4. 聖女が元いた居場所

「うう、わたしもまだまだね。修行が足りないわ……」

「何の修行?」

「感情を表に出さない修行よ」

「え、その修行って必要? むしろ、感情は表に出さないと無表情になると思うんだけど」


 もっともな指摘だ。しかし、国中の期待を背負っている聖女ともなれば話は別だ。

 浄化の旅で広まった聖女の噂はどんどん美化されて今に至る。不運なことに建国の聖女と同じ色を持っていることで余計、国民が描く聖女像はさらに神聖化してしまった。

 聖女の理想とかけ離れた言動や振る舞いをすることは、民衆の期待を裏切ることと同義である。

 そんな残酷な真似をする勇気はクレアにはない。

 良心は痛むが、できるだけ彼らの理想の聖女になるべく、本音を押し隠して聖女の仮面を被っている。つまり、クレアは女神のような慈愛の微笑みを常に保たねばならない。どんなことがあっても取り乱さず、常に一定の距離感を持って感情を抑制する必要がある。

 それなのに、とんだ失態を犯してしまった。いくらお忍びで気が抜けているとはいえ、ここまで感情が筒抜けなのは己の鍛錬不足だろう。


「……皆が思い描く聖女は、こんな風に感情を出さないでしょう。感情のままに怒ったり笑ったり、そういうのは誰も望んでいないから。じゃないと失望されてしまうもの」


 深刻な表情で説明したのに、あろうことか、リアンは軽く受け流した。


「ふうん? でもさ。クレアは笑った顔が一番可愛いよ」

「……か……かっ、かわいく、なんてないから!!」

「可愛いよ。世界一の可愛さだと思う。なんて言えばいいのかな、クレアが笑うと皆がつられて笑顔になれるんだよね。一面の野の花が一斉に咲いたみたいな、そんな感じ。少なくとも俺はあの笑顔が好きだよ」


 常連客として来ていたときは、そんなこと一言も言っていなかったくせに、いきなり何を言うんだこの男。ひょっとして留学先で女の口説き方を習得してきてしまったのか。

 記憶が正しければ、彼は恋愛にはまったく興味がなかったはずだ。それどころか、容姿だけを見て近寄ってくる女性を忌避していた気がする。

 そんな中で、クレアだけ普通に接してくれていた。だから彼にとって、自分は心を許せる特別な存在なんだと少し嬉しくもあったのに。


(一体どこの誰よ!? リアンに余計な知識を植え付けたのは……っ)


 リアンが女たらしになったら、どうしてくれる。彼にはあの頃のまま、純粋のままでいてほしかったのに。いきなり知らない男に成長してしまったみたいで、ショックが大きい。立ち直れないかもしれない。


「ねえ、突然しゃがみ込んでどうしたの? お腹でも痛い?」

「…………ううん。ただ、リアンが知らない人みたいに思っちゃって……。ちょっと心を落ち着けているところだから……。少しだけ待っていて」

「知らない人? それこそ俺の台詞だよ」

「え?」


 驚いて顔を上げると、リアンが右手を伸ばしていた。反射的にその手を握ると、そのまま引き上げられる。反動でふらついていると、彼の腕が背中を支えてくれた。だけど安定感を取り戻すと、すぐに彼の手は離れてしまう。

 そして、お礼を言おうとクレアが口を開くより早く、リアンが不服そうに言葉を並べ立てる。


「だってさ。聖女でいるときのクレアって、いつもと全然違うじゃん。本当に楽しいとき、クレアはあんな風に笑わない。感情を抑圧する生活を続けていたら倒れるのも当然だよ。適度に息抜きしなくちゃ」

「…………」


 自分が悪いという自覚はあるので弁明はせず、黙って頷く。

 無言で目を伏せていると、何かを悟ったのか、リアンがわざとらしく咳払いをした。


「あー……ごめん、これだと一方的に責めているね。クレアが悪いんじゃなくて、そういった振る舞いを求める周囲にも問題があると思うんだ」

「わたしのことを瞬時に見抜くなんて、リアンはすごいのね」

「何年、あの店に通い詰めたと思っているの。俺はずっとクレアに会いに行っていたんだから。普段のクレアを知っている人なら皆、気づくよ」

「そっか……」


 聖女に選ばれて環境が劇的に変わってからというもの、クレアにこうやって本音でぶつかってくれる者はいなくなってしまった。常に聖女でいる必要はないと言われているようで、ずしりと重かった心が軽くなる。

