5. 王太子殿下との顔合わせ

 立太子の儀は滞りなく終わったらしい。

 神殿長からその話を聞いたクレアは翌日、王宮の謁見の間に呼び出された。理由は考えるまでもない。長らく延期されていた、新たな婚約者との顔合わせの場が設けられたのだ。

 国王夫妻をはじめ、宰相や神殿長、国の重鎮が揃う中、クレアは憂鬱な気分でそのときを待っていた。もうすぐ未来の夫となる人物がやってくる。

 本音を言えば、今すぐこの場から逃げ出したい。

 もともと、クレアの結婚相手は第一王子だった。それが思わぬ理由で第二王子に変わったのだ。悠悠自適に過ごしていた第二王子は突然王太子に指名されただけでなく、本人のいないところで結婚相手も決められ、さぞ驚いたことだろう。内心では憤慨している可能性だってある。

 第二王子に婚約者はいなかったようだが、想う相手ぐらいはいたかもしれない。もし、そうであるならば。


(わたしはまた……意図せず、誰かの恋路の邪魔者になっているのかもしれない)


 けれども、最初からクレアに拒否権はない。実質、家族を人質に取られている身だ。

 初心を思い出せ。家族のためなら聖女だろうと邪魔者の王太子妃だろうと、なんだってやってみせる。そう心に誓ったはずだ。

 聖女の仕事を放棄しない限り、クレアならびに家族の生活は保障されている。一時に比べれば、毎食の食事や調度品だって、ぐんと質のいいものに変わった。おかげで弟妹の生活費や進学費の心配もしなくていい。


 自分は大丈夫だと言い聞かせる一方で、ひとつの不安が脳裏をよぎる。


 伯母の話によると、結婚とは人生の墓場だそうだ。その真意はまだ知りたくないが、童話のように「いつまでも幸せに暮らしました」という話は空想の産物だってことはわかる。

 女神の愛は平等ではない。

 裕福な人がいれば、衣食住に不自由している人もたくさんいる。現にクレアは大好きな母親を失った。そして、その悲しみに暮れる暇もなかった。突然、母親が稼いでいた分の収入がなくなったのだ。クレアが働きに出なければ、弟妹たちの食事も用意できない。

 いつだって現実は理不尽で、つらくて、でもそれを表に出せずに幸せに振る舞う矛盾を抱えている。血のつながった家族でさえ、わだかまりがある場合も珍しくない。


(本当にできるのかしら。こんなわたしが……新しい家庭を築くなんて)


 昨日まで赤の他人だった人とこれから家族になると言われても、まったく実感が湧かない。

 貴族らしい生活に馴染みが少なかったせいで、クレアの価値観は下町生活で染められている。聖女として貴族と会話するたび、自分がいかに貴族社会の常識からズレているかを再認識した。

 そんな自分が王族に嫁いで本当に大丈夫だろうか。

 不安しかない。もしも王族を怒らせたら家族もろとも処罰される恐れもある。

 どのくらいの距離感が正しいのか、ほぼ庶民だったクレアにはわからない。

 王太子妃の務めは世継ぎを産むことだ。本来であれば、王太子妃に選ばれるのは教養と美しさを兼ね備えた上級貴族令嬢だったはずだ。断じて、下級貴族――それも庶民と同じ生活を送っていた自分ではない。

 考えれば考えるほど、この政略結婚に幸せな結末などないとしか思えず、気分が塞ぐ。

 クレアだって、小さい頃は自分にも幸せな未来があるのだと信じていた。けれど、まだ見ぬ恋人に夢を見ていた時期はとうの昔の記憶だ。

 母親の急逝以降、恋をする暇も余計なことを考える暇もなかった。

 だからこそ今、クレアはここにいる。


(わたしは自分で選んで聖女になった。聖女は微笑んで頷く、求められるのはそれだけ。だったら与えられた役目をしっかり果たさないと)


 対価はこの身をもって払わなければならない。

 そう決意を新たにしたときだった。王太子の到着を知らせる衛兵の声に、うつむいていた顔を上げる。扉を守る衛兵二人が恭しく白亜の扉を開ける。

 そこには見目麗しい王太子がいた。

 二歳年下と思えないほど、堂々した佇まいは凜々しくも美しい。今までなんとも思わなかった、白を基調とした王族の正装は彼の魅力を最大限に引き上げているようで、否応なしに視線が釘付けになる。その姿絵を世に出せば、さぞかし飛ぶように売れるだろう。


