9. 婚約者のお披露目

 年に一度行われる豊穣の儀式は滞りなく終わった。

 神殿関係者の席から王族代表のジュリアンが聖杯を女神像に捧げるのを眺め、粛々と儀式をこなしていく姿を目で追っていたら、閉会の案内が聞こえてきた。

 慌てて立ち上がり、聖女の仮面を被り直す。

 歓声が聞こえて笑みを浮かべて民衆に手を振っていると、ふと視線を感じた。

 王族の席をちらりと見やると、ジュリアンと目が合う。遠目に見ることしかできない距離なのに、なぜか少し笑われたような気がした。


(……もしかして、最初から気づかれていた?)


 下町で気さくに話していたリアンならば、クレアの行動は容易に想像がつくに違いない。

 表面上はうまく取り繕えたはずだが、おそらく観察力に優れた彼の目は誤魔化せない。そう思うと、体がかっと熱くなった。

 だが今は民衆の前だ。聖女が感情を表に出してはならない。

 できるだけ自然な笑みになるよう意識し、その場をなんとか切り抜けた。


 ◆◆◆


「クレア嬢。お手をどうぞ」

「は……はい」

「では、参りましょうか」


 ジュリアンに頷き返し、正面ホールの扉が開くのを待つ。


(今夜は螺旋階段から下りるのではなく、正面から乗り込む。考えるのを放棄し、王族の言いなりになるだけだったときとは違う。だから用意された場所ではなく、自分にふさわしい場所を選ぶ。……リアンがこの方法に賛同してくれてよかった)


 王族入場の読み上げの後、ジュリアンにエスコートされて会場に入る。ざっと周囲を見渡すと、以前とは違う登場の仕方に、招待客からは動揺が見え隠れしていた。

 これは過去の自分との決別の証しでもある。

 王太子となった彼の隣に立つ者として、ふさわしい存在にならなければならない。お荷物になるだけなんて冗談じゃない。ずっと守られてばかりの鳥籠の姫になるつもりもない。だって、クレアはもう操り人形の聖女ではないのだから。


「皆様。この場をお借りして、私の婚約者をご紹介いたします。当代の聖女、クレア・ラフォンヌ嬢です」

「ご紹介に与りました、クレアでございます。どうぞよろしくお願いいたします」


 驚きの声はない。

 それはそうだ。建国祭の夜会で、聖女の婚約者を当時の第二王子に指名したのは国王だ。貴族社会において今さら知らない者などいない。

 ちなみに、今夜はジュリアンの兄とその婚約者は揃って欠席している。

 彼らは弟が王太子としての足場を固めるため、余計な火種をまかないため、しばらく社交界からは距離を置くと聞いている。思いやりにあふれた、彼ららしい配慮だと思う。


「……それでは、また」

「ええ」


 貴族の堅苦しい挨拶の列がようやく終わった。

 ジュリアンの横でずっと微笑んでいたクレアは、ほっと一息ついた。じろじろと見られるのは慣れていたが、未来の王太子妃として見られるのは全然違う。

 強ばっていた肩から力を抜いていると、ジュリアンが果実水のグラスを差し出した。


「どうぞ、喉も渇いたでしょう。このまま夜風で涼みに行きませんか?」

「ありがとうございます……」


 力なく答えて、彼の先導でバルコニーに出る。

 幸い先客はおらず、貸し切り状態だ。先ほどまでの喧噪もカーテンの内側に吸い込まれ、どこか遠くのように聞こえる。

 グラスを傾け、すっきりとした檸檬の酸味で喉を潤す。


「……クレア、どう? 少しは緊張がほぐれた?」


 気さくな口調は下町のときのそれに戻っている。

 だから、クレアも同じように言葉を返した。


「ええ……まあ。おかげさまで」

「それはよかった。宮廷料理人が腕を振るった食事も用意しているけど、じろじろと見られながらだと食べにくいよね? あとで君の客室に軽食を届けさせるね」

「正直、助かるわ。……それにしても、本当に今夜は踊らなくて大丈夫なの? あなたの立場が悪くなるんじゃ」


 懸念を口にすると、彼はふっと笑みをこぼした。


「心配は無用だよ。君が体調不良で神殿にこもっていたのは周知の事実。いずれは君と踊りたいとは思っているけど、クレアを貴族の慣習に縛り付ける気はないから。今回はうまくやっておくから安心して。これでも王族の一員だから」

