第15話 登校二日目の朝


 登校のために学校への道を歩くのなんて、ウザいだけだと思ってた。

 小学校の頃に少しだけサッカーをやっていた僕は、走るのだけは比較的得意なほうだから、別に歩くのがしんどいとか、そういう訳じゃない。


 単純に面倒くさい。家から学校までの所要時間は三〇分程度。歩くのが苦手な人にとってはまあまあな運動時間だと思う。


 いつもならその道のりを一人孤独に歩くのだが、今日の登校はちょっとだけ事情が違った。

 リンが、僕の家の前まで来てくれる、と提案したのだ。どうせ前を通るから、って。


 女の子と一緒に登校するなんて初めての経験で、どうしていいかわからなくなる。

 僕は家を出る前に、晴翔のワックスをこっそりパクって髪をセットしようとした。なんとなく、こうしたほうがいい気がしたからだ。


 洗面所の鏡を睨みながら試行錯誤してみたけど、そんなこと今まで一度もやったことがない。

 うまくいってない気がする。なんだか、僕じゃないみたいで気持ち悪い。


 結局シャワーで流してドライヤーで乾かし、いつも通りにしてしまった。とりあえず、顔を洗うとか歯を磨くとか、そういう身だしなみのことだけキチンとすることにした。


 そもそもこれはリンと僕との勝負なのだし、僕は断じてウキウキしているわけじゃないから、そんなに気合を入れる必要もないのだ。何をやっているんだと自分で自分をたしなめる。


 だから、こんな僕の様子を家族にだけは知られないようにしたかった。 

 が、家は狭いし朝の時間帯なんてみんな出掛ける支度をする。ドライヤーで乾かすところを晴翔に見られちゃったし、ブオオオ、という音もリビングに聞こえちゃう。だから家族には一撃でバレていただろう。

  

 全員、別に茶化すこともなく、ただ無言で僕をジロジロ見てきた。

 鬱陶しい。言いたいことがあるなら言え、って思ったが、言われたら言われたで鬱陶しかったと思し、だから、彼らの対応はむしろ英断だったのだと思うことにした。

 

 いつもの如く、晴翔と時間が被らないように、待ち合わせは少しだけ早めに時間設定する。

 場所は、団地から公道に出る出入口のところ。


 五号棟のエントランスを出て団地の敷地内を歩き始めてすぐ、街路樹の向こうにリンの姿が目に入る。 

 僕は、ここで心に鞭打って気持ちを引き締めた。

 

 すでに何度も後悔していることではあるが、昨日の「手繋ぎ下校」はとんでもない失態だ。あれでは落ちていたとのそしりを受けても仕方がなかった。


 もっとスマートに、なんら緊張することなく「あ、手を繋ぎたいのね」とサラッと対応できれば落ちた云々の話には到底至らなかったはずなのである。そういう想定で動いていたのにもかかわらず、圧倒的攻撃力で捲られた格好だ。


 あの有様では今後が思いやられる。童貞には辛い。ってか、人間やらアンドロイドやらってんじゃなく、単純に「童貞は落としやすい」って結論にならないか?

 いや、もちろん全然落ちてはいないんだけどね。

 

 この勝負の勝敗がどう決するかは当初取り決めしなかった。つまり、今のところ勝敗は申告制・・・だということだ。

 僕が落とされたことを認めなければ落とされたことにはならないのだが、リンが諦めない限りこの勝負は終わらない。

 つまり、これは根くらべ・・・・の勝負。

 


 よぉし……。



「夕真、おはよっ!」

「わあっ」


 リンはいきなり僕に真正面から抱きついてきた。

 彼女は僕の肩のあたりに自分の顎を置くようにしたので、いい匂いのする髪が僕の頬にサラサラと触れた。

 そのせいで、一気に顔が熱くなる。本日の攻撃・・は、もう始まっているのだ。

 

 初っ端からこのっ

 誤認するな! リンは、アンドロイド! アンドロイド!


