3. 変わらない風景の中で

 いくら神殿長自らアリバイ作りに協力してくれると言っても、クレアは名の知れた聖女だ。神殿に出入りしているところだって何度も目撃されている。

 その聖女が仕事以外で、ふらりと王都に現れれば、国民は皆驚くだろう。

 クレアの心配を見越してか、雑木林の開けた場所でリアンはあるものを貸してくれた。「こうやるんだよ」と見よう見まねで教えられた通りにすると、見る見るうちにクレアの髪色はくすんだ栗色に変わった。


 なんでも、髪色を本来の色とは違う色に染める特別な粉、なのだそうだ。


 悪用を防ぐために市場には一切出回らない特注品らしい。なんでそんな高価な物を?と思ったクレアの戸惑いの視線にリアンはただ微笑むだけだった。下手につつくと何が出てくるかわからないので、深く詮索するのは早々に諦めた。

 髪の色は普通に井戸水や雨水で流したら元通りになるようだが、手鏡で見た自分の姿はよく似た顔の別人にしか見えなかった。

 栗色の髪は落ち着いた色で、いつもの輝きはない。

 けれど、意外と悪くない。見慣れない髪色なのに不思議と馴染んでいるように思う。


(ふふ、なんだか魔法使いに変身させられた気分……)


 いつも下ろしている髪を後ろで一つでくくり、聖女が着る純白のローブではなく、リアンが用意してくれた旅人用の茶色のマントを羽織る。これで一目でクレアだとわかる者はいないだろう。

 腰の位置まで伸びきった草をかき分け、獣道のような道を抜けると、時計塔近くの外壁の近くに出た。時計塔は貴族街と下町の境目にあるので、思ったより目的地は近い。


「まず、どこに行きたい?」


 裏門に向かいながらリアンに問われ、クレアは逡巡する。

 今日のお忍びは思ってもいなかった展開だったので、正直なところ、まだ心の準備ができていない。ここしばらく、ろくに顔を見せなかった家族にいきなり会いに行くのは少々ハードルが高い。

 答えに窮していると、リアンが明るい声で続ける。

 

「じゃあさ、前に働いていた職場の近くでも行ってみる? 近くに新しいパン屋がオープンしたんだよ。焼きたてパンのいい香りで、行列ができるくらい人気なんだって」

「え、なにそれ。美味しそう!」

「今の時間ならすいてるはずだから、並ばなくても買えるかもね」

「好きにお店を見て回れるなんて久しぶり! 楽しみだわ」


 肩の力を抜いた会話なんて、いつぶりだろう。まるで昔に戻ったみたいだ。

 ドキドキと緊張しながら裏門についたが、夜勤明けなのか眠そうな門番が一人いるだけだった。いつもなら「聖女様、お帰りなさいませ!」「聖女様、万歳!」といった風に歓迎ムード全開で出迎えられるが、今日は素通りで下町に入れてしまった。

 リアンが考えた変装はばっちりだったようで、怪しまれることもなく「見咎められるかも」と不安になっていたクレアは拍子抜けした。

 そのまま道を進むと、所狭しと店が並ぶ下町の大通りに出た。貴族街みたいに道は舗装されていないし、老朽化した家を何度も修繕しながら住んでいるのでお世辞にもきれいとは言いがたいが、クレアにとっては見慣れた風景だ。

 馬車はなく徒歩の人があふれ、貧しいながらもポジティブにたくましく生きていく場所が下町である。そして、半年前までは自分の居場所はここだった。

 ちょうど客が途切れる時間帯だったのか、パン屋の店内はすぐに入れた。ほとんどのパンは売り切れていたが、残っていたパンをいくつか買い、袋に詰めてもらう。

 代金は財布を取り出す前に、リアンがさっと支払ってくれた。会計後、リアンにお金を払おうとしたが、有無を言わさない笑顔を向けられて、渋々お財布をしまった。

 聖女として各地で多くの人と接してきた経験上、こういうときは素直に引き下がるに限る。下心のある特別扱いはともかく、むやみやたらに人の好意は無下にしないほうが得策だ。

 ありがとう、とクレアがお礼を述べると、リアンは律儀にも「どういたしまして」と笑った。


「ねえ、リアン。ここで食べましょ?」

「そうだね。じゃあ、軽く腹ごしらえしようか」

「ええ!」


 店の外に出て、通行人の邪魔にならないよう店の壁際に移動する。

 下町には洒落たベンチも噴水広場もない。

 貴族街では考えられないが、下町では食べ歩きが当たり前だ。しかし、食べ歩きはよそ見をした人とぶつかったときに、せっかくの食べ物がこぼれたり落ちたりすることがある。

 普通に考えて、聖女が買い食いなど、もってのほかだ。けれども今のクレアは聖女ではない。庶民と同じ生活を送っていた頃のように振る舞っても、誰も咎める者はいない。

 せっかくの機会、楽しまなければ損だ。

 焼きたてではないので少し冷めていたが、パンの包みを開けると充分に良い香りが漂ってくる。そこそこよい小麦を使っているに違いない。まず一口かぶりつき、ふわふわ食感に驚く。二口三口食べて、中のとろりとしたカスタードクリームの濃厚な味にクレアは二度目の驚きを体験した。


