第4章 3はすべてのはじまり(7)
書斎に戻るとラルフとアイビーが話しているところだった。
「マクシミリアンは帰ったよ」
「ああそう」
「ブラッド」とアイビーが言った。「実はわたしの父の病院にあなたの妹さんを治験メンバーとして加えてもらえそうなの。今日はそれを報告にきたのよ」
「え?」ブラッドは驚いた。「きみのお父さんは医者なのかい?」
「ええ。殆ど病院は兄に任せきりで父は研究に没頭しているんだけど。ラルフから聞いたの、妹さんのこと。父の病院もips細胞の開発メンバーに加わっているのよ。あなたはわたしの命の恩人だからってお願いしたら快く引き受けてくれたわ」
「本当にいいのかい?」
「もちろんよ」
「あ、ありがとう。アイビー」ブラッドはアイビーの手を取って喜んだ。「ありがとう、ラルフ」
「僕は何もしてないさ」
「家に連絡してくるよ!」
ブラッドは電話を掛けるために書斎を飛び出していった。それを見たアイビーとラルフは目を見合わせて笑った。
アイビーが帰ると、ブラッドはラルフに聞いた。
「ところでマクシミリアンにあんな啖呵を切ったけど、本当にここに住むのか?」
「ああ。もう少し何か策がないか考えてみるよ。それにエリザベスの鏡があるだろ。あれをここに置いて自宅に戻ることはできないし、あんな危険な物を自宅にも持ち込めない」
「魔導書と地獄への鍵だけでも危険なのにあの鏡まで所有するなんて怖いもの知らずだな」
「僕が怖いのは人間だけさ。ところできみはどうする? カーラもいなくなったし、今回の仕事は終了だ」
「俺か? 俺はきみから給料を取り立てなきゃいけないからここに残る。あの連載だけじゃあこの辺に部屋を借りるのは厳しいからね。それに会社みたいに人が多いところで仕事をすると人の裏の顔が見えてしまって息苦しい。この幽霊屋敷の方がマシだと気づいた」
「なるほど。もちろん歓迎するよ」といってラルフは微笑んだ。
するとドリアン卿がミャアと鳴いた。
「あ、しまった。卿の夕飯の時間だ」外は既に暗くなっていた。
二人は慌てて二階に上がり、キッチンで卿に夕飯を食べさせた。
「どんな時にもご飯の催促だけはするからお前は大した奴だ」ラルフはドリアンの頭を撫でた。
「けどマクシミリアンのいうとおり、何か手を考えないとこの屋敷を手放さなければならなくなるぞ。あれは脅しじゃない。シャンデリアすら直せないんだから」
「うん」
「このままだと、お前もまた飼い主が変わるんだぞ、ドリアン。いい手はないか?」
ブラッドが声をかけると、なぬ! という感じでドリアンが顔を上げた。そしてご飯をほったらかしてキッチンを出て行った。
「ご飯を残したぞ。具合いでも悪いのか?」
ラルフが驚いて立ち上がった。ドリアンはリビングの出口まで行って振り返るとミャアと鳴いた。
「なんだ、ついて来いっていっているみたいだな」
「行ってみよう」
二人はドリアンの後について三階に上がった。廊下を歩いてとある寝室の中に入り、さらにその寝室のウォークインクローゼットの中に入っていった。二人が続いてガランとしたクローゼットに入るとドリアンが消えていた。
「ドリアン?」驚いた二人が呼ぶと壁の中からドリアンの鳴き声が聞こえた。声の聴こえる壁に耳を当てようと手で触れると壁板の一部が反動で戻ってきて隠し扉であることが分かった。
クローゼットの中は美しい幾何学模様の壁紙が施されているので扉の切れ目がまったくわからなかったのだ。
その秘密の階段は二階の二つ並んだ客間を隔てる空間にあった。隣室との境界が互い違いになったウォークインクローゼットになっていて、そのウォークインクローゼット同士の境界にわずかな空間があり狭い階段になっていたのだ。