 だが、今はそれよりも――その髪色に内心の動揺が抑えられない。


 王族の象徴でもあるライラックの髪は、国王や第一王子と同じ色だ。王妃譲りの青灰色の瞳はクレアをすぐに見つけ、緊張するこちらを見透かしたように優しく微笑む。

 金縛りに遭ったように動けない中、王太子はクレアの前で跪いた。水色のマントに金糸で縫われた、白百合と剣が交差した国章が翻る。


「クレア嬢、お初にお目にかかります。ジュリアン・シェラ・ディクスと申します。このたびは急な縁談となってしまいましたが、どうぞよろしくお願いいたします」

「――はじ、めまして……?」


 頭の中で疑問符が飛び交う中、ジュリアンが真摯な眼差しを注ぐ。

 心臓の音がどくどくと脈打つ。まるで心を暴かれているようで居心地が悪い。思わず視線をそらすと、周囲がクレアたちを注視していることに遅れて気づいた。

 とっさに頭を切り替え、ドレスの裾をつかんで腰を低くする。


「し、失礼いたしました。ジュリアン王太子殿下。クレア・ラフォンヌでございます。ふつつか者ではありますが、誠心誠意お仕えしますので、よろしくお願いいたします」


 淑女の礼で応えると、ジュリアンが口元を引き締めた。


「あなたにとって、望んでもいなかった王太子妃という立場は重荷でしかないのかもしれません。しかしながら、私はあなたと手を取り合って、この国をもっと豊かなものにしていきたい。対等な立場として支え合い、あなたを一人の女性として愛したい。……そう思っています」

「…………」


 誠実な口説き文句に一瞬、クレアは聖女という自分の立場を忘れそうになった。

 さっきから、ジュリアンに別の人物の姿が重なって見える。けれど、同一人物のはずがない。青灰色の瞳を持ったリアンはよく似た別人だ。そうだと信じたい。


「クレア嬢、どうか私を受け入れてください」


 混乱したまま懇願されてしまい、クレアは心の中でうなった。

 目の前には、見覚えのある青灰色の瞳。まるで信じてほしいと言わんばかりに、訴えかけるような眼差しだ。


(信じられないけど、この人は……リアン、なの……? 確かに髪の色は違う。でも、目の前にいるのはリアンよね……?)


 色々聞きたいことはあるが、今はそれを聞くタイミングではない。

 喉元まで出かかった質問を飲み込み、クレアは口を開く。


「も、もちろんです。わたしを生涯の伴侶としてお側に置いてくださいませ」

「……っ……ありがとうございます」


 一瞬、動揺で瞳が揺らいだように見えたが、気のせいだろう。

 いつもと違う態度のせいで、なんだか夢の中にいる気分だ。王太子として振る舞うジュリアンは大人びていて、年下なのに年上のように感じられる。

 見慣れない衣装のせいか、彼の周りだけキラキラと輝いて見え、思わず目をそらしてしまう。

 そんなクレアを一瞥し、ジュリアンは高らかに告げた。


「これより婚約者として聖女様と親交を深めるべく、二人きりでお茶会をしたく存じます。どうか聖女様を独り占めする無礼をお許しください」

「常識の範囲でなら存分に仲を深めるがよい。心を通わせるには対話が不可欠だ」


 国王からの許しにジュリアンは粛々と退室の礼をした。それに倣う形でクレアもその場を辞去し、二人で謁見の間を出る。重厚な扉が閉まり、無意識にほっと息を吐き出した。


「クレア嬢。お手をどうぞ」


 リアンのときとは違うトーンの声で、ジュリアンが屈んで優雅に手を差し出す。クレアはおずおずと自分の指先を差し出した。

 目が合うと、安心させるように優しい笑みを向けられて、心臓が早鐘を打つ。

 既視感のある眼差しだ。そこまで考えて、ユリシーズが愛おしそうに婚約者を見つめる視線と同じなのだと気づく。

 クレアは今、婚約者として扱われているのだ。

 そのことを理解すると、耳まで赤くなったのがわかった。聖女として敬われることは慣れていたはずなのに、なぜだか笑顔が引きつってしまう。


(うう……ユリシーズ殿下と一緒のときは普通に振る舞えていたのに。全然うまく取り繕えない……)


 以前はどのように演じていたのか、まるで思い出せない。思い出そうとすればするほど、記憶の中にある青灰色の瞳の持ち主が頭の中でちらつく。

 それもこれも、いっそ別人というくらい彼の雰囲気が違うせいだ。

 優美な動きでクレアの手を自分の腕に乗せ、王太子として隣を歩くジュリアンは堂々としており、下町で見せた茶目っ気や年相応の少年らしい感情の起伏は一切感じられない。

 あるのは王族としての気品、他者を慈しむ気遣い、己を律する強い心。

 それに引き換え、今のクレアは自分の心すら制御できない。だけど、護衛騎士たちのいる手前、その本音を口に出すこともできない。

 結局、感情をすべて胸の中に留めたクレアは、しずしずと歩くだけで精一杯だった。

 ジュリアンは迷いのない足取りで大広間を抜け、深紅の毛足の長い絨毯がヒールの音をかき消す。複数の護衛騎士が後ろに続く。


(それにしても……さすがは王族ね。女性のエスコートも完璧だわ)


 クレアの歩調に合わせて速度を落とした歩みは、歩幅の違う女性への気遣いに満ちている。何度もこちらを心配するように視線を向けられるたび、鼓動が速まるのがわかった。

 そして、たどり着いた先は王族が私生活を営むプライベートゾーンだった。調度品の質がぐんと上がる。国宝級の絵画や壺が並ぶ廊下を歩いていると、ふとジュリアンが立ち止まった。

 護衛騎士が扉を開け、深みのあるブラウンを基調とした家具が目に入る。


「ここは私の私室です。人払いも済ませてありますので、どうぞ遠慮なく寛いでください」

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