楽譜

「やっぱり」

ああ……やっぱりそうくるよね。

「書けたんだね、楽譜」

晴歌なら。

「弾ける?」

晴歌なら……と勝手に期待した、のに。

「弾けない……ごめん」

どうせなら無理やりにでもいいから引っ張っていってほしかった。ううん、いつもの晴歌ならそうする。弾ける? なんていちいち訊いたりしない

どうして今日に限って……。

楽譜を入れてきたバッグ、そこの音符を強く睨みつける。

こうでもしてなければ、この想いは晴歌に向かってしまう。


「今日はここまで。また明日ね」

「え?」

私は、ほとんど走っているような速さで、晴歌の横を通り過ぎる。

呼び止められても振り返らないようにしていた。

でも、というか、やっぱりそうはならなかった。

晴歌の、え? という声が今日は最後になった。




私らしくない。

「今ごろ気づいても遅いっつうの。」


最初から気づけてた。どころか、最近はさらにひどくなっていたのに。

朱音の音楽への違和感。


気づけてたのに!

「なにやってんだ!」

自分のことばっかりで。イヤなことは全部後回しにする。

朱音が目の下に隈を作っていることよりも、思っていたことが当たっているのかを聴きたくて、そこからはただ突き進むだけ。


なにやってんだ……。


渡された音符が書かれた紙。楽譜。

不安の目をした朱音が、私のことを見つめているように感じて情けなく。かつ、恥ずかしくなる。


「弾いてみよう」

独りぼっちの教室に声が響く。

こんな自分でも少しはマシになれる。きっと……。

だってここには、”二種類”の音が書いてあるから。


音符と、『コード』。

さすがというか。


だから、やれることはひとつだ!




「楽譜、晴歌に渡したままだ……」


昨日寝ないで書いた楽譜。


「まだ一回も弾いていないのに」

私は、本来は黒い、白くなったカバーを思い浮かべる。


昨日の帰り、楽器屋で楽譜を買った。

近くになかったから、街まで行かなければならなかった。

久しぶりにイヤーマフをしっかり耳に密着させ、電車に乗って着いた繁華街は、雲掛かっている空の光を、ビルの影がさらに暗くしていた。

「はぁ」と、後悔のため息をついてしまった。私は、神妙な表情をしていたと思う。

そんなだから、楽器屋を見つけてもなかなか店内には入れずに、ただ興味なさげに通り過ぎるだけになってしまっていた。


『いらっしゃいませ』


だから驚いた。

その声を聴いた瞬間は、なにがどうなって、今こうして楽器屋の店内に自分が入ってしまっていたのか。

そして、

「楽譜って売ってますか?」

と、声にしてしまっていたことに。


『楽譜ですね。こちらです』

そういって振り返った店員が作った風。


ああ、だからか……。


向こうは憶えてるはずがない。

だって、あの時私はたくさんの雑音のひとつに過ぎなかったから。


『こちらでよろしかったでしょうか?』


「はい」


受け取って、会計をして、店を出て、電車に乗って、家に帰って……。

店を出てからずっとイヤーマフをし忘れてしまっていたことに、ベッドに横たわってから気づいた。


一瞬の出来事。彼の風。

だから書けたのかもしれない。


今なら思える。

あの風なら、粉雪のようなホコリを、ううん。それどころか、カバーそのものを巻き上げ、二度と掛けられなくできるようにどこまでも吹き飛ばしてくれる。


でも。

それはなんだか悔しい。


「書けたんだから……大丈夫」


私の指が憶えてる。

なら、やることはひとつだ。


「弾こう」


すでに私は玄関のノブに手を掛けていた。

勢いよく開けたドアがガタンと、どうしてかいつも違う音が鳴って閉まる。

靴を脱ぐカツカツという音がGに鳴って床のタイルからする。

スリッパに履き替える間もなく、自分の部屋までの廊下をパタパタとFの音を出しながら歩き、階段をDで登る。


普段通りのBで部屋のドアを開けて中に入った。

でも、それは間違って聞き取ってた。


「ハア、ハア、ハア……」

私の荒い息遣いがシンクロする。

半音だけ上がった、B#で!

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