「こ、こんなところで抱きついちゃ、誰かに見られちゃうよ」

「私ね、一日一回は夕真に抱きつくことにしたんだ」

「えっ! どうして!?」


 突如として謎の決意表明をするリン。

 やっぱり彼女は僕の予想の斜め右前方を行く。


「あと、一日一回以上は手を繋いで、一日一回以上は、夕真のことを『好き』って言うの」

「ちょっ、それ恥ずかしいよ。意味わかんないんだけど」

「君は自己肯定感低め男子だからね」


 自己肯定感と、一日一回以上すると宣言した今の行為は、一体何の関係があるんだ?


 真剣に考え込んでいると、リンは突然、真正面から僕のほっぺたを両手でクニクニと触って、それから頬をガシッと掴んだ。

 リンの瞳が、サアッと水色を帯びていく。



「へへ。夕真。大好き」



 …………うぅっ



 想定外の破壊力。他の方向を向けなくされた僕は、照れ笑いしたリンの顔を至近距離からまともに見せられる。チンチンに熱くなった顔がもう、どうにもできない。

 

 ああ、これだから童貞は!

 このままでは展開が一方的すぎる。防御が無理なら、反撃だっ!


「こ、ここには他に誰もいないんだから、好きとか言わなくていいんだよ! 君は単に僕を落としたいだけだろ。そんな嘘ついてまで──」


 突如、リンの目が真剣マジな空気を帯びた気がして僕は口が動かなくなる。

 頬をがっしり掴まれたまま、僕は強い意思を宿した水色の瞳に捕縛された。

 

「どうして嘘だって思うの?」

「えっ……いや、だって君は……」

 

 少しだけ早くなった吐息の音が聞こえる距離感でじっと見つめ合う。


 そりゃ嘘だって思うのが普通だろ。これは勝負で、それは君が言い出したことなんだから。なのに、どうして瞳を水色になんてするんだよ……。

 さっきみたいなセリフを言うのは、いくら建前とはいえリンだって恥ずかしかったに違いない。だから瞳の色が変わったんだ。きっとそうだ。


 どんなに思考を巡らせても、死に体・・・であることに変わりはない。このままじゃ、リンがちょっと顔を近づけるだけでキスされてしまうのだ。

 防御も攻撃も封じられてほぼ詰んだ僕の前で、リンは頭をブンブン振った。 


「……はは。あぶね。今日のところはあんまりイジメないでおいてあげるよ」

 

 後ろで手を組んで、腰から体を傾けて微笑む。艶のある綺麗な黒髪が、まっすぐ垂れてサラッと揺れた。

 全力疾走した後のように鼓動が暴れる僕は、朝イチから繰り出された一連の猛攻撃・・・を振り返ってハッとする。



 きっと、フェーズが変わったんだ。



 僕を落とすというリンの攻勢は、次の段階に移ったんだ。僕のことを好きだと口にすることも、その戦略のうちの一つ。


 そりゃそうか。リンの目的は性的魅力だけで落とすことじゃなく、心ごと僕を落とすこと。それによって、アンドロイドは人間すらガチで落とせる、人間になど劣ってはいないと証明することだ。


 ならば、相手を惚れさせるために「好きだ」と伝えることは、もっともシンプルに刺さる武器だと言える。僕はついぞ葵にその一言を言うことはなかったが……。


 そっか。そうだよな。いや、危なかったぁ……朝っぱらからマジで勘弁してほしい。


「ほんと、やめてよね。『好き』とか反則だから」

「ん〜〜……でもさ、そもそも私が何を言ったとしても、夕真がなんとも思わなければ落とされたことにはならないよ? 最初に言ったでしょ。私に何をされても君は私に落とされたりしないんだよね、って。ちゅーか、反則だと感じるくらいにドキドキしちゃったの? ならぁ、それはぁ、すでにぃ、落とされているのではぁ〜〜……?」