 こんなにも自分のことを理解してくれる人がいると知っただけで、救われたような心地だ。

 

「リアン、ありがとう。わたしを外に出してくれて……前みたいに接してくれて」

「……どうか忘れないで。この下町にはクレアを心配している人がたくさんいるってこと」

「皆がよそよそしく変わってしまった気がしたけど、変わってしまったのはわたしのほうだったのね。わたし、皆に謝らなくちゃいけないわ」

「謝る必要なんてないよ。クレアは、ただ笑ってくれるだけでいい。せめて下町にいるときはいつものクレアでいて? ここにいる皆は聖女じゃなくて、楽しそうに働くクレアの姿が好きだったんだから」


 さも当然のように言われて、クレアは瞬いた。

 ありのままの自分でいいと認められて、なんだか面映ゆい気持ちになる。


(リアンはすごいわ。わたしの欲しい言葉をくれる……彼が恋人だったら、どんなによかったかしら。ううん、叶わない未来を期待しても、あとで虚しくなるだけね)


 期待すればするほど、落胆は大きくなるものだ。

 聖女になってから何度も味わってきた苦い経験は思い出すのもつらい。それに、こうしてリアンと気軽に話せるのだって今日だけだ。

 わかっていたはずなのに、久しぶりの自由に感覚が麻痺していたのかもしれない。


「……クレア? 難しい顔をしてどうしたの」

「ううん、なんでもないわ。実家に顔を出したいのだけど、ついてきてくれる?」


 青灰色の瞳は心配そうにクレアを見つめた後、理由を追及するのを諦めたように息をついた。


「もちろん。それが君の望みなら」


 ◆◆◆


 下町と貴族街の境目にある、細い路地を抜けた先が実家だ。

 立地が悪すぎるため、格安で売られていた土地を祖先が買い付けたらしい。奥まった場所にあるせいで行き来は確かに不便だが、庭もついた一軒家はそこそこの広さがある。

 そして、三軒あるうちの一番右がクレアの育った家だ。


(よかった、ここは変わっていない。あのときのままだわ)


 記憶と同じ風景に安堵し、蔦が這った低い門を開ける。

 長年雨風にさらされて朽ちてきた木製のアーチを抜けると、開けた庭がクレアを出迎えた。大貴族の立派な庭園と比べたら見劣りするだろうが、たくさんの緑に囲まれた小さな庭園だ。厳しい冬を乗りこえた春先は次々に違う色とりどりの花が咲き乱れ、楽園のように目を楽しませてくれる。

 手入れに時間やお金がかかる美しい薔薇はないものの、季節ごとに咲く花が変わり、一年中楽しめるように工夫されている。その中にはクレアが寄せ植えをした植木鉢もあった。

 薄紫の房が揺れた花のそばには、すみれ色の花が身を寄せ合う。中央の花々を囲むように、黄緑と薄緑の特徴的な葉が茂っている。クレアの代わりに、妹たちが手入れしてくれているのだろう。

