第19話 朝のぬくもり


「これ、どう……かな……」


 秋葉がそう言って、黒縁眼鏡を信也に渡した。


「多分だけど……信也に似合うと思う」


「秋葉。俺に似合うのなんか、あると思うか?」


「あ、あるよ。多分……」


「多分ってなんだよ多分って。そこはフォローしろよ」


「ふふっ」


「どうだ?」


 眼鏡をかけて秋葉の方を向く。


「うん。やっぱり似合ってる」


 秋葉が嬉しそうに笑った。





 高校2年の冬。

 クラスメイトたちが、信也をいない者扱いしだした頃のことだった。

 その日の体育は剣道だった。

 眼鏡をしている生徒は皆、外して面をつける。

 そして授業が終わり、眼鏡を取りに戻ったのだが、信也の眼鏡だけそこになかった。


「……」


 視力が0.1を下回る信也にとって、眼鏡は必須だった。

 更衣室を何度も何度も探した。

 しかしただでさえ見えない状態で、持ち去られたであろう眼鏡を探し出すのは容易ではなかった。

 仕方なく教室に戻ると、秋葉が近付いてきた。


「信也、眼鏡は」


「やられた。隠されたのか捨てられたのか知らんが、これじゃ何も出来ん」


 ふてくされる信也に、秋葉は「ちょっと待ってて」と教室から出て行った。

 残された信也がヤケ気味に椅子に座る。

 その姿を見て笑う者、見ない者。気の毒そうに見ている者たちがいた。

 まだこの時期は、信也に対する態度も皆まちまちだった。


 しばらくして秋葉が、息を切らせながら帰ってきた。

 手には誰かによって踏まれたであろう、レンズの割れた眼鏡が持たれていた。


「あったよ」


 秋葉が眼鏡を差し出す。それを見て、信也が「くそっ」と悪態をついた。


「秋葉、それどうした」


「え?」


「汚れてるぞ」


「あ、本当だ」


「何してたんだ」


「あの、ね……こんな時ってよく、みんな焼却炉に捨てるって聞いたことがあるの。だから行ってみたんだけど……取ろうとした時、汚しちゃったみたい」


「火傷してないか」


「うん。まだ火はついてなかったから」


「……そっか。悪かったな」


「いいよ、そんな」


 信也は眼鏡を受け取ると立ち上がり、かばんを手に廊下に向かった。


「どこ行くの」


「帰る」


「帰るって、まだ3時間目だよ」


「どうせ何も見えないからな。早退して眼鏡、買いに行く」


「待って」


 秋葉も慌てて信也の後を追った。


「私も行く」


「いやいや、秋葉はいてろよ」


「私も付き合う」


 滅多に自分の意見を言わない秋葉だが、一度言い出すと聞かないことは分かっている。信也は諦めた顔で、


「教師に言いにいくか……」


 そう言って職員室に向かった。





「おおっ、よく見える」


 仕上がった眼鏡をかけ、信也が笑顔を向けた。


「似合ってるよ」


「ありがとな、秋葉」


 そう言って秋葉の頭を撫でる。

 秋葉は頬を染めてうつむき、嬉しそうに微笑んだ。


「信也、これからどうするの?」


「ん~、せっかく早退したんだし、遊びにでも行くか」


「不良」


「いやいや、その黒歴史はなしで。今は真っ当な高校生だから」


「真っ当な高校生なら、学校に戻ると思う」


「流石にそれはないだろ。じゃあ今から家に来るか? 姉ちゃん、家にいるし」


「知美ちゃん、来てるの?」


「来年結婚だからな、色々やることもあるらしい。夜には裕司さんも来るらしいぞ」


「行く行く! 知美ちゃんに会いたい!」


「試着したウエディングドレスの写真もあるらしいから、一緒に笑ってやろう」


「もぉー、なんでそんなこと言うかな」


「はははっ、じゃあ行くか」


「うん!」





「……」


 目を開けると、見慣れた天井があった。


「……古い記憶、出してきやがって。何がしたいんだ、俺の脳味噌は」


 そして違和感に気づいた。

 夢の中、秋葉と並んで歩いていた時に感じた、甘い香りがすぐ傍にある。


「……」


 目の前に早希の寝顔があった。


「ぬおっ!」


「ん……なに、信也くん……もう朝……?」


「いやいやいやいや、朝? じゃなくて! なんで早希が、俺の布団で寝てるんだ!」


「信也くん覚えてないの? 昨日のこと」


「……」


 信也の頭が、これまでにない速さで回転する。

 昨日の夜?

 徐々に蘇ってくる昨夜の記憶。

 そして突然赤面し、そのまま布団をかぶって悶えだした。


「うおおおおおおおっ! うおおおおおおおっ!」


「え……え? ちょっと信也くん、どうしたのよ」


「殺してくれ! いますぐ俺を殺してくれ!」


「え? 嫌だけど。返事ももらってないのに、死なれたら困る」


「そんな冷静に突っ込まないでくれ! 早希! 頼みがある!」


「頼み?」


「昨夜のこと、忘れてくれ! 俺が言ったこと全部!」


「嫌だけど」


「があああああああっ! 黒歴史が、黒歴史があああっ!」


「昨日の信也くん、可愛かったよ。それに初めて、私のことを好きって言ってくれたし」


「どおおおおおおおっ!」


「忘れるなんてとんでもない。私の心のアルバムに、全部残しておきます」


「はあ……はあ……」


「落ち着いた?」


「……いや、諦めた」


「おはよう信也くん!」


 早希が抱きついてきた。


「ちょ……早希、早希」


「初めて信也くんと朝を迎えられました。私の夢、またひとつ叶いました」


 信也の言葉を無視し、早希が信也を抱き締める。


「信也くんの匂い……幸せだな、私」


 昨夜の俺はどうかしていた。出来るものなら昨夜に戻って、饒舌に喋る自分を殴り飛ばしたい。信也が心からそう思った。

 あれが噂に聞く、夜の魔力と言う物なのか。

 そう思い、信也が頭を抱えた。



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