第25話 七夕の夜に
一か月が過ぎた。
早希は休みになると、信也の家に押しかけていた。
そして来るたびに、荷物が少しずつ増えていく。
気が付けば家のどこを見ても、早希の私物が目に入るようになっていた。
職場の後輩との、奇妙な関係。その状況に、信也も違和感を覚えていた。しかしいくら説得しても、早希は家にやってくる。そんなやり取りが続く中、いつの間にかそれを日常と受け入れるようになっていた。
それどころか夜になると、信也の方から「もう遅いし、泊まっていけば?」そう誘うようになっていた。
二人は付き合っている訳ではない。だが意識してない訳でもない。
現に早希は、信也へのアプローチを続けていた。
そして信也の気持ちもまた、早希に傾きつつあった。
7月7日土曜の夜。
信也の家の扉が開いた。
「ただいま」
いつの間にか早希は、家の合鍵を持っていた。
勿論、信也が渡したものだ。
「これって……」
「合鍵。これだけ自分の荷物もあるんだ、持っててもいいだろ」
「嬉しい。初めての……愛鍵」
「……なんか知らんが、頭の中に違う字が浮かんだ気がしたんだか……気のせいだよな」
「信也くんがくれた愛鍵。またひとつ、信也くんが幸せをくれました」
「おーい早希さーん、聞こえてますかー」
そう言いながら、信也は照れくさそうに笑った。
「おかえり。晩飯どうする? 食べに行くか?」
「今から作るよ。信也くん、ハンバーグは好き?」
「好きだけど、買ってきたのか」
「作るんだよ。手伝ってくれる?」
「作り方なんて知らないけど……まあいいか、手伝いぐらいなら出来るだろ」
「ふふっ」
「ん?」
「ごめんなさい。信也くんが手伝ってくれるのが、出会った頃からは考えられなくて」
「いつの間にか、早希さんの術中に陥ってしまいましたな」
「でも嬉しい。信也くん、笑顔が増えてきたから」
「いやいや、元々こんな感じだったろ」
「自然な笑顔になったって言うのかな。とにかく今の信也くん、最高にいい男です」
「よく分からんが、それもこれも、早希さんのおかげだな」
ハンバーグをどうやって作るのかなんて、考えたこともなかった。中に何が入っているのか、そんなことを考えることなく、
だから早希が玉ねぎを刻みだした時、かなり驚いた。
「早希、ハンバーグ……だよな?」
「そうだよ。そろそろフライパン、温めてくれる?」
「分かった……じゃなくて。なんでハンバーグに玉ねぎなんだ? 早希のオリジナルか?」
「え? ちょっと待って。信也くん、本気で言ってる?」
「俺はいつでも本気だぞ」
「もしかして知らないの? ハンバーグに玉ねぎは必須だよ」
「ええっ、そうなのか?」
「信也くんってば、気付かずに食べてたんだ」
「そう……だったのか……」
玉ねぎを炒めてボウルに移し、合い挽き肉、牛乳、パン粉を入れ、手でこねていく。
ほどよくなったところで、信也にバトンタッチ。
ハンバーグを左右の手に移しながら、空気を抜いていく。
「これは見たことがある」
信也が器用に、パンパンと投げては受ける。
そしてフライパンで焼いてるうちに、早希は味噌汁とサラダを作った。
「いただきまーす」
自分で作ったハンバーグ。
信也は子供の様に嬉しそうな顔で、ハンバーグを口に入れた。
「……!」
作る工程を見ていたからか、確かに口の中に、玉ねぎの味が広がった。
「うまいっ!」
信也の様子に、早希も満足そうに微笑む。
ついこの前まで、考えたこともなかった温もり。団欒。
信也の中に、ひとつの答えが出つつあった。
風呂からあがると、早希は空を眺めていた。
「星、見える?」
今日は七夕。
とは言え、この辺りでは天の川はおろか、一等星ですら満足に見えない。
「さっきから見てるんだけど、見つからないね」
「だよな。この辺りって笑えるぐらい星、見えないから」
「本当はそこにあるのにね」
「え?」
「見えないけれど、星が消えた訳じゃない。ここからは見えないだけ」
「そりゃそうなんだけど」
「別の場所にいけば見える星もあって……そう考えると、面白くないかな」
「だな……」
それが何を意味するのか、何となく分かった気がした。
缶ビールを二つ持ってくると、枕元にトレイと灰皿を置き、ビールを早希に手渡した。
「今週もお疲れ様でした」
早希がそう言ってビールを口にする。
「ん~、最高っ!」
「この瞬間の為に生きてるな」
「またそんな、おじさんみたいなこと言って」
「でも今日は、ハンバーグでもそう思ったよ」
「そう?」
「うん。食事でそんな風に感じるなんて、今までなかったんだけどな。なんか俺、最近おかしいよな」
「真っ当な人間になってきてるんだと思うよ」
「さっきの星と同じ?」
「え?」
「そういうことだろ、さっき言ってたのって」
「……信也くんって本当、頭の回転速いよね」
「そうか?」
「そうだよ。人が何を思い、何をしようとしてるのか、何を望んでるのか。そんなことをずっと考えてる」
「気にしたことはないけどな」
「自分のことは適当なのにね」
「……」
「そうよ、信也くんが感じた通り。場所を変えれば見える星もある。幸せも一緒ってこと」
「やっぱそうか」
「何か、こっちが恥ずかしくなってくるじゃない。それだけ察しがいいと」
「ごめんごめん。でも俺、その後の言葉、早希から聞きたいんだ」
「意地悪」
「頼むよ」
「んっとね……だからこういうこと。信也くんは今まで、幸せから目を背けて生きてきた。ちょっと視点を変えたらたくさんの幸せがあるのに、それを見ないように生きてきた」
「……」
「信也くんの周りには、いっぱい幸せがあるんだよ。ハンバーグを食べてた時の信也くん、本当に幸せそうだった。ハンバーグひとつでだよ?