 感傷に浸っていると、ワンッ!と犬の鳴き声がした。


「…………」


 濃淡の違いはあれど、同じ金髪の少女の姿にクレアは目を細めた。一年前、路地裏で拾った白い子犬はすっかり大きくなり、少女の番犬のように横に並んでいる。

 少女は膝丈の花柄のワンピースを着たまま、呆然と立ち尽くしている。淑女らしく複雑に編み込みこんだ髪には白い生花が揺れている。


「ケイト。その髪、エマに結ってもらったの? とても似合っているわ」

「……お姉様?」

「ふふ。今日は特別なの。だから髪の色もちょっと違うんだけど……やっぱり変かしら?」


 この変装は門番の目を欺くのは都合がいいが、家族に赤の他人だと思われるのは悲しすぎる。

 ケイトは無言でジッと見つめ、クレアはドキドキしながら妹の返答を待った。しばらくの沈黙の後、ケイトは無邪気に笑った。


「ううん! その髪色もきれいだよ。どんな髪型でも、お姉様はいつもきらきらしているもの」


 まさかの手放しの賛辞に思わず照れると、二階の窓辺から懐かしい声が聞こえてきた。

 声のするほうを見上げる。そこには、予想通り次女のエマが驚いた顔でこちらを見下ろしていた。


「お、お姉様……!? 今日はどうしたの? いつものお付きの人がいないみたいだけど……」

「久しぶり。今日は非公式なの。よかったら、家に入れてもらえる?」

「何言っているの、もちろんよ。さあ、あがって!」


 ◆◆◆


 リアンは気を利かせてくれたのか、気配なく立ち去っていたため、久しぶりの家族水入らずの時間を過ごした。

 夜勤明けでたまたま家にいた父親とも再会の抱擁を交わした。離れていたぶんの時間を取り戻そうと、エマとケイトはずっと忙しなく会話を続け、クレアは妹たちの話を聞き入っていた。そのそばで父親は小さい弟のジャックの相手をしながら時折、話に入ってくる。

 クレアが聖女として旅立つ前、どれも当たり前だった日常だ。

 けれど、楽しい時間はあっという間に過ぎていき、とうとう日没まで残り一時間を切ってしまった。名残惜しいが、このまま居座り続けるわけにもいかない。

 今、クレアの居場所はここではないのだから。


「エマ、ケイト、ジャック……姉様はしばらく家を離れることになるけど、あなたたちが大事な家族であることは変わらないから。姉様がいなくなるからって、お父様を困らせてはだめよ?」

「はい……約束します。だから、お姉様もどうかお元気で」


 次女のエマが代表して気丈な笑みを見せる。

 その姉の後ろで五歳のジャックが不安そうにちらちらと見ていた。ほとんど家に帰ってこない姉を見て、何か思うところがあるのかもしれない。

 しかしながら、クレアにその不安を埋めるだけの時間は許されていない。

 父親に視線を移すと、深い懺悔をするように苦悶の表情を浮かべていた。


「クレアには今までたくさん苦労をかけてきたのに、この上、聖女のお役目だなんて……。重荷ばかりを背負わせてしまって、本当に申し訳ない」

「お父様。わたしは自分を不幸だなんて思ったことはありません。わたしには愛すべき家族がいます。一緒に暮らせなくなっても、わたしの帰る家はここです。お父様とお母様の娘として生まれてきてよかった。わたしを育ててくれて――愛してくれてありがとう」

「ああ、クレア……。私たちの愛しい娘よ、離れていても私たちは家族だ。困ったことがあったらいつでも頼っておいで」

「はい。お父様」


 頷くと、父親の大きな両腕が家族全員を包み込む。ぎゅうぎゅう詰めにされる中、家族の体温を間近に感じられて心が満たされていく。

 

「また来るわね。それまで、どうか元気でね」


 後ろ髪を引かれる思いで別れを済ませると、路地裏で待機してくれていたリアンが片手を挙げて出迎えてくれた。


「おかえり。……その様子だと、いい時間を過ごせたみたいだね」

「ええ。こんなに羽を伸ばせたのはいつぶりかしら。神殿長にもお礼を伝えないとね。――リアン、あなたもありがとう。わたしの知らないところで、いろいろ手を回してくれたのでしょう?」

「このぐらいお安い御用だよ。俺は世間の目を気にせずにクレアとこうして出歩きたかっただけだから」

「ふふ、わたしもリアンと一緒に出かけられて嬉しいわ。さあ、帰りましょう」


 胸躍るお忍びの時間はここまでだ。神殿にはクレアの帰りを待つ者がたくさんいる。

 神殿に帰ったら、クレアはまた聖女に戻る。

 そして、明日から何事もなかったように聖女のお勤めに励むのだ。


(わたしは大丈夫。家族のためなら、望まぬ結婚だって笑顔で乗り切ってみせるわ)


 やる気に燃えるクレアの横で、リアンが何かを我慢している表情をしていることには気づかなかった。

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