第26話 早希と秋葉


「また黒歴史、追加だな」


「可愛かったよ」


「いや、嬉しくないし」


「男も泣いていい時代なんだよ」


「よく分からん」


「それでね、信也くん」


「まだ何かあるのか」


「うん。実は、ね……検査以外にもうひとつ、やっておかないといけないことがあるって思ってたんだ。信也くんに内緒にしてたから、すごく罪悪感があったんだけど」


「何してきたんだ?」


「秋葉さんに会ってきた」


「え……」


 意外な人物の名前に、信也が驚いた。


「なんで早希が、秋葉のことを……」


「知美さんから聞いたんだ。信也くんには幼馴染がいるって」


「姉ちゃんか。また余計なことを」


「でもね、私は聞けてよかったよ。知らなかったら信也くんのこと、今より好きになってなかったから」


「……」


「信也くんにとって秋葉さんは、すごく大きな存在。信也くんは否定するかもしれないけど、きっと初恋の人だったんだと思う」


「否定はしないよ。今更強がっても仕方ない」


「お父さんのことやいじめのこと。信也くんにとってどれも辛いことだったと思う。でも秋葉さんのことがあったから、信也くんは今、人を好きになるのを躊躇ためらってるんだと思った」


「だから会いに行ったのか」


「ごめんね」


「いいよ、謝らなくても。で、いつ会ったんだ?」


「先週の日曜」


「だからあの日、用事があるとか言って昼に帰ったんだ」


「うん。知美さんと連絡取り合ってね、あの日会わせてもらったんだ」





「初めまして。三島早希と言います」


「澤口……秋葉です……」


 JR摂津富田駅を出てすぐの喫茶店で、二人は向かい合っていた。


 信也の幼馴染で初恋の人。秋葉は思っていたイメージと少し違っていた。

 かつて信也が集団無視をされていた時、たった一人でそれに立ち向かい、彼の味方をしていたと聞いている。

 強い意志を持った人、そう思っていた。

 しかし目の前でうつむき、囁くような声で話す秋葉は、今にも壊れそうな、そんなか細い女性に見えた。


「突然お呼び出ししてすいませんでした。あの……秋葉さんってお呼びしてもいいですか?」


「は、はい……」


「私のことも、早希でお願いします」


「分かりました……」


 秋葉が両手でグラスを持ち、小さな口でストローをくわえる。

 その仕草だけで、世の男は心を射抜かれてしまうんじゃないかと思った。


 沈黙が続いた。

 秋葉はうつむいたまま、微動だにしない。

 早希もまた、どう話を切り出すべきか悩んでいた。

 ドアが開き、客が入ってきた。そのタイミングで、早希が口を開いた。


「私、信也くんのことが好きなんです」


「……」


 ストローでグラスの中をかきまぜながら、秋葉が小さくうなずいた。


「出会いは職場です。私は信也くんの部下として、毎日信也くんを見てきました。信也くん、いつも周囲に気を使ってます。みんなが何に困ってるか、どんなことで悩んでるか。体調はどうだろう、そんなことばかり考えてます」


「信也、らしいね……」


「そんな信也くんを見ている内に、気が付けば信也くんのことばかり考えるようになってました。信也くんは今、何をしてるんだろう。信也くん、明日は遅刻しないで来れるかなって」


「ふふっ」


「信也くん、まだ寝坊する癖、治ってませんよ」


「だと思う。昔から朝に弱いから……受験の前日も、寝坊するのが怖いから今日寝ないって言ってて……明け方にダウンしちゃって、迎えに行ったらぐうぐう寝てて」


「寝顔、可愛かったですか」


「うん」


 二人が一緒に笑った。


「信也くんのことが好きです。でも信也くん、人を好きになるのが嫌だ、怖いんだ、そう言って受け入れてくれません」


「……」


 秋葉の口元から笑みが消えた。

 だが、グラスを見つめる瞳は優しく、そんな信也を愛おしく思っているように感じられた。


「知美さんから信也くんのこと、色々聞けました。その時初めて、秋葉さんのことを知ったんです。そして私、思ったんです。信也くんにとって秋葉さんは、初恋の人だったんだって」


