと一緒だったな。なら一度、お願いしてみようか」


「いいともいいとも」


「終わったら俺もしてやるよ」


「本当? お返しマッサージは初めてだな」


「俺もうまくはないけど、母ちゃんや姉ちゃんで鍛えられてるからな」


「そうなんだ。ふふっ、楽しみ。それで信也くん、さっき聞こうとしてたんだけど」


「ああ、そうだった。何かあったのか」


「今日の昼、何してたの?」


「昼?」


「うん、外で五百旗頭いおきべさんと話してたでしょ」


「ああ、珍しく五百旗頭いおきべさんから話しかけてくれて」


「声かけようか迷ったんだけど、邪魔しちゃ悪いって思って」


「なんだ、来ればよかったのに。早希にも聞きたかったから」


「そうなの?」


「うん。五百旗頭いおきべさん、リフォーム手伝うって言ってくれたんだ」


五百旗頭いおきべさんが? でも、どうして」


「実家が工務店してるんだって。五百旗頭いおきべさんも若い頃、手伝ってたらしいんだ」


「そうなんだ。でも、なんか悪いよね」


「俺と早希にはお世話になってるから、結婚祝いにって」


「えー、信也くんはともかく、私は何もしてないよ」


「俺だってそうだよ。でもそう言ってもらえて嬉しかった。だから早希さえよければ俺、五百旗頭いおきべさんにお願いしたいんだ」


「信也くんの日頃の行いのおかげだね。なんか私も嬉しい」


「じゃあ頼んでいいかな」


「うん。私もその日、お弁当作って手伝いに行くね」


「なんかいいな、こういうの。早希がいつも言ってることみたいだ。昨日より今日、今日より明日が楽しみだ」


 そう言って笑う信也を見て、早希は思った。





 信也くん。

 今、信也くんはすごいことを言ったんだよ。

 あなたはこれまで、明日のことなんて考えたこともなかった。

 人を信じれば裏切られる、だから誰も信じない。

 そう言って人との繋がりも拒絶していた。

 たくさんの楽しみから目を背け、ただ時間が流れるのを受け入れていた。

 それは自分でも気付かない内に、生きることを否定してたってことなんだよ。

 そんな信也くんが今、明日が楽しみだって言った。

 それがどれだけすごいことなのか、分かる?

 私がどれだけ嬉しいか、分かる?

 私は信也くんといつまでも、こうしてずっと一緒にいたい。

 一緒に笑って、泣いて。怒って、喜んで。

 信也くんと一緒に時間を紡いでいきたい。

 だから信也くん、私は今、本当に幸せなんだよ。





 早希は信也に腕を絡ませ、幸せそうに笑った。

 どうかこの幸せが、ずっとずっと続きますように。

 そう願いながら。



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