8. 理想の聖女

 孤児院の慰問で、帰り支度をしていたときのことだ。

 木製の扉を少し開くと、複数の男の声が聞こえてきた。慌ててドアの取っ手を内側に引こうとするが、聖女という単語に身を強ばらせる。


「だがなぁ。世の中に身も心も清らかな、まっさらな人間なんているのかね。聖女様だって素顔はオレらと同じかもしれないじゃないか」


 おそるおそる会話の主を見ると、若い男二人と中年の男が話し込んでいた。全員身なりがいいため、バザーの終わりに顔出しに来た貴族といったところか。だが世間話にしては少々声が大きすぎる。


「そうは言っても、彼女だって一人の女の子だ。嫌だなと思う相手だっているだろうよ。笑顔の裏で何を考えているかなんて、誰もわからない」

「一体、何を言っている? 聖女様は王国に光を照らす御方なのだぞ。我らを導く方がそんな考え方をなさるわけがないだろう。聖女様ほど人格的に優れた人はいない」


 間髪を容れずの返答に、クレアは心の中でため息をついた。

 実はこういった台詞を聞くのは一度や二度ではない。

 誰も彼も、無意識に自分の中の「理想の聖女」を押しつける。そして皆、それが間違っているとは露ほども思っていない。クレアだって同じ人間だというのに。

 宗教画に描かれる初代聖女の絵は、時に女神の慈悲を請い、時に戦火に巻き込まれた民の傷を癒やし、時に悩み苦しむ民の心に寄り添う。たとえ絵画越しであっても、慈しみにあふれた微笑みを見るたび、勇気づけられた者も少なくないだろう。

 理想の聖女像を求める気持ちもわからないまでもない。しかし、意図的ではなくても初代聖女と比べられることは、クレアという人間性を否定されているようで毎回心に影が落ちる。

 クレアは慈愛の女神でもなく、初代聖女でもなく、ただの人間だ。喜怒哀楽の感情だって当然ある。聖女のお勤めでは感情を表に出さないだけだ。


(感情的になる聖女は聖女ではない。つまりは、そういうことよね……)


 聖女になってから、誰も自分自身を見てくれない。

 クレアをただの少女として扱わない。求められている役割をこなさなければ、周囲の者たちにとってクレアが存在する意味はないに等しいのだろう。


(――聖女になんて、選ばれなければ)


 そう思っていたときだった。

 よく響く声が、沈みゆく思考に割って入ってくる。


「彼女は聖女である前に、君たちと同じ一人の人間だよ。神聖化するのもいいけれど、彼女の人権を踏みにじってはいけない」


 ジュリアンの声だ。

 王太子らしい言葉遣いに、彼は王族なのだと今さらながら実感する。

 物陰からそっと様子を窺う。視線の先には、やはり護衛騎士を連れた王太子がいた。威厳ある雰囲気に圧倒されたのはクレアだけではなかったようで、先ほどまで威勢のよかった青年は萎縮して縮こまっている。


「ジュリアン王太子殿下、あの……」


 とっさに弁解しようとした若い貴族が口を開けようとするが、ジュリアンは片手を軽く挙げて続く言葉を封じる。王太子の機嫌を損ねたことに気づいたのか、青年はすっかり青ざめている。


「彼女を聖女として尊重するのはいいよ。それに見合う立派な功績も残しているし。でも彼女は生まれたときから聖女だった? 違うよね。それまで普通の女の子として暮らしていた彼女が、完璧な聖女になるのは簡単なことかな。相当努力しなければできないと思うのだけど」

「そ……そうですね。わ、私の考えが軽率……でした」

「何でも聖女だからという先入観はよくないと思う。彼女を苦しめることになりかねないから。彼女は私たちと同じ人間で、感情だってある。ただ崇めるだけでは聖女は喜ばない。どうかそのことを覚えておいて」

「は、はい。殿下のお言葉、確と胸に刻みます……!」


 王族として恥じない高貴な振る舞いを目の当たりにして、格の違いを否応なく感じる。

 思えば、リアンとして下町で接していたときも、洗練された所作が目についた。本人は隠しているつもりだったようだが、明らかに貴族の教育を受けているとわかる育ちの良さが垣間見えた。

 本当は高貴な血筋の子息なのだろうと頭の片隅で気づきながらも、あの何気ない会話が楽しくて、身分差に気づかないふりをしてきた。彼がこうして自由に歩き回れるのも、子供である数年間かもしれない、と姉のような気持ちで見守っていたはずだった。

 けれど今はこうして自分を守ってくれる存在になっている。

 クレアが傷つかないように。


(彼はもう子供じゃない。この国の王太子で、わたしは聖女……。あのときとは何もかもが違う)


 王太子として接するジュリアンは紳士だ。

 対して自分はどうだったか。彼にふさわしい女性であろうと努力しているだろうか。

 思案に暮れていると、足音がこちらに近づいてくるのに遅れて気づく。ぱっと顔を上げた。


「クレア嬢、ちょうどよかった」

「お、王太子殿下。本日はお日柄もよく……」


 貴族の挨拶を返すために膝を落とそうとしたところで、ジュリアンが「ああ、いえ」と断りを入れる。


「公式な訪問ではないので、どうぞ楽にしてください。お仕事中に押しかけてすみません。実は豊穣の儀式の後、私たちの婚約披露パーティーを行うことになりました。今日はそのお知らせに来ました」

「……そ、そうですか」

「あと、あなたの顔を一目でも見たくて。すれ違いにならなくてよかったです」


 ふわりと花がほころぶような笑みを見てしまい、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気まずさが襲う。

 胸に手を当て、詰まりそうになった呼吸を落ち着ける。


「? どうかされましたか」

「い、いえ。……なんでもありません」


 彼にとって、これはただの挨拶代わりみたいなものだ。深い意味はない。

 そう頭でわかってはいるものの、一度高鳴った鼓動はすぐには元通りにならない。

 今までクレアを口説こうとする異性は現れなかったが、婚約者として過ごす以上、こういったやり取りは今後増えていくだろう。

 ジュリアンは常連客ではなく、婚約者になったのだ。

 毎回取り乱しては聖女の名折れだ。どうやって耐性をつければいいのかはわからないが、早急に手を打たなければいけないことは確かだった。

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