「一員って……れっきとした王太子殿下でしょう?」

「まぁね」


 軽口を叩いていたジュリアンだったが、何かに気づいたようにさっと真顔になる。クレアも口を噤んで身構えた。

 すると、彼の影に同化していたように、暗がりから急に人影が現れる。まるで最初からそこにいたかのような動きに目を瞬かせていると、ジュリアンの護衛だと遅れて気づく。


「殿下」

「……どうした?」


 護衛が一言耳打ちし、ジュリアンの顔色が変わった。

 だがその変化も一瞬の出来事で、すぐに彼は穏やかな顔に戻る。


「クレア嬢、申し訳ありません。ちょっと席を外します」

「……承知しました。わたしのことはどうぞお気になさらず」

「できるだけ早く戻りますね」


 そう言い置いて、彼の気配がすぐに遠ざかる。

 相手は国の重鎮だろうか。どのみち、気が長いほうではないのだろうなと予想がつく。

 静寂に包まれたバルコニーで、クレアは手すりに両手を置く。

 視線を上げれば、流れてきた雲が月を覆い隠していた。空から銀色の明かりが失われた中、夜風で葉が擦れる音がやけに大きく響く。囁き声のような音にしばらく耳を傾ける。


「でも……わたくし、聞いてしまったのです。王太子殿下は隣国に恋人がいるという噂」


 聞き捨てならない単語が聞こえてきて、ドキリとした。


(恋人……?)


 盗み聞きはよくない。そう頭でわかっていても、足は声のするほうへ近づく。できるだけヒールの音を立てないよう、そっと足音を忍ばせて一歩ずつ進む。


「あら、その話なら私も耳にしましてよ。特定の女性とずっと行動を共にしていたとか。でも王太子となってしまった今、その恋は忘れるしかないのでしょうね」


 声の主は一枚越しのカーテンの先にいるようで、思ったよりも距離が近い。

 まさか、聖女がすぐそばの柱で聞き耳を立てているとは考えていないだろう。夜風がふわりとカーテンを揺らしている。そのため、先ほどより鮮明に内容が聞き取れた。

 噂好きの令嬢たちの会話は楽しげに続く。


「まあ、得てして初恋は実らないものだといわれていますし、こればかりは仕方ないでしょう。なんといっても聖女を正妃に迎えるのは国の威信に関わる慶事ですもの」

「そういえば、男性は初恋の人が忘れられない生き物だと、兄が自慢げに申しておりました」

「初恋は成就しないからこそ、素敵な思い出になるのでは?」

「そうですわね。思い出の恋はたまに思い返すぐらいがちょうどよいと思いますわ。それこそ、誰にも話さずに、そっと胸に秘めておくものではありませんこと?」


 下町で見せたリアンとは真逆の、王太子らしい対応にずっと抱いていた違和感。その正体がやっとわかった気がする。

 彼女たちの話で色々と腑に落ちた。


(そっか……リアンは隣国ですでに好きな人を見つけていたのね。だけど、留学中に王太子に選ばれたせいで、想い人に告げる前に帰国することになってしまったのだわ……)


 だとしたら、クレアは二度も愛する恋人を引き裂いたということになる。

 どちらも自分の意思に関係なく起こってしまった事態だとしても、クレアにはその責任がつきまとう。聖女がいなければ、彼らの恋はそのまま成就されていたのだから。


(ああ……わたしは本当に人の恋路の邪魔をしてばっかりね)


 もし恋をするなら、自分を一途に見てくれる人がいいと思っていた。

 だけど、ジュリアンの心の中には誰かが住んでいる。時折遠くを見つめ、自分ではない誰かを想っているのだろう。そう思うと余計に胸が苦しくなる。


(こんな思いをするくらいなら、気づきたくなかった……)


 そこから先の会話は耳に入ってこなかった。

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