第38話 手遅れ


 僕は今、洗面所の前でうんうん唸りながら思案していた。


 昨日、リンの家から帰ってきてからずっと、首にあるキスマークをどうしようか散々悩んでいたのだが、悩んでいるうちにベッドに突っ伏し、眠ってしまったのだ。


 そうしてさっき目覚めた時には、もう学校へ行く時刻になっていた。

 残念ながら一夜明けても赤い刻印はその存在感を弱めてはおらず、土壇場になって僕は、洗面所の鏡を睨みながら焦っているというわけだ。


 まずい。

 マジでこれ、どうしよう……。


 こんなのを見つかったら、みんなにどう思われるんだろう。

 ここ最近、僕がリンと仲良くしているのはクラスのみんなも目撃していることだ。

 その上で、こんな派手なキスマークをつけて登校なんてしたら、きっとみんな、昨日僕とリンがセックスをしたんだと思うはず──。


 そんなことを考えていると、僕は昨日の情事を思い出してしまった。


 リンの柔らかい唇の感触が。

 リンの舌が僕の舌をうねうねと弄ってくる興奮が。


 セックスでもない、ただのキス。

 そんなの、エロ動画を見てる時にはもはや興奮さえせず早送りするくらいの行為。

 なのに。実際にやってみると、単に体を触るよりも遥かに特別な行為なんだと思わされた。


 自分の舌と相手の舌を絡ませ、互いの唾液を相手の口に入れ合い交換するという行為。

「他人の体に触れる」というのは、不可抗力でも実現してしまう可能性があることだ。

 でも、「キス」は違う。相手の唾液を自分の口腔内に直接入れられることなど通常あり得ない。


 それは、愛の証。


 相手を受け入れる、大好きであるという気持ちの表れ。もし嫌悪感を持つ相手だったなら、体を触れ合うことよりも強い拒絶感が湧いてくるのでは、と思う。

 昨日の行為を経て、キスとはそういうものなのだと僕は実感したのだが、だからこそ、僕は混乱してしまった。


 リンは、やっぱり僕のことが本当に好きなんじゃないのか、と。

 でなければ、あんなに情熱的なキスをしてくれるわけがないと思ったのだ。


 僕のことを好きでもないのに、落とすためだけに僕へキスをするなんてこと、リンはするだろうか。そうだとすると、かなりショックを受けてしまいそうだなぁ……。


 いや……違う。

 そもそも、昨日は僕からキスをした。


 それこそ、リンのことを好きでもないのに、僕はリンにキスをしたってのか?

 場合によっては、リンは、今僕が考えていたようなショックを、受けているんじゃないのか?


「好きでもないのに女の子にキスをしたの?」って冗談っぽく言ってたけど、僕はそれにはっきりと回答しなかった。


 こんな僕の態度のせいで、万が一にもリンを傷つけてしまうことがあるのだろうか。

 もし、そんなことがあるなら、それだけは避けてあげたい。避けてあげないといけない。


 リンを傷つけないために僕ができること。ショックを受けないようにしてあげられる方法。

 僕には、一つしか思い浮かばない。

 

 昨日のキスは、僕が君のことを本当に好きだからしたんだよ、と思わせてあげること。


 今までのリンの態度が、本当に全て僕を落とすためだけの演技なら、こんなことを言えば一笑に付されるだろう。

 その時は……まあ、僕が傷つけば済むことだ。結局最初から、ずっとひとりぼっちだったと思い知れば済むことだ。




 僕は────…………




 晴翔が、洗面所に入ってきた。

 鏡越しに僕のことを凝視する。その視線は僕の視線とは微妙に合わず、やはり、というか、僕の首の辺りを見ている感じだ。


 ものすごく目立つのだ。

 白い肌に、真っ赤に浮き上がったリンの痕跡は、シャツなんかでは到底隠せないベスポジ・・・・につけられている。制服に着替えてみたが、全く隠せないのだ。


 晴翔はどうやら髪をセットしにきたようだったので、僕は洗面所から慌てて出る。


「くっそ……リンめ、計算してここに付けたな……!」


 思い返せば、リンは僕の体に自分の証をつけることにこだわっていた。

 ペアリングは何とか回避したものの、この左手首にあるブレスレットなんかは完全にその表れだ。そのうち、体に「リン」ってタトゥーを彫れって言い出しそうで怖い。


 ブツブツと毒づきながらリビングへ。

 首を掻くふりをしながらを隠して父さんと母さんをやり過ごし、物入れに置いてある救急箱のところへ向かう。

 

