第37話 落ちたって、思っていいのかな
校門を出て、二人でリンの家の方向へと歩いていく。リンは、いつものように僕の左側に立って、右手で僕と手を繋いだ。
駅を通り過ぎ、アンドロイド地区へと入っていく。
地区の境界線が明確にあるわけではない。ただ、景観がサイバーチックになっていくことと、おそらく歩いている人にアンドロイドが多くなっていくだけだ。
だからといって、アンドロイドしかいないわけでもない。この地区にだって人間は住んでいるし、働いている。それに、「アンドロイドのために働きたい」という志を持った人間もたくさんいるのだ。
そういう人間たちとアンドロイドが合同で設立したNPO法人には「アンドロイド専用ハローワーク」ってのも存在する。
本来なら人間と区別などするべきではないはずなのに、なにかしら差別されて就職できないアンドロイドも一定数存在するようで、彼らを支援するための組織として立ち上げられたらしい。そこには大勢の人間も働いている。
こんな組織を作らなければならない現状が、未だアンドロイドを敵視する人間至上主義者たちが大勢いることを示している。これは全世界的な傾向であり、先般の首相官邸襲撃事件のようなテロは、まだ無くなる気配を見せない。
こういうことを考え始めると、どうしようもなく胸が痛む。
リンと接するほどに、自分自身がアンドロイドを差別していた事実を突きつけられる。
「あ、夕真、この辺りのカフェでも寄ってから帰る? それなら私、お気に入りのところがあるんだ!」
「あのさ。もし、よかったらなんだけど、また君の家へ行ってもいい?」
「え!?」
リンは心底驚いているような印象だった。
まさか、僕がこんなことを言い出すなんて思ってもみなかった、というような。
瞳が水色に変化する。
リンの表情は徐々に変化し、ニンマリを超えて向日葵のような笑みへと到達した。
「……いいよ。夕真にそう言ってもらえて、私、めっちゃ嬉しいよ! 私、てっきりこの前のことで夕真を怖がらせちゃって、
君が、まるで本当の恋人みたいな表情で微笑むから。
「どうなんだろうね。何が正解かなんて、もう僕にもわからない」
「……どうしたの? 今日はなんか変だよ」
だとすればいつから変なんだろう。
もう、それすら。
「あの、『女の子の部屋に入りたい』なんて、男の僕が強要することじゃないんだけど、もし、よかったら、ってことで──」
「ううん! 嫌だなんて、あるわけないよ。飛んで火に入る──違った。だ、大歓迎だから!」
「その言葉選びは明らか失敗でしょ、どうやったらそれ反射的に出るの? それに、虫が火に飛んで入ったら、一撃で焼け死んじゃうよね」
リンは、言葉を止めて僕を見ていた。
真顔か、それとも微笑みか分かりずらい表情をして、水色を強めながら言う。
「……そうだね」
リンのマンションのエントランスを越えて、エレベーターに乗っても、僕らは無言だった。
そして、同じエレベーター内で浮かんでいるお喋りなはずのネリムさんも無言。ネリムさんが一体どんな心境でこの場面を見守っているのかと考えると、僕はちょっとだけ吹き出しそうになった。
認証して玄関ドアを開ける。
僕らが入ってから、後ろでカチャン、とドアの閉まる音がした。
この前、リンはここで振り向いた。欲情に光らせた、水色の瞳を僕に向けて。
でも、リンは今日、振り向かなかった。
一直線に、部屋のほうへ。
部屋の隅に荷物を置く。やはり彼女は、ずっと左手を使っていない。
その様子が、僕の思考を余計に変な方向へと狂わせている気がする。
「ブラック淹れるねー」
「うん。ありがと」
勝手に浮遊ソファーに座る。
はあ、と感嘆のため息を漏らしながら体を沈め、天井を見上げた。
適度に照度が落とされた部屋。高い天井で、シーリングファンがくるくる回っている。
鼓動の音が、徐々に大きくなってきた。
落ち着け、と心臓に手を当てて心の中で言い聞かせる。
リンがコーヒーをテーブルに置いた。
「ブラックお待ちぃ。あ、もうダメ人間になってるの?」
「ふ。即死です」
「はは。……ねえ、どうする? 映画でも見る? なんでも見れるよー、贅沢にもサブスクのやつ、いくつか入ってるから。どっちがいい?」
リンは、HMD (ヘッドマウントディスプレイ)を右手で掴んで僕に示す。
部屋で映画を観る方法は主に三種類。
モニターで観るタイプ、壁やスクリーンに投影するタイプ、HMDを装着するタイプ。
HMDにも種類があって、単に映像が見れるだけのタイプと、まるで映画の世界に入ったかのような視点で鑑賞できるハイエンドタイプ。
リンが渡そうとしたのがどちらなのかわからないけど、この部屋の高級感を見る限り、きっといいやつのほうだろう。
僕はそんなの持っていないから、普段の僕ならすごく楽しみだと思ったに違いない。
「じゃあ、HMDで」
「はい、どうぞ」
リンがサブスク動画配信サービスを操作し始める。
でも、僕はそんなことより、リンの振る舞いが気になって仕方がなかった。
