第10話 やっぱり私、信也くんが好き


「嘘―っ !」


 風呂場を探索していた早希が、叫びながら戻ってきた。


「だから早希……早希さん? いくら何もないからって、そこまで物色する? てか、フリーダムすぎない?」


「そんなことより信也くん、何あのお風呂」


「ばっちいだろ」


「そうじゃなくて」


「何かあった?」


「何もないから言ってるの! 流石にお風呂はって思ってたのに」


「何?」


「信也くん、シャンプーは?」


「ないけど」


 さも当然という顔で、信也が答える。


「まさかと思うけど信也くん、髪は何で洗ってるの」


「だから石鹸。頭も顔も体も、全部石鹸」


「これはちょっと……びっくりだわ」


「そう? 男なんてこんなもんだろ」


「そんなことないって。信也くん、髪はシャンプー使おうよ」


「ん~」


「それにリンスも。それだけで全然違うから」


「そうなのかな。分かった、今度買っとくよ」


「やっぱりそこは、こだわりって訳じゃないんだ」


「まあね。でもまあ、早希がそこまで言うんだから、一度試してみるよ」





 探索を終えた早希がテーブルの前に座り、信也の顔を覗き込む。

 信也はテーブルに灰皿を置くと、早希に断り煙草に火をつけた。


「信也くんが一番こだわってるのって、煙草なのかもしれないね」


「ああごめん、やっぱ煙きつい?」


「そういう意味じゃないよ。自分の部屋なんだし、堂々と吸ってください」


「恐縮です」


 そう言って二人、顔を見合わせ笑った。


 会話が途切れ、二人の間に沈黙が続く。

 耳に入るのは、堤防沿いを走る車と風の音だけ。

 しかしその沈黙は、二人にとって居心地の悪いものではなかった。

 穏やかで、心地良いひと時。

 互いの顔を見つめあい、視線は動かなかった。


「信也くん……」


 早希の口元がわずかに動いた。


「やっぱり私、信也くんが好き」


 憂いに満ちた大きな瞳に、胸が締め付けられる。

 こんな感覚、遠い昔に捨てたはずなのに。そう思った。


「信也くんは、どうして付き合うのが嫌なの?」


「……」


「今日は私の、23回目の誕生日。プレゼントだと思って、教えてくれませんか。

 私、ずっと信也くんを見てました。会社での信也くんは本当に優しくて、頼りがいがあって格好よくて。寝ぐせが立ってるのも好き。気を抜くと死んだ魚の目みたいになるけど、他人に対してはいつも真剣で」


「褒められるのに慣れてないから、その辺にしてくれるとありがたい。あと、さらりと嫌味を挟むのもやめてもらえると」


「魚の目の信也くんも好き。でも、どこか遠くに行ってしまいそうで少し怖い時もあって……今度から、そう感じたら手、握ってもいいですか」


「いやいや、勘弁してくれ」


「私は信也くんのこと、そういう風に思ってました。この気持ち、ずっと胸の中で育ててきました。

 なのに信也くん、女と付き合うつもりはないって。タイプじゃないって言うならまだしも、そんな理由じゃ私、引き下がれません。生まれて初めての告白、そんな簡単に諦められません」


