消音

開いて渡されたノートには、訂正後のない、ひとつの詞が綴られていた。

「晴歌、が書いたの?」

言ってから気づく。自分の言ったあまりにも軽率な言葉に。


「うん、そだよ」

けれど晴歌は普段のままで答えた。

「どう?」


どう? と言われても困る。

なんせ、考えが及ぶ範疇を優に超えてしまっていたからだ。

「い、いい感じじゃない」

「でしょー!」

胸を大きく反らせ、ふん! と鼻息を鳴らす晴歌は、この自分で書いた詞の内容とはまるで違った装いで自信満々といった感じだ。


「でも、すごいね。まさかラブソングなんて」

「へ?」

「へ? じゃないでしょ。完全に、純度百パーセントの、それこそ、純愛でしょ? これは」

「ラブソング……? 純愛……?」

反りくり返っていた体勢が、だんだんと、しぼむようにして普段の姿勢、最終的には、自分の今の表情を見せまいと、両手で顔を覆い隠し、しゃがみ込んでしまった。


「もしかしてあんた、作詞しといて、自分がどんな詞を書いたのか理解してなかったの?」

言っているだけでアホらしくなる。


「……うん」

返事をしながら、未だ、真っ赤な顔をのぞかせる。


「なら、これを書いてるとき、晴歌の頭の中でどんな音が鳴ってたの?」

「……あの曲」

「それって、あの」


「そう、あの」

あの学園祭のライブで聴いた曲たちが、それに、あの時の空が、私の指針になってくれた。


「うーん、だとしたら一曲目が一番この詞のイメージに近いかなぁ」

「そう、なんだ」

「ん? 晴歌は違うの? だったら何曲目?」

「……最後の」

不安そうに、けれど睨むように私に目配せする。


最後の曲。

あれだけ題名がなかった。

多分即興で演奏したんだろう。


「そっか、じゃ、あのイメージで今度は私が作曲してみるね」

「お願い、します……」

どうやら、回復には時間がかかりそう状態の晴歌ことを心配しつつ、少し可笑しくも思いながら、その日は解散となった。




「ただいま」


今日も静かだ。

ガタンと、毎日同じBの音が鳴ってドアが閉まる。

靴を脱ぐとき、カツカツというFの音が玄関のタイルからする。

スリッパに履き替え、自分の部屋までの廊下をパタリパタリとDの音を出しながら歩き、階段を登るとCに変わる。


同じBの音で部屋のドアを開けて中に入った。


「……ふー」


数え切れないほど見てきた部屋の風景をぐるっと見回す。


「おなか減ったぁ」

何気に出した言葉が、ポン、と部屋の空気の異物として浮く。

私はその、決して見えない音を目で追うようにする。

壁に掛けてある時計を見ると、まだ五時を少し回っただけだと気づいた。


「びっくりしたなぁ……まさか、あんな詞を晴歌が書けるなんて」

深い息遣いに混ぜて独り言。

確認、再認識、言い聞かせて、ほとんど無理やりに呑み込む。

実際には、飲み込んだ唾が、喉を通ってAの音鳴らした。


「作曲……か」


コンコン!


振動だけが空気を揺らす。


「……はい」

「帰ってたのね」

「うん」

「夏休みなのに学校行ったの?」

「……うん」

「……ねえ、朱音」

「なに」

「……ケーキ買ってきたから。あなたも食べるでしょ」

「うん」

「……じゃ、降りてきなさい」

「……わかった」


音がしない。

ノックも、歩く音も。

あの人の声は、ううん、あの人からは一切音がしない。

空気の振動しか伝わってこない。


私は悪くない。

だって、あの人がそうしているだけだから。


「はい」

「ありがとう。いただきます」

「好きだったわよね、ここのチョコレートケーキ」

「……うん」

「どう、学校は」

「楽しい、よ。面白い」

「そう」


聴こえない。


この人の顔は全然そう思っていない。

この人と喋ると音が消滅する。


いつから。どうして。

そんな言葉だけで私の頭の中をすぐに占領してしまう。

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