 後ろで手を組んだまま意地悪そうにニヤついて、下から見上げるように僕の顔を覗き込んでくる。

 こういう仕草がいちいち可愛いの、腹立つ。


「だからね、僕は童貞だから。『童貞ハンデ』を利用して落とすのがほとんど反則だって話」

「何それ。意味わかんない」

「いいんですぅ、わかんなくて」

「むぅ……そんなの、最初に言ってなかったもん」

「まあ、そりゃあ、そうなんですけどね」


 確かに、戦いのルールとして特に取り決めた話じゃない。今更ぐだぐだ言うほうが反則か。


「わかったよ。好きって言うのもアリ、だね」

「当然ですぅ! それはそうとさ、今日は帰りにちょっとだけ買い物していかない?」

「何か欲しいものでもあるの?」

「ありまーす。愛を感じてもらうために」

「『好き』が『愛』に変わってるけど」

「細かいな! 血液型、当ててあげようか?」

「何型って言おうとしてるかもうわかったよ。てか偏見だからそれ」

「じゃあ違うんだね。やっぱ偏見は良くないねー」

「そうだよ。まあ、違わないけど」

「違わないんかーい」


 こんなしょうもないやり取りが、やっぱなんかちょっと楽しい気がするけど、これは異性がどうとかって問題じゃない。きっと、友達的にというか、言うなれば「人と接する楽しみ」だ。

 でも、そういう楽しみを僕は今まで知らなかった。これ、リンが教えてくれた、ってことになるよなぁ……。


 くだらないことをやってる間に、もう一〇分間くらい過ぎていた。

 早めに家を出たアンドバンテージをここで浪費してしまった。

 もうすぐ晴翔が来る──

 

 と思いながら五号棟を振り返ると、ちょうど晴翔が出てくるところだった。

 嫌な予感でドキドキしていると、あいつは案の定、僕らを見つけた途端に迷うことなくこちらへ向かって歩いてきた。


「兄ちゃん、まだこんなところにいたの。あ、初めまして。俺、弟の晴翔って言います」

「初めまして、リン・ラミレスです! この度はお兄さんとお付き合うぃっ」


 僕は瞬間的にリンの脇腹をつつく。

 よくこのタイミングでつつけたと思う。リンが何を口走るか事前に予測できていなかったら間違いなく最後まで言わせていただろう。なにせこいつは、不要な外堀埋立作業のために僕の両親にまで取り入ろうとしたのだから。


「何すんの! 脇腹弱いんだよっ、このっ」

「ちょ、やめてやめて! 僕も弱いんだから──」

「……へぇ。仲良しなんですね」


 微笑んだ晴翔の目は笑っていなかった。


「リンちゃん、そんな大っきいショルダーバッグ抱えて、部活かなんかしてるの?」

「ん? いやあ、荷物が色々あるだけ。部活はしてないよ」


 年下のくせに、年上女子に「ちゃん付け」だと?

 

 妙な馴れ馴れしさを感じてイラっとする。

 こんな晴翔の態度のせいで、ついさっきまで影も形もなかった考えが一瞬にして僕の頭を埋め尽くした。


 僕は別にリンと付き合っているわけじゃないが、仮にリンが晴翔に好意を抱いているかのような態度をとったら、僕はどんな気持ちになるだろうか。


 多くの女子が晴翔を見て開口一番「カッコいいですね」やら「わぁ、イケメンだ」やら言うように、そんな言葉をリンの口から聞いたりしたら、僕はどんな感情を抱くだろうか。あまつさえ、晴翔のことをじっと見つめて頬でも赤らめたりしたら……。


 胸に渦巻いた負の感情で鼓動が早くなっていく。

 僕は胸の辺りを右手で掻くように掴んだ。


 起こってほしくないことというのは、往々にして現実に起こってしまうものだ。

 事態は、その一歩目を歩み始めようとする。晴翔は、多くの女子が虜になる爽やかな笑顔をリンへ向けた。


「それにしても、ほんとリンちゃん、すごく可愛いですね。兄ちゃんにはもったいないな」


 晴翔の態度によって形作られた見えないナイフが、僕の柔らかい心臓に突き立てられる。

 軽くひと押しされるだけで根元までスッと入り、いつでも命を奪えるところに……。


「そう? ありがと」


 結果として、どんな感情を抱くかという僕の疑問への回答は得られなかった。

 リンは僕を壊す言葉を口にすることはなく、瞳の色も茶色のまま、ただ社交辞令的にニコッとしたのみだった。


 と、そこへ六号棟のほうから葵がやってくる。


「……おは。そっちも待ち合わせ、なんだ」


 こっちは顔すら笑ってない。それどころか、冷たい目で突き刺すように僕らを見てきた。

 