「俺は」


 熱い視線に耐えられなくなり、信也が再び煙草に火をつける。


「俺は本当、早希が思ってるような男じゃない。そんな風に見てくれるのは、素直に嬉しいけど。

 でも俺は、誰とも付き合う気はないんだ」


「理由、聞かせてくれませんか」


「……」


「信也くん」


「……分かった、正直に言おう。俺は人を信じてないんだ」


「人を?」


「うん。俺は誰も信じていない」


「……どうして?」


「裏切られるのが怖いから。だから信用しない。シンプルだろ?」


「全然シンプルじゃない。と言うか、極端すぎるよ。人間って、そんな0か100かで割り切れるものじゃないでしょ」


「そう思える人はそれでいいと思う。でも、俺には無理なんだ」


「だから信也くん、生きることに喜びを求めてないんだ。そういうことか」


「どういうこと?」


「この家を見て、信也くんが楽しみから目を背けてることは分かった。便利なものがいっぱいあるのに、使おうともしない。楽しいものがたくさんあるのに、知ろうともしない。

 料理だって、工夫すればおいしく食べられるのに、この家には調味料もない。着る服で気持ちも変わるのに、興味を持とうともしない。

 信也くん。気付いたことがあるから聞きたいんだけど、信也くんはどうして石を集めてるの?」


「好きだから」


「じゃあどうして、石が好きなの?」


「それは……変化しないからだよ」


「やっぱり」


「何だよ、やっぱりって」


「思った通り。信也くん、人と深く付き合うことで、関係が変化するのを恐れてる。人の気持ちが変わることを恐れてる。

 確かに石は、よほどのことがない限り変わらない。まるで時間が止まってるみたいにね。でも人は違う。石じゃない。私も信也くんも、生きてるんだよ。今を」


「……」


 信也が難しい顔で煙草を揉み消す。


「……今日は楽しかったよ。名前で呼び合うことで、早希の新しい一面も見れたし」


「あー。信也くん、話をまとめようとしてるー」


「俺の話を聞いて、だいぶ幻滅したろ? 今まで通り仕事して、たまに軽口叩き合って。それでいいじゃないか。

 俺は早希の思うような男じゃないし、懐も深くない。情も薄い。早希の言う通り、人生に楽しみも求めていない。

 こんな俺で妥協なんかせず、もっといい男と付き合うべきだ。職場にもいるだろ?若いやつ。何なら紹介するよ」


「だからまとめないでくださいって」


「何日か経って冷静になったら、俺への気持ちなんてすぐ冷めるよ」


「信也くん……」


 早希が、信也の手に自分の手を重ねた。

 驚いて手を引っ込めようとしたが、早希は離さなかった。


「信也くん……多分私、信也くんが思ってる以上に信也くんのことが好き。今の信也くんの話を聞いても、全然想いが変わらない。それより今日一日、信也くんと過ごしたことで私、昨日よりもっと信也くんが好きになった」


「あ、あの……早希……」


 早希の温もりが伝わってくる。


「信也くん……」


 早希の顔が近付いてくる。ゆっくりまぶたが閉じられる。


「ひゃっ」


 信也が空いてる方の手で、早希の頭を軽く小突いた。


「この肉食女子め。一人暮らしの男の部屋、襲うのは俺の方だろ」


「もぉー」


 早希が頬を膨らませた。


「分かりました。じゃあ今日はこれで帰りますね。信也くんが手を出してくれたら、お泊まりもありって思ってたんだけど……今日は戦略的撤退とします」


「お泊まりって……お父さんとお母さん、泣くぞ……」


「……ははっ、そうですね」


 早希が軽く笑い、立ち上がった。


「じゃあ信也くん、今日は一日ありがとうございました。とっても楽しかったです」


「いや、結局何もしてあげられなくて悪かった。せっかくの誕生日だったのに」


「いえ、最高の誕生日でした。今までで二番目に」


「ならよかった。明日はゆっくり休んで、また月曜からよろしくな」


「信也くんは明日、どうしてるんですか」


「出かけるつもりだけど」


「お出かけ……どこにですか?」


「摂津峡」


「摂津峡って、高槻の?」


「うん。先週も行ったんだけど、雨が降ってきたんですぐ帰ったんだ。明日は天気もいいみたいだし、リベンジにね」


「そうですか……分かりました。じゃあ信也くん、おじゃましました」


「ああ。誕生日、おめでとう」


「ありがとうございます」


 そう言って笑顔を見せた早希が、信也の頬にキスをした。

 一瞬の出来事で、よける暇もなかった。

 しばらくして離れた早希は、うつむいたまま囁くように言った。


「信也くんの……こういう隙が多い所も好きなんです」


 そう言うと、早希は走っていった。

 呆然としていた信也だったが、ふと我に返ると、


「駅まで送ろうと思ってたけど……追っかけるのも悪いよな、多分……」


 そうつぶやき鍵をかけた。





 再び煙草に火をつけると、大きく煙を吸い込んだ。


「三島早希さん、か……」


 頬に手をやると、また胸が締め付けられた。

 だが信也にとってそれは、決して嫌な感覚ではなかった。

 そしてそう感じた時、彼の脳裏に秋葉の顔が浮かんだ。


「いや、駄目だ……駄目なんだ……」


 そうつぶやき、荒々しく煙草を揉み消した。



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