「リアンリアン! このパン、全然硬くないわ。綿のようにふわふわだし、クリームもいつもと違う。特殊な卵を使っているのかしら? 濃厚なのにくどくなくて、甘すぎず、老若男女を虜にする味よ!」

「パンが白いなんて不思議だなと思ったけど、こっちも美味しいよ。中のクリームはチョコの味がするし、なかなかインパクトがあるね」

「へえ、リアンのパンも美味しそうねえ……」

「…………食べる?」


 遠慮がちに言われ、クレアは慌てて否定した。


「ち、違うのよ。分けてもらいたいと思ったわけじゃなくて、今度はリアンと同じパンを買おうかなと思っただけで……」

「でも食べてみたいんでしょ? いいよ、俺の食べかけでよければ」

「え……いやでも、家族じゃないのに食べかけをもらうのはちょっと……あ、リアンが嫌とかじゃなくてね!? 一般論だからね!?」


 慌てて説明するものの、リアンは悲しげに目を伏せた。

 しゅんと、うなだれた子犬のような様子にクレアは焦りが募る。


「……じゃ、じゃあ、一口もらっても……?」


 恋人でもないのに、こんなことを言うなんて、はしたない。

 しかし、彼はまだ十四歳。クレアよりも年下だ。きっと自分が自意識過剰なのだろう。

 年齢的には彼は恋人というより弟に近い。いくら背が伸びて眼差しも大人っぽくなったとはいえ、淑女たるもの、弟のような存在に心を惑わせてはいけない。

 羞恥心で顔が火照っていくのを感じながら返答を待っていると、「ふ……くっ……」と笑いをかみ殺した小声が聞こえてきた。うつむいていたリアンが目尻の涙を指先でぬぐって笑う。


「冗談だよ、冗談。家族でもないのに、さすがにそんなこと言わないよ」

「ちょっともう……本気にしたのに! 演技ならそう言ってちょうだい!」

「先にネタばらしをしたらクレアの反応が見られないじゃん。でもいい感じに肩の力もほぐれてきたんじゃない?」


 言われて、はたと気づく。


(た、確かに……さっきまでの緊張はもうないわ。うう、でもこんな方法を使わなくたって……)


 感謝したい気持ちと、からかわれて悔しい気持ちとがせめぎ合う。

 数秒の葛藤の後、抗議の言葉をグッとこらえて、クレアはふっと肩の力を抜いた。


「もう降参よ。リアンのおかげで気分が楽になったわ。……ありがとう」

「そう? ならよかった」


 屈託ない笑顔を向けられて、不覚にもドキッとしてしまう。クレアを神殿から連れ出してくれたのは、ただの親切心からだろうに。

 変な勘違いを起こさないように、クレアは話題を変えた。


「そういえば、外国に行くって言っていたけど、向こうでの暮らしはどうだったの?」

「あー……、文化の違いには驚かされたね。礼儀作法も違うし、この国のタブーが向こうでは常識だったりして……慣れるまでが大変だったかな」

「へえ、そうなの。食生活も違っていた?」

「そこまで大きな違いはなかったけど、調理方法が独特な料理もあったよ。あと、クレアが好きそうなお菓子もたくさんあった。蓮の形をしたお菓子は本物みたいに精巧で、食べるのがもったいないくらいだったな」


 リアンとは、数年前まで店員と常連客という間柄だった。自然と話題は料理のことが多かったため、食の好みはお互い把握している。


(それが本当なら、なんて芸術的価値の高いお菓子なのかしら……! じっくり本物をこの目で見てみたいものだわ)


 聖女になる前、クレアは休日によくお菓子作りに勤しんでいた。

 弟妹たちが喜んでくれるし、自分で食べたいものをたくさん作れて一石二鳥だったからだ。

 だが本音を言えば、自分で作るより、食べるほうがもっと好きだ。美味しいものは心を満たしてくれる。見た目が可愛ければ可愛いほどいい。

 うっとりと手を合わせてお菓子のことをあれこれ考えていると、リアンが謝ってきた。


「ごめんね、お土産には向かないお菓子だったんだ。俺もぜひクレアに食べてほしかったんだけど、生ものだから長時間の持ち運びは適していなくて……」

「……えっ、わたし、願望を口に出していた?」

「顔を見ればわかるよ」


 即座に答えを返され、クレアは両手で顔を覆った。

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