 朝っぱらから気まずい。

 リンは「ええ」と素っ気なく答えてニコニコしながらも、おそらく敵対心でギラギラと光らせたのであろう水色の瞳を葵に向けていた。

 ちょうどそのとき落ち葉が舞ったが、まるで二人の女の子から放出される闘気がぶつかり合ったせいで渦を巻いたように見えてしまうくらい、リンと葵はガンを飛ばし合っていた。


 晴翔と葵は僕らの前を歩く。僕らは、向こうの会話が聞こえない程度に距離を離して、その後ろを歩いた。

 歩き始めてすぐ、前の二人が手を繋ぎ始めた。リンはそれを見るなり僕の手をまさぐるようにして、すぐに僕と手を繋ぐ。


 葵と晴翔の様子を見せつけられて、僕は胃のあたりがチクチクしたけど、ひとりぼっちだったらもっとひどい精神状態だったと思う。

 きっと死にたくなっていたに違いない。本当に、リンのおかげで命拾いしている。


 心のどこかでホッとしながら横にいるリンに目をやると、リンはう〜ん、と唸りながら首を傾げていた。


「なんか全然意味わかんないんだけど。弟君と付き合ってるならさ、いちいち私たちに突っかかってこなくて良くない? ねえ、葵ってさ、どういう人なの?」


 リンの瞳は、水色から焦茶色へと無段階にゆっくり変化している最中だ。


「どういう人って?」

「ほら、性格的なところとか」

「うーん……小学生の頃の記憶しかないけど、寂しがり屋で、かまってちゃんな子、って感じかな。僕は結構一人でも大丈夫なほうっていうか、むしろ一人好きだったりするんだけど、葵はいつも、ゆうちゃんゆうちゃん、って言って僕について来てたな」


 かれこれもう五年以上前のことだ。

 かなり前の記憶だから、細かいところをそんなにはっきりと覚えている訳じゃないが、大きなところで言えば間違いない。


「なんか、今では全然そんなふうに見えないね」

「そうだね。今でも当時の名残があるところっていうと、ちょっと悪そうな笑顔かな。あの頃、葵は暴力的だったっていうか、僕はしょっちゅう叩かれてて。ついイジメたくなるとか言ってさ。よく馬乗りになられて、死ぬほどくすぐられたよ。だからかな、今でも葵の笑顔は、どこか悪そうに見えるんだ」

 

 叩かれようがくすぐられようが、むしろ僕はそんなやりとりが好きだったし、その時にだけ葵が見せるなんとも言えない表情も好きだった。


「晴翔くんの性格は、夕真とは似てないよね?」

「そうだね、まるで違うよ。どっちかっていうと正反対なんじゃない。性格だけじゃなくて見た目も正反対だったでしょ?」

「確かにね。『ちゃん付けすんな』って、よっぽど言ってやりたかったけど」


 なるほど、それを不愉快に思ってたのか。

 そういや僕を助けてくれた時にネリムさんとやらにも言っていたな。


「じゃあ、なんで葵は晴翔くんなんだろうね」

「ええ? そりゃまあ、当然……そういう人・・・・・が好みなんだと思うけど。葵は『カッコいい人が好き』って言ってたから。本当に好みのタイプなのは晴翔のほうで、だから僕は付き合ってもらえなかったんだよ」


 自分で言っていて辛くなる。

 風が前のほうからヒュウっと吹いて、葵の匂いが漂った。

 リンは僕の手を引いて歩行速度を緩め、匂いすら届かない距離へ僕を退避させた。

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