「私も知美ちゃんから聞いたんだ。早希ちゃんって子に会ったって。信也、初めて秋葉以外の女に興味を持ったみたいだって」


「秋葉さんは信也くんのこと、どう思ってるんですか」


「……その質問、私に答える資格はないよ。だって私は、信也を裏切った」


「その話、知美さんから聞きました。でもその時私、思ったんです。秋葉さん、何か隠してるって」


「もう、昔のことだよ」


「でもそのことで、信也くんも秋葉さんも苦しんでる。私は信也くんに、もっと人生を楽しんでほしい。秋葉さんにも」


「優しいね、早希さん」


「そんなこと。私は信也くんが好き、それだけなんです」


「……」


 秋葉の優しい視線が、早希に注がれる。


「早希さん。信也のこと、好きになってくれてありがとう」


「……」


「私の初恋は、あの時私が終わらせてしまったから。だから私が信也のことをどう思ってるか、それは早希さんが悩まなくてもいいと思う」


「でも」


「私も早希さんと一緒。信也に幸せになってほしい」


「……今日ここに来ること、ほんとはすごく怖かったんです。もし秋葉さんが、私が思ってる以上にいい人だったらどうしよう。信也くんのこと、私以上に想っていたらどうしようって」


 早希は今、秋葉の強さを感じていた。

 その見た目とは裏腹に、信也の幸せを願う強い意志を。


「多分私、秋葉さんと戦ったら負けると思う。私がどれだけ信也くんを好きになっても」


「そんなことないよ。早希さんは信也のこと、すごく大切に思ってる」


「でも秋葉さん、信也くんの為に身を引こうとしてる。そんな強さ、私にはありません。

 信也くんを守りたい、幸せにしたい。でも本当はそうじゃない。私が信也くんに愛されたいんです……私は綺麗ごとを並べてるだけ。そんな嫌な自分、信也くんに知られるのが怖い……」


「恋ってそういうものだと思う。私もそうだったよ、信也といた時は」


「よく……分かりません」


「早希さんにとっても、信也が初恋なんだね」


「……そうなのかな」


「恋って面白いね。知らなかった感情が、いっぱい溢れて」


「はい」


「だから大丈夫。早希さんなら大丈夫」


「秋葉さん……」


「早希さん。私が言うのもおかしいけど、信也のこと、よろしくお願いします」


 そう言って、秋葉が頭を下げた。


「信也、今までいっぱい悩んできた。苦しんできた。だからもういいよ、幸せになっていいんだよって……言ってくれないかな」


「秋葉さん……ありがとうございます。今の言葉、必ず信也くんに伝えます」





「そんな話を」


「勝手なことしてごめんね」


「それはいいって。でも早希、秋葉のやつすごかっただろ」


「え?」


「あの見た目にみんな騙されるけど、あいつああ見えて無茶苦茶頑固だし、怒らせると怖いんだぞ」


「私もちょっと感じた。あの人と喧嘩しても、勝てる気がしないって」


「だろ? 実は姉ちゃんも、秋葉には頭が上がらないんだ」


「知美さんも?」


「俺たちをかき回してるように見えるけど、秋葉にしっかり手綱、握られてるんだ」


「なんか私、寒気がしてきたかも」


「ははっ。でもずっと俺を守ってくれたし、俺ももう気にしてないよ」


「ほんとに?」


「ああ」


「ほんとのほんと?」


「ああ。だって俺も、あいつに会ってきたから」


「え?」


「俺らって面白いよな。同じこと考えてたんだから」


「どういうこと?」


「早希が会っていたとは思わなかったけど、俺も答えを出す前に、秋葉と会っておかないといけないって思ってた。だから昨日、会ってきた」


「昨日?」


「仕事帰りにな。秋葉のやつ、早希と会ったなんて一言も言ってなかったよ」


「そうなんだ」


「姉ちゃんに頼んでおいて、実家に来てもらったんだ」


「知美さん、大活躍だね」


「だな。次会うのが怖いよ」



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