第33話 リンの部屋②
おそらく二人用だと思われる「宙に浮かぶソファー」に腰掛けると、僕の体に合わせて若干の形状変化が発生した。それと合わせて上下動を制振する浮遊装置が働いているようで、少しくらい乱暴に体を預けてもうまく衝撃吸収してくれて安心感がある。
僕が物珍しそうに部屋を眺め回していると、リンが飲み物を持ってきて、テーブルの上に置いてくれた。
「はい、どうぞ。媚薬なんて入ってないから」
「そういう怖いこと言わないでくれる? ありがと」
またこういうことを言う。さっきは演技だと言っていたし、だからいつもの調子に戻ったかと思っていたけどやはり戻ってなさそうだ。
ここへ来てからリンの様子が急激におかしくなった。今までも僕を落とすために演技で好きって言ったりしていた彼女だけど、今は絶対にそういう感じじゃない。
冗談抜きで野獣のような気配が漏れ出てくるのだ。それも、抑えきれないような、今にも暴発しそうな危なっかしい感じで。
もしかして、部屋に入った時点で詰みだったんだろうか……とか思わされてしまうくらいに。
リンは、僕と同じソファーに座った。
しかし、元はと言えばどうしてこうなったのだろうか。
何が何だか訳がわからない。ついさっきまで、僕は自分の家へ帰ろうとしていたのに。
やっぱり尾行なんてしたのが間違いだった。どうしてあんなことをしちゃったんだろう?
過ぎたことをクヨクヨ考えながら僕はコーヒーに口をつけた。
美味しい。銘柄とかはわからないけど、クセがなくて僕好みだ。
「このソファー、フカフカだから座り込んだら起き上がるの大変そうだね」
「浮いてるから、前に体重移したら傾いてくれて立ちやすいよ。でもね、そういうんじゃなくて、気持ちいいから起き上がれないの。起き上がるな、って言われてる感じで気持ちいい。ダメニンゲン製造機だからこれ」
「ホントそれ。ああ、めっちゃ気持ちいい。後ろに体重を預けるとゆりかごみたいだ」
ふふ、と微笑むリンの声を聞きながら、僕は背中に全体重を預けた。
ぐーっと沈み込んで、僕は仰向けに寝っ転がる体勢に。目をつむって、体をいっぱいに伸ばして、う〜んっ! と声をあげる。
ビーズクッションのように体が沈んで絶妙にフィットするのだ。
確かに、これはダメ人間になるぅ〜〜……。
人間を簡単に堕とす強力な快楽にひとしきり耽ってからふと目を開けると、隣に座るリンが水色の瞳で僕を見下ろしていた。
コーヒーを持ってきてくれた時より明らかに強くなったその光は、間違いなく彼女の感情の昂りを表していて……。
無表情の中に、さっきの野獣のような気配が見え隠れする。
僕は慌てて起き上がった。空気を変えようとして、別の話題を口にする。
「ひ、一人暮らしだなんて大変だね。僕は親といるのがしんどいタイプだから、ちょっと羨ましいところもあるんだけど」
「…………」
リンが押し黙る。
あれ? 空気変えるの失敗した!?
それとも、なんか良くない話題だったかな……。
焦りながら思考をぐるぐる回していると、リンは微笑んだ。
「私、親は二人ともいなくて」
「……そうなんだ。ごめんね、思い出したくないことだったよね」
「ううん。大丈夫。親がいないからかな。家族のいる家庭ってのに憧れるんだよね」
一刻も早く家を出たいと願う僕とはまるで逆の願望。
まあ、これは自分の置かれた環境によるものだろう。無いものねだりというやつかもしれない。
「その憧れを壊すようで悪いけど、弟は性格悪いし、父さんは自分の興味ばかりで鬱陶しいし、母さんはどうせ僕が親の期待に応えることなんてないと思って見放してるし。基本、晴翔に期待していて、僕のことはどうでもいいって感じだからさ。それがあからさまにわかって、子供の頃からほんと嫌で堪らなかったんだ」
「でも、お母さんはお弁当、作ってくれるでしょ?」
「そうだね。少なくとも青色のカレーは出てこなかったね」
「あ、バカにしたな。このっ」
「やめてっ」
リンが僕をくすぐりにきた。
脇腹が激ヨワの僕は、キャアキャア言いながら身をよじって悶える。
そうこうしていると──
やはり、というか、まあ途中から「やばいかも」とは思っていたが。
案の定、いつの間にかリンは僕の上から覆い被さるような体勢に。
いとも簡単にマウントを取られてしまう。
その上、このタイミングでリンはマジの顔だ。
虚になった目で、無表情に僕を見て──。
「リン……さん?」
「…………」
今度こそ、野獣現る。でも……
僕のほうにだって、リンを拒否しようとする力がなぜか湧いてこない。
「マジで危なくなっちゃう」という、さっき言った言葉そのままの衝動を見せるリンを目の当たりにすると、いろんな考えが頭の中を回り続けて僕の抵抗力を削ぐ。
それって、どういう意味で言ったの?