ハンバーグが何で出来てるのかも知らない、どうやって作るのかも知らない。勿論、知らなくても生きていける。でも知っていたら、知らなかった時より感じるものが多い。そう思わない?」
「思った」
「人との関わりもそう。信也くんの言う通り、深く関わらなければ苦しまない。でもそこから目を背けてたら、その先にある喜びには辿り着けない」
「うん……」
早希の言葉に、嬉しそうにうなずく。
「友達だって恋人だって、喧嘩もするから仲良くなれる。苦しいことや煩わしいこともいっぱいある。でもだからこそ、分かり合えた時に嬉しくなる」
「早希」
信也が早希の手を握った。
「え? え? 信也くん?」
「早希の言う通りだと思う。俺は色々と理由をつけて、逃げてるだけなんだ。怖いから。そしてそれでいいと思ってた。
でも早希と出会って、早希と触れ合って。このままでいいのかって考えるようになった」
「……」
「いつの間にか俺の日常に、早希がいることが当たり前になっていた。正直最初は迷惑に思ってたけど、早希は諦めないで見守ってくれた」
「だって私、信也くんのことが」
早希の言葉を信也が止めた。
「俺な、みっともない姿、いっぱい見せてきた。だらしない姿、見せてきた」
「私にとってはご褒美だけどね」
「早希の想いにどう答えるべきか。ずっと考えてた」
「信也くん。考え過ぎちゃいけないこともあるんだよ」
「親父の時、そう言ってくれる人がいたらよかったのにな」
「今からでも大丈夫。やり直しは何回でも出来るんだから。遅すぎるなんてこと、絶対にないから」
「……やっぱ、早希ってすごいな」
「ふふっ、褒めても何も出ないよ」
「それでな、早希……俺もそろそろ、答えを出さないといけないって思ってた」
「うん……」
「早希は俺の前から、いなくなったりしないか?」
「……」
「男のくせに、情けないことを言ってるのは分かってる。でもごめん、答えてもらわないと俺、前に進めないんだ。
この問いに意味がないのは分かってる。早希が大丈夫だと言ってくれても、それには何の保証もない。俺が信じるかどうか、それだけだから。でも今、その言葉が欲しいんだ」
「信也くん」
早希がかばんを取り、中から封筒を出した。
「今の信也くんの質問って、カイちゃんのことも含まれてるよね」
「……」
「前に信也くん、言ったよね。俺より先に死ぬのも裏切りだって。結果として、俺の前からいなくなるんだからって」
「……言った」
「はい、これ」
封筒を受け取り、中から一枚の紙を取り出す。
それは総合病院の検査結果だった。
「これって」
「信也くんの不安、少しでも軽く出来たら。そう思ってね、検査に行ってきました。人間ドックってやつ」
「早希、お前」
用紙を見ると、全ての項目にA判定がついていた。
「私はいなくなったりしないよ」
早希が優しく微笑む。
信也の視界が、涙でぼやけてきた。
「信也くん。私はどんなことがあっても、信也くんの傍にいる。信也くんのことを愛し続ける。その為に生まれてきた、そう思ってるから」
涙がこぼれない様に、天井を見上げる。
その信也を、早希が抱き締めた。
早希の香りが信也を包み込む。
温かい体温が伝わってくる。
早希の胸に顔をうずめ。信也は子供の様に泣いた。
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