扉は軽く押せばその反動で戻ってきて少し開く。その隙間に手を入れて横にスライドすれば引き戸が開く。引き戸にはバネのついたドアクローザーがついているので手を離せばまたゆっくり閉まる仕組みになっていた。
「こんなところに隠し扉があったのか」引き戸を開閉させながらラルフが言った。「留め具が朽ちてを外れたから猫でも軽く押せば開けられるようになったんだ。卿は隙間に手を突っ込んで開閉させていたんだ」
「だからいつもドリアン卿がどこにいるかわからなかったのか。泥棒が入ったときもここに隠れていたんだな」
二人は懐中電灯とカンテラを用意して隠し階段を昇ってみることにした。
まずラルフが先に昇り始めた。階段を上りきったらそこはいきなり宇宙空間のように暗かった。ブラッドとドリアン卿も続けて上がってきた。用意していたカンテラを階段付近に置くと「いいか?」とラルフがいい、スイッチを入れた。
するとそこは屋根の構造が見える窓のない屋根裏空間で、部屋中に白い布が掛かった荷物が置いてある。一部を取ってみるとアンティーク金貨、銀貨、宝飾品、絵画、銀食器、その他の調度品など芸術品や美術品の数々が山積みになって並んでいた。
「見ろ! エリザベスのコレクションだ!」周りを見回しながらラルフがいった。
「ああ。本当にあったんだ! しかも保存状態がめちゃめちゃいい。なんて綺麗なんだ」
「だろ?」ラルフは叫んでガッツポーズを決めた。「すごい! すごすぎる」
二人はハイタッチをして喜んだ。その横をドリアン卿が勝手知ったる我が家のように歩き、目の前に置かれたカウチの上にぴょんと飛び乗ると主のように横たわった。
「お前、いつもそこで寝起きしていたのか」
ドリアン卿は得意げに唇の周りを舐めた。
「見ろ、この絵はフェルメールの『合奏』だ。一八九二年にエリザベスがオークションで落札してから行方不明になっていたけどここにあった。その隣はレンブラントの『ガリラヤの海の嵐』。あの絵一枚だけで十億はくだらない」
「きみはこれをたったの六億で手に入れたんだ」
「うん。やったぞ! これでこの屋敷を手放さなくて済む。よかったなドリアン卿」
ドリアン卿は喉を鳴らした。
「こんなにすごい財宝どうするんだ? きみが調度品付きで屋敷を丸ごと買ったんだから全部きみの物だよな」
「ああ。けどこの宝の半分はきみのものだ」
「え?」
「一緒に探してくれたんだから当然だよ。受け取ってくれ」
「本当に? やったあ! ありがとう」
ふとブラッドはドリアン卿が横たわっているカウチの後ろの白い布のかかった物が気になった。
ラルフが白い布を剥がすと若くて美しい女性の肖像画が現れた。女性の背景は真っ黒で手に持っているのはタロットカードのように見える。
「きっとエリザベスだ」ラルフがいった。
「うん。こんな女性だったんだな」
陶器のような白い肌、艶やかで波打つ長い黒髪、そして黒く大きな瞳が印象的だ。目が合うとそのまま吸い込まれてしまいそうで魔性という言葉にふさわしかった。ラルフはいつまでもその絵を見つめていた。
それから二人はローレンス家に出入りするオークションハウスの担当者を呼びコレクションを丹念に調べて査定してもらった。その中のいくつかを売ってラルフは屋敷を改修することにした。
さらに二人でお金を出し合って、難病の人を支援するドリアン基金を設立することにした。それでもコレクションのお金はあり余るほどだった。
+++
ある日、いつものように二階のリビングで新聞を読んでいたラルフがいった。
「きみの連載は打ち切りにもならずに続いているから驚きだな」
「残念ながら評判が良くて、次の連載のオファーが来ているんだ。このままいけば近いうち本にもなるかもしれない」とキッチンのカウンターでパソコンのキーボードを叩きながらブラッドが答えた。
