第20話 幸せな朝、哀しい過去


 今思い返すと、ありえないことの連続だった。


 まず、なんで早希が泊まることをオッケーした? 気持ちに答えられないって言ってるのに、なんで泊まらせた?

 なんで早希が風呂に入ってる? おかしいだろ!

 そしてなんで、早希と一緒の布団で寝てるんだ? 俺は何もしてないのか?


「早希、正直に答えてほしい」


 早希の肩をつかみ、無理矢理引きはがす。


「昨日、何もなかったよな?」


「何って?」


「だからその……あれだ、大人の関係」


「信也くん、覚えてないの?」


「何を……」


「ひどい……私、あんなに嬉しかったのに……信也くん、何も覚えてないんだ」


「ま、ま、待ってくれ、ちょっと待ってくれ。それって何か、俺が早希と、その……」


「ひどいっ!」


 早希が布団から出ると、信也から離れて背を向けた。


「初めてだったのに……こんな……ひどい……」


「さ、早希……」


 信也が布団の上に正座し、早希の背中を見つめる。

 肩が震えていた。


「ごめん、早希……確かにひどいよな、これ……でもごめん、俺、本当に何も覚えてなくて」


 その瞬間、早希がぷっと吹き出し、声をあげて笑い出した。


「……え?」


「あはははっ……安心して、何もなかったよ」


「え」


「だから何もなかったって。昨日はあのまま、二人ともすぐ寝ちゃったから」


「えええええっ?」


「ふふっ、ごめんごめん。でも今の信也くん、すっごく可愛かったよ。信也くんって、焦ったらあんな声で叫ぶんだね。会社とは全然違う。それにあの慌て方……ぷっ、あはははははっ」


 早希がお腹に手を当てて笑う。それを信也は、死んだ魚の目で見つめた。


「でも嬉しい。また新しい発見、出来たから」


 笑顔を向けた早希に、信也はまた赤面した。

 少し乱れた寝間着姿の早希は、昨夜とはまた違った愛おしさを感じさせた。


「おはよう、信也くん」


「お、おはよう、早希」


「今日の私は、昨日よりも信也くんのことが好きです」


 その言葉に動揺し、信也が慌てて目をそらす。


「あーっ」


「な、なんだどうした」


「信也くん、頭爆発してるー」


「いつものことだよ。てか、毎日見てるだろ」


「出来立ての寝癖は初めてだから。新鮮で」


 そう言って信也に近付き、髪を撫でる。


「信也くんの朝って、こんな風なんだね。知れて嬉しい」


「早希も寝癖、ついてるぞ」


「え? どこどこ」


「この辺りとか」


 そう言って早希の頭に手をやり、優しく撫でる。

 すると早希は目をつむり、嬉しそうに微笑んだ。


「なんか幸せだな、こういうの」


「寝癖の見せ合い?」


「それも含めて全部」


「てか、今って何時なんだ」


「まだ8時だよ」


「え? 俺、目覚ましなしでこんな早く起きるの、初めてかも」


「これからどうする?」


「寝る」


 そう言ってまた、布団に潜り込んだ。


「休日の二度寝ほど、贅沢な物はないからな」


「えー、せっかくの日曜なのにー」


「それに雨が降ってる」


「あ、本当だ……困ったな。私今日、傘持ってきてないよ」


「帰りも降ってたら貸してやるよ。雨だし、今日の俺は布団の染みになる」


「じゃあ私も」


 そう言って布団に潜り込んできた。


「だから、自分の布団で寝ろよ」


「だって私の布団、冷たいんだもん」


「何が『もん』だ。かわい子ぶっても駄目だ、向こうに行け」


「絶対に嫌。どうしてもって言うなら、寝かさないから」


「なんだよそれ、意味分かんねーぞ」


 問答を繰り返しながら、そのまま二人は同じ布団で昼まで過ごした。





 着替えを済ませた二人は、かなり遅めの朝食をとっていた。

 早希がトーストにバターを塗り、信也に渡す。

 バターを塗るのも久し振りだ。と言うか、トースト自体久し振りだ。トースターもなかったし、いつもそのまま食べていた。そう思いテーブルに目をやる。

 オムレツにサラダ、淹れたてのコーヒー。どれもこの家で初めて見るものだ。

 オムレツを口にすると、早希が「どうかな?」と心配そうに聞いてきた。

 そのやり取りだけで、心臓がどうにかなりそうだった。


 食べながら信也は、夢のことを思い出していた。

 秋葉との思い出。

 早希と一緒に朝を迎えた日に、どうして秋葉の夢を見たのか。

 早希の温もり、早希の匂い、早希の感触。それが秋葉を思い出させたのか。

 色々と思考を巡らせていた信也だったが、しかし実は、何となくその意味を理解していた。


 俺にとって、秋葉は特別な存在だった。

 誰よりも一緒に笑い、一緒に泣いた。

 俺の人生は、大半が秋葉との思い出で出来ていた。

 そして俺は多分、秋葉のことが好きだった。一人の女として。


 今目の前にいるこの人は、俺のことを好きだと言ってくれた。

 そして俺の心も、確実にこの人に向いている。

 でも。

 もしこの人との未来を決断するのであれば、その前に乗り越えなければいけないことがある。

 それがきっと、秋葉なんだ。


 そう思い。

 秋葉が去っていったあの日が脳裏に蘇り。

 気が付くと信也は動きを止め、ぼんやりとテーブルを見つめていた。


「信也くん? どうかした?」


 早希の言葉に、「いや、別に」と答えたが、明らかに生返事だった。


「……信也くん?」


 早希の手が信也の頬に触れた。

 その時、信也の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「え……」


 テーブルに落ちた涙に、信也自身驚く。


「あ……いや、大丈夫……大丈夫……だから……」


 信也が笑顔を取り繕う。

 早希は信也の元に向かい、優しく抱き締めた。


「大丈夫だよ……私はずっと、信也くんの傍にいるよ」


 早希の言葉に、信也の感情が大きく揺れた。


「ごめん……ごめん、早希……」


「何か思い出しちゃったんだね。それってきっと、辛い思い出なんだよね……ごめんね」


「なんで……なんで早希が謝るんだよ……」


 信也が肩を震わせる。

 涙はもう、止まらなかった。



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