 とりあえず、バンドエイドで隠すことにした。

 小さな卓上鏡なら部屋にもあるので、僕はバンドエイドを手に取り、そそくさと自室へ戻る。

 

「ギリ、だな……」


 鏡を見ながら貼ってみる。

 さすがに付けられてすぐよりも小さくなってきているとはいえ、マジで隠れるか隠れないかの瀬戸際。


 でっかいキスマークつけやがって。

 ったく、学校に行ったらどんな目で見られるかわかったもんじゃない。僕は学校では、目立たぬ「端っこ族」なのに……!


 家を出て、エレベーターで一階へと降りる。

 今日は、リンは僕の家の前までは迎えに来ない。家が全然違う方向だと判明したのに、嫌だ嫌だと駄々をこねて、ほとんど意固地になって迎えに来ようとするので、僕が説得したのだ。

 ちなみに、どんなふうに言ったかというと、


「さすがに病み上がりだから、まだ手術した左手が本調子でもないのに無理をしちゃいけないよ。リンの体が心配なんだ」

「えっ……ほんと? 嬉しい。ありがとっ」


 瞳を速攻で水色に変えてルンルンしたリン。なんとなくツボ・・がわかってきた。


 という訳で、今日は一人で登校なのだが、五号棟を出て、歩き始めてすぐのところで後ろから声をかけられた。


「よっ」


 こんな短い声を聞いただけで、今でもイントロクイズの如く一瞬で誰かわかってしまうところに、葵の存在がどれだけ僕の心に入り込んでいたかが表れていると思う。


 僕の肩に触れて、優しく挨拶してくる葵。

 ここ最近、葵も僕に対する態度が違う。タイミング的には、リンが僕に絡むようになった頃からか。


「今日は、リンはどうしたの?」

「今日は時間がないみたいで、一緒には登校しないよ。そっちこそ、晴翔は?」

「そんなに毎日一緒に登校してる訳じゃないんだよね」

「そうなんだ」


 そうなのか? 付き合ったって聞いてからは毎日登校していた気がするが。

 

 二人で並んで、イチョウ並木の歩道を歩く。

 パラパラとイチョウの葉が落ちてきて、歩道は半分くらい黄色で埋まっていた。


「ところでさ、ゆうちゃん、首、どうしたの? バンソーコー貼ってるけど」

「あ……うん。ちょっと怪我しちゃって」


 ドキッとして飛び上がりそうになったが、「リンにつけられたキスマークを隠してる」だなんて口が裂けても言えない。


 ふーん、と言いながら葵がじっと僕の首筋を見つめている。

 葵には目を向けず、流れ落ちそうになる冷や汗を感じながらも真正面だけ向くように心掛けた。 


 と、葵が突然明るく声色を変える。


「ね。今日、昔みたいに手を繋いでみない?」

「えっ!?」


 謎の提案。さっきハラハラしてた時とはフェーズが変わりすぎて全く気持ちがついていかない。

 葵、どういうつもりだよ!?