リンはさっきからソファーじゃなくて、僕から離れたところにある、高さのある一人用の椅子に腰掛けている。
もしかして、ソファーだと手が当たって痛いんじゃないかと思った。
「ソファーに座りなよ」
「この前、大失敗しちゃったから。夕真が跡をつけたりするから、つい嬉しくなって制御できなくなっちゃった。ちゃんと自分で自分を抑えないとね! だから、気をつけてしっかりコントロールしようって決めたの」
はは、と微笑む表情に心を土台から揺すられる。
元々何かがおかしかったのに、「跡をつけられたのが嬉しい」と言われ、僕の理性のほうが完全にコントロールを外れ始める。
僕は立ち上がって、リンに近づいた。
「…………夕真?」
「左手が、痛いんじゃないの?」
「…………!」
リンが目を見張った。
リンも立ち上がり、すぐさま凍てつくような視線を空中に向ける。
とんでもなく低くなった声で、リンはコマンド・ビットを睨みつけながら言った。
「ネリム?」
「…………ごめん。本当にごめん」
「ダメ。絶対に許さない。今度会ったら
「あっ、あっ、あのっ、……亀甲縛り? 鞭打ち? 蝋燭っ? それとも──」
「フルコースだこの野郎」
「あうううううぅっ」
絶望なのか歓喜なのか判断しずらい絶叫を最後に、ネリムさんは黙った。
「リン、どうして言ってくれなかったの?」
「はは。……うん。まあ、敢えて言うことでもないかなって。仕事の話なんて、二人でいる間にするの、勿体無いじゃない」
「そんな問題じゃないよ。リンの体のことだよ!」
「心配してくれるの?」
「当たり前だろ。だって、君は僕の──」
「僕の…………?」
僕は、何を口走ろうとしたんだろう。
水色に燦然と輝くまっすぐな瞳のせいでもう何もかもがぐちゃぐちゃだ。
無防備な、まるで身を護る防具を全て捨てたかのような顔をして、リンは僕を見つめていた。
その表情に引き寄せられて、知らぬ間に僕はリンへと顔を近づけて。
柔らかな、ぷるんとした唇の感触を、僕の唇が感知した。
チョン、と触れるようなキス。リンは右手を僕の背中に回し、じっと僕の目を見つめる。
「……これって、落ちたって思っていいのかな」
またチョン、と唇同士を触れさせる。僕は左手をリンの背中に回した。
「……えっと」
「ふふ。夕真って、案外、悪い男の子なのかな。好きでもないのに、女の子にキスをしたの?」
チョン。
「あ……あの、ぼ、僕……」
チョン。
「大丈夫。どうしようもなかったんだよね。わかるわかる」
チョン。
「……どうしても、我慢できなくって」
ムニュムニュ。ちょっと長……
ぷはっ
「細かいことは後で考えよ? 私も、もう」
舌を入れ合い、絡め合う。
どれだけの時間が経ったのか、自分ではもうわからなかった。
自分の意思が関与していたのかすらわからないまま、ただただ互いの体を夢中で求め合う。
今思ったけど、キスの味って、ネットで書かれてたみたいに、イチゴとかレモンの味なんて全然しない。
唇の周りで乾いていく唾液の匂いとリンの肌の匂いが混ざった、生ぬるい女の子の味。
これって、人間とアンドロイドで違いがあるのかな。
生体組織は同じ。なら、同じか。
もし、リンとセックスをしたら。
そしたら、そこで体験する感触も、匂いも、味も、人間と同じ?
互いに感じる快感も、反応も……それによってきっと味わえるだろう幸せも、全部同じ?
もし、そうなら。
どんなのだろう。知りたいな……
ようやく唇を離したとき、リンはそのまま僕の首筋にキスして、ちゅうう、と吸った。
「
「気にしなくていいよ、ただのマーキングだから」
「えっ……何それ? 気にするでしょ普通」
「しつこいようだけどね、君は私に何をされても──」
「はいはい! もう耳タコですよ! 気にしませんよっ」
「ねえねえ、夕真もしてよ。それでおあいこ」
「なんのおあいこだよ。……まあ、いいけど」
リンの髪を手でよけて、首筋に唇を触れる。
サラサラとした髪が僕の顔を撫で、リンの肌から湧き出る匂いと、髪の匂いが鼻をくすぐる。
思考に霞が掛かったまま、仕返しとばかりに強めに吸ってやった。唇を離して確認すると、思いのほか、真っ赤に印がついていた。
「えっ!? これって、こんなにしっかりと赤くなるの!?」
「そうだよ。あはは、お揃い。明日の学校が楽しみだねー」
「わ、ハメられた。これはヤバい……」
自分の首を手で押さえてあたふたした。
悪ガキみたいな笑顔を作ったリンは、なんか満足そうだ。
「それよりさ。ネリム、一部始終を見てたよね?」
ああっ、あのっ、と裏返った声でネリムさんは何やら言おうとする。
「自主的に切ろうとか、思わなかったわけですか」
「ごめんっ! その、あの、なんか興奮しちゃって」
ふふふ、と二人で笑って顔を見合わせ、おでこをコツンとひっつける。
僕らは、またキスをした。
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