「本当に? 物好きは僕だけじゃないんだな。それだけ需要があるってことだ。実は怪奇コンサルタントでも始めようかと思うんだ。何しろ僕は魔導書と地獄への鍵を持っているし向いているんじゃないかと思う」
「魔導書と鍵を持っているけれどきみはまだあの鍵で魔導書を開けていないじゃないか。まだ新しい鍵の所有者じゃないんだぞ。何で開けないんだ?」
「鍵まで取ったらエリザベスが気の毒な気がするんだ」
「は? 彼女は悪魔だぞ。気の毒に思うなんて、信じられない」
「けど彼女は僕らに危害を加えなかったじゃないか。彼女はこの家で自由に動けたからやろうと思えばできたはずなのに」
「ああ、そういえば……そうだな」
「彼女がいいというまで地獄への鍵の代理人のままでいいさ」
「本気か?」
「オークションハウスの担当者が言っていたよ。エリザベスのコレクションはちゃんとした来歴がある彼女が正式に手に入れた物でしかも稀に見る一級品ばかりだって。きっと自分が復活した時に備えて、あそこに隠していたんだろうな。カーラのいったことはでたらめさ。エリザベスの審美眼は確かだった。
それにあの魔導書の使い方について彼女の怒りが収まったらまだまだ聞いてみたいことがたくさんあるんだ」
ラルフはエリザベスの数あるコレクションの中から唯一あの肖像画だけを書斎に飾った。そしてときどきその絵を眺めているのをブラッドは気づいていた。
だがエリザベスはあれ以来ラルフの呼びかけには応答しなくなり沈黙を守っている。次に呼びかけに応えるのは百年後かもしれない。
「ひょっとしてエリザベスを気に入ったのか? もしかして好み?」
「まさか、あんな鏡はこの世に二つとないから大事にしたいだけさ。それより怪奇コンサルタント、きみは手伝ってくれるだろう? 二人でやってみよう。面白そうじゃないか」
「二人? 知ってるか? 2は最初の不吉な数でバランスが悪いんだ」
「いや、ドリアン卿がいるから3だ」とラルフは横に坐っているドリアン卿に触れた。「3は『すべて』と呼ばれる最初の数。つまり3は『すべて』の始まりだ。依頼が来たらまずきみが話を聞きに行ってくれ。
きみなら相手がインチキか本当に困っているか見分けられるだろう。この手の話はインチキが多いんだ。殆どが金儲けか、有名になりたいか、重度の精神障害だ。本当なら僕が行く」
「冗談だろう。もう心霊現象は懲り懲りだ」
「ドリアン卿を連れて行ってもいいぞ」
「聞いてるか?」
「じゃあ次の連載はどうするんだ? ネタが必要だろう?」
「それは……」
実は俺がここに戻った理由。どんなときもブレずにご飯を要求してくるドリアン卿とどんなときも絶対動じないラルフをちょっぴり尊敬しているからだ。もちろん執筆をつづけるためもある。けどネタよりも、もうちょっと人と違ったことをしてみたいと思ったのだ。この変わった男と不思議な猫と一緒に。
「ほら。ちょうどここに面白い記事が載っているんだ。ウィルミントンの通称『レッドハウス』の住人が怪奇現象に悩まされているらしい。僕はこの屋敷を見たことがあるんだけど、赤レンガを積み上げた外観で、急勾配の三角屋根を持つゴシック風の美しい屋敷なんだ。ここに行ってみないか?」
「まあ……行くだけならいいけど」
「よし、決まりだ!」
「けどウィルミントンは遠いだろう。まさか!」
「きみの連載に合わせて、僕らのスタイルで行こうぜ」そういうとラルフはスマホを取り出し電話を掛けた。相手が応答するといった。
「やあ、アイビー。久しぶり。元気ぃ? あの黄色いフェラーリなんだけどさ…」
完
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