無音
あの高校に入って最初のこの夏休みという時間。
暑さ。湿気。それらが混ざり生まれる生温い風が、気持ちよく、私の肌に久しぶりに伝わっていた。
それなのに。
「……今日はどうして学校行ったの? もしかして部活?」
もしかして? その”揺れ”に腹が立つ。
「べつに」
「……そう」
あの時から、唯一聴くことができた声が消えた。
「お友達はできた?」
「……べつに」
嘘ではない。
この曖昧な返事は、この人に晴歌のことを知られたくなかっただけ。
私はただ目の前に置かれたチョコレートケーキを口に運ぶことだけに集中する。
「そんなに急いで食べなくてもいいでしょ」
目を合わせないままでそういう。
揺れた空気が伝わる。
でも、私は食べるリズムを変えない。
カタンと、フォークを、食べきった皿に落とした音と同時に私は席をたった。
そのままで部屋を出ようとしたら、
「朱音!」
と、声が聴こえた。
「……ごちそうさまでした。」
D、C、Bで部屋に戻る。
「やっぱり無理だ……あの人に頼むなんて。でも、だからってピアノはイヤだ。絶対に弾かない」
けれど裏腹に、私の意識は、どうしてもそこを見てしまう。
小学生に上がったと同時に買ってもらったアップライトピアノ。
本来、埃からピアノを防ぐ役割の専用の黒いカバーが、今となってはホコリをかぶって、わずかに白がかっている。
真夏なのに粉雪みたいで、私のチグハグさとシンクロする。
閉め切っていた窓を全開にすると、吹き込んだ夏真っ最中の南風が、ホコリ雪をわずかに舞わせる。
「だからって、どうしろっていうのよ」
窓に向かって、外へと吐き出すように文句をいう。
その途端、急に風向きが変わった。
「なに!? これ!」
咄嗟に髪を押さえ、中腰になって身構える。
南側しか開けていないはずなのに一瞬のそれは、巻き込むようにして部屋中のものを次々と揺らし、落としていった。
「ふっ……何考えてるんだろ、私」
思わず私は、その『風』に期待してしまっていた。
けれど、雪をかぶったカバーはその白色を少し薄くしただけで、望んだ結果には決してなるはずもなかった。
「はい、これ」
次の日、いつものように練習のために学校に行き、普段通りのマイペースで遅れて教室に入ってきた晴歌に向かって、出会い頭にあるものを渡した。
「もしかして楽譜?」
「そう」
私が答えると、過程の一切ない変化で、普段の何倍もの笑顔を晴歌がする。
と同時に、声にならない声を上げ、そのまま空に飛んでいきそうな勢いのジャンプでもって、十分すぎる嬉しさを私に見せた。
今朝、居ずようがなくて、普段よりも早く家を出ることにした。
夏休みの日常使いとして久しぶりに引っ張り出した、黒地に五線譜と様々な音符が書かれたバッグ。
徹夜で書き込んだ楽譜を、そこに入れようとしたところで一瞬、その手を止める。
「……」
久しぶりの徹夜。
鈍く、靄がかった感覚のせいにして、本当は気づけている、『これでいいのだろうか』という気持ちの悪いものから逃げるようにしてバッグに突っ込んだ。
やめる素振りが一切ない、晴歌の出す、ピョンピョンという音が少しづつ遠のく。
自分の体が『風』とリンクしていることに気づく。
逃げてしまっていることが分かる。
この季節には吹くはずのない、ひどく冷めた風になって、晴歌から離れていく。
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