僕を襲いたいのを我慢していた、っていうふうに受け取れるよ?
そしたら、リンのほうが先に僕にイカれちゃってた、って意味になるよ?
僕に魅力を感じないまま、自分の魅力で一方的に僕を落としてやろうってんじゃなくて。
ゲームだとか、勝負だとか、そういうんじゃなくて。
リンは僕のことが本当に好き、ってことになるよ?
君は、それを、さっき白状したっていうの?
さっきの言葉を、そういう意味で捉えていいっていうの?
確信の持てない考えが、いつまでも頭の中に居座り続ける。
もしかすると、ただの妄想かもしれない。
そうだよな。妄想したことが現実だったことなんて、ただの一度もないんだから。
でも、僕がガードを固くしないとマジで危なくなっちゃう、って言ってたし……。
あ〜〜……。もう。わっかんないなぁ……。
まあいずれにしても、彼女は僕に拒否権など与えるような甘い奴じゃない。
今だって、リンの両手はがっしり僕の両手首をホールド。ソファーに押さえつけられて全く身動きは取れない。
当然の如く……ほら、やっぱり。次は僕へ顔を近づけてきた。それで──……
………………
ピピっ
妙な電子音を合図に、リンがガバッと起き上がる。
それから、心底ウザそうに小首を傾げて空中を睨んだ。
リンが視線を向けた先へ僕も視線を這わせると、そこにはコマンド・ビットが。
「……ネリム? 私、あなたに切ってって──」
「お楽しみのところ悪いけど、違うよリン、出動だ。現場はシンクレア東京・千代田区、超小型
リンはふう、と息を吐く。
僕の唇に人差し指を押し当てて、その指を自分の唇へそっと触れた。
「……しょうがないなぁ。いいとこだったのにね。夕真、一緒に部屋を出てくれる?」
「うん、わかった。……大丈夫? 今、ネリムさん、なんかとんでもないことを言ってたけど」
「大丈夫、大丈夫。夜のニュースで結果を見て」
「そんなすぐに解決するの……ってか、今、『リューク』って言った!?」
「はは、
玄関で座り込んだリンは、何やらサイバーチックなブーツを履いた。
リンがブーツに足を通すと、シュウン、と音を立ててブーツがリンの足のサイズに締まる。
「夕真、玄関を出たとこでお別れだよ。また明日、学校でね!」
「え、うん」
僕たちが廊下へ出ると、玄関ドアがカチャっと閉まる。
瞬間、リンは解放廊下の手すりをヒョイっと飛び越えた。
「────っっ!! リンっっ、」
ここは一〇階だぞっ!?
下階を確認するために僕が手すりに寄りかかろうとした時、リンは下じゃなくて、
「っっ!?」
手すりから体を乗り出して上を見る。
信じられないが、リンはマンションの外壁をすごい速さで駆け上がっていった。
「手すりに足をかけてジャンプ」とかではなく、完全に
リンはそのまま屋上へスッと姿を消す。
「…………なんか、別世界の出来事だよな」
ま、凡人で一般人の僕にはこれ以上どうしようもないことだ。リンの言う通り、大人しく帰ることにしよう。
僕は、肩をすくめてエレベーターのほうへと向かった。
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