 

「あ、あのさ、君は晴翔と付き合ってるんでしょ!?」

「うん」

「うん、って。そんな軽く──」

「お願い」

「っっ────」

 

 間近くで見せられる、学校一とも言われた美少女の顔。

 やはりその強力な魔力は逆らい難く、今でも僕の心を縛る。


「その、……うん。まあ、いいんだけど」

「やったっ」


 笑顔でこんなことを言われて、鼓動のリズムが強制的に早められる。

 

 まあ……よく考えれば、手を繋いだからといって何かまずいということもないはずなのだ。だって、リンと手を繋いだときも、同じ理屈でリンと同意したのだから。


 でも、「リンを傷つけたくない」とか思っていたところなのに、リンと初キスをした翌日に葵と手を繋いでいるところをリンに見つかりでもしたら、それって、リンの心をナイフでグサグサ刺していることにならない? あれ? 僕ってもしかして鬼畜の最低野郎なの?

 

 葛藤する僕の手を、葵は躊躇なく握った。


 スベスベ感も、柔らかさも、温もりも。その感触は、リンと全く差が感じられない。

 奇しくも、葵と手を繋ぐことによって、アンドロイドであるリンが人間と差などないと証明する形になった。


 葵は、リンがしたように、僕の指の間に自分の指を絡めていく。

 一本一本、その感触を噛み締めて僕の手を愛でるかのように絡めていくその様に、僕は心の底から動揺した。


 僕はリンとの付き合いの中で、体と体が触れ合うことは単なる性的魅力の表現ではなく、心の伝達手段でもあることを知った。

 であるならば、今、手を触れ合う感触によって葵が僕へ伝えている「気持ち」は、間違いなく「好き」という感情で間違いないはずだった。


 物事は、一つの事象だけでは判断できない。

 だから、僕は葵の表情を確認したのだけど……。


 こんなに幸せそうな顔をした葵を、僕は初めて見た。

 それとさっきの手の感触を合わせて考察したとき、僕は、余計に混乱することになってしまった。 



 ────そんなばかな。



 そうとしか言えない。いや、それ以外、言えないのだ。

 だからこそ思考は止まる。これ以上の考察は、堂々巡りにしかならないのだから。


 学校の校門が見えてきても、葵は僕の手を離そうとはしなかった。何人かの生徒たちが、僕らの様子を見て仰天したような表情になる。

 

 まずい。いい加減に何とかしないと、このままじゃリンに見つかる────。


 そう思った矢先、僕らの真正面、校門のところに立っているリンの姿が目に入った。リンは、先に教室に入らず、門のところで待っていたのだ。

 

 僕は葵の手を振り払おうとしたけど、まるで葵はそれをあらかじめ察知していたかのように、先手を打つようなタイミングで僕の手を強く握り返した。


 したがって、僕らはしっかりと手を繋いだまま、リンと対峙することとなる。


 リンの表情が消えると同時に、瞳の色はフラッシュしたかのように水色へと移り変わった。誰が見ても恐怖に震えるほどの殺気を、表情を消した顔と瞳に宿らせる。


「……葵。自分が何をしているか、わかってる?」

「ええ、もちろん。ただ手を繋いでるだけでしょ?」


 ようやく、葵は手を離す。

 フッ、と余裕の笑みを浮かべたのだが────。


 直後、リンを見つめたまま、葵は表情を固くした。

 なんだろう? と不思議に思い、僕もリンへ目を向けて、とんでもないことに気がついた。

 リンは、昨日僕がつけた情事の証・・・・を、全く隠すことなく登校したのだ。


 葵は、しばし呆然とリンの首の辺りを見つめていたが、突如ハッとしたようになり、目を見開いて僕へと向き直る。


「……まさか」


 不明瞭にそう呟いた葵は、強引に僕の首に貼られたバンドエイドを剥ぎ取った。

 僕はすぐに自分の手で首筋を隠したけど、葵に見られたのは間違いない。というか、こんな仕草が余計に葵のことを煽ったのかもしれなかった。


「反射的」としか言えないほどのタイミングで、葵はリンの頬をバチーン、と張った。

 校門の周りにいた生徒たちが、響き渡った音に驚いて立ち止まる。

 

「……なにすんの」


 リンは、動揺することもなく無感情に、まっすぐ葵を見つめ返す。

 はあ、はあ、と息を切らせた葵は、涙目になりながらリンのことを睨みつけていた。

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