終幕



「え……あの」

「俺が兄さんの代わりにっ、絶対専任補佐官に、なってやるんだって……っ、そう思ってたのに! 全然なれないし、っ、あっさり……お前……ミュラー補佐官がなるしっ、俺なんか全然敵わないくらいすごいしっ……!」



 大人の男性がエグエグと泣くのを、人生で初めて目撃して私は何も言えずに立ち尽くしている。

 ……どうしたらいいんだろう。これ。

 

 彼は、なんとか私をお前呼びするのはやめようとしたらしい。



「線路の案もっ、予算を抑えてできるように、かなり検討したのに……っ! なんで……なんで全部俺の前に立ちふさがるんだよぉ――っ!」



 わぁんと泣き出してしまった彼に……私は途方に暮れた。

 そしていつまでも子どものように泣き止まない「はぁ……」と大きくため息を吐き、その隣にすとんとしゃがみこんだ。



「──あの、ですね? 私はピエールさんの発表の時いなかったので細かいところは分かりませんが。ピエールさんの発案した線路の方は保留となりましたが、駅開設に伴った道路の開発、道路に面した商業施設の開発案は非常に有用で、今すぐにも取り入れるべき話ということになりましたよ?」

「……ほんとに?」



 まだ開発が始まったばかりの線路。

 実際に使用できるようになるまで随分かかるけれど、駅を利用する人が増えれば、周辺地域も潤うのは考えれば当然のこと。

 だがそれは自然発生的に民間でやることだろうという規定概念があり、官主導でという考え自体がなかった。


 そのことを説明し、ふと彼を見る。

 彼は私の顔をにらむことなく、横からジッと見つめていた。

 ようやく涙は止まったようだ。



「地質については、運輸省の長官も論文に気づかなかったですし、論文を読んだことがあるエリック長官も結び付けませんでしたよ。自分で気付けないことなんてたくさんありますし、言われてもできないこともあります。それは言われて気付かされて、それでそのうちできるようになればいいじゃないですか。だから……気にすることないですよ」

「…………」



 自分一人では気付かないけど、仲間がいて上司がいて、関係性が悪くなければちゃんと教えてくれる。

 自分ができないところだって、補ってくれる。

 そして自分も。

 そうやって、支え合うのが仕事なんじゃないかと。



「それに──お兄さんと張り合う必要なんかないじゃないですか。ピエールさんはピエールさんらしい良いところが……きっとあるのではないですか」



 そう彼の目を見て微笑めば、ピエールさんはしばらく固まったあと……じんわりと夕焼けのように頬を染めだし「……え、あ、あの」といきなり挙動不審になった。

 泣きすぎて熱でも出てきたのかもしれない。


 ──彼らしい、良いところ。

 きっとあるのだろう。

 今のところ──まったく、何一つ思い浮かばないけれど、人間誰しも良いところの一つや二つ、あるというものだ。


 ……探せば。

 彼の良いところをわざわざ探すつもりは、私にはないけれど。


 意図せず、慰めてしまう形となってしまった。

 あんなに泣いている人は子供以外で初めて見たのだ。

 こちらも動揺してしまい、なんとか慰めねば……と思ったが、よく考えたら彼はあれだけ私に暴言を吐いた男。


 ──でも、彼が泣いているのを見たら、なんだかどうでもよくなった。

 思い出とは、より強烈なものに塗り替えられるものなのだな、と今、身をもって経験している。


 私の中で彼は『暴言の人』から『号泣の人』に塗り替えられた。

 衝撃的すぎる。


 よし、もういいだろうと立ち上がり、じゃあと去ろうとしたところ。



「あ、あのっ! み……ミュラー補佐官っ!」

「? はい?」



 立ち上がった彼は茹でタコのように顔を染めている。

 いつもの憤怒の表情ではなく、切なく何かを必死で言いたそうにしている。

 見方を変えれば、照れているようにも見える。

 なんだ、ついに謝罪か? あなたは謝罪というものができたのか? と失礼にも思っていたら。



「ミュラー補佐官っ! 俺っ、あなた」

「シャルロット、こんなところにいたのか」



 大きく声がかけられ、振り向いた先には……レオン様。

 その顔を見ればパァッと笑みが浮かんでくる不思議。



「宰相閣下。会議終わりましたか?」

「あぁ終わった。シャルロットはここでなにを?」

「えー……少し話を聞いていました」

「もう終わったか? それなら戻ろう。仕事の続きが残っている」

「あ、はい。大丈夫です。ではピエールさん、失礼します」

「え、あ……」



 レオン様は他に人がいると必ずミュラー呼びをしていたのに、シャルロット呼びは珍しいなと思いながら、数歩先にいたレオン様のところに駆け寄った。


 ──すると彼は私の髪に手を伸ばし……するりとその結び目をほどいた。



「え」

「髪にごみが絡まっている。ほら、じっとして」



 そうしてレオン様は私の髪を優しくとかし、気づけば左前に全部髪を流されていた。クリスティーヌとして外出するときに、いつもする髪型。

 触れるその手があたたかく、少しだけ目を細めていたら……今度はパっと眼鏡が取られた。



「え!?」

「ほら、眼鏡にもほこりが。拭いてやろう」

「え……ちょっと、レオン様……っ」



 小声でとっさに言ったが、動揺のあまりレオン様呼びをしてしまったことに私は気づいていなかった。

 レオン様は眼鏡を奪ったまま私の腰を抱き、一瞬髪をすくった気がした。


(え!? 今、髪にキスした!? ……いやいや、仕事中にそんなまさか、ね)


 自分からは死角で見えないけれど、まぁそんなことするわけがないだろう。


 レオン様は、ハハッと笑いながら「さぁ行こう」と促した。

 そしてくるりと振り向き、「ではな、ピエール・ガルレ」と微笑んだのだった。


 私は顔がバレないよう、ピエールさんと視線を合わせないようにしつつも顔だけ振り向き、ぺこりと会釈をした。



◆◆◆◆



 庭園に一人残されたピエール・ガルレは、夕焼け色に染まっていた頬をあっという間に青白く変化させながら、今まさに思い出していた。

 あの【ナイト・ルノワール】で出会った宰相夫妻のことを。


 一瞬で目を奪われた美しきバスティーユ夫人。

 亜麻色の長く美しい髪を片側に寄せ流し、長いまつげで覆われたアイスブルーの瞳は宝石のように美しい。

 誰かも知らないそんな彼女に一目ぼれした彼は、直後に現れたパトリック・バスティーユ宰相閣下が彼女の夫であると知り、瞬殺で失恋した。


 そして仲睦まじく寄り添う夫妻と、その妻が甘く「レオン様」とささやくのを聞いた。


 ──そして今日。

 優秀すぎて苦々しく思っていた専任補佐官のシャルロット・ミュラーに、さらに自身との差を見せつけられ大泣きしているところを見られ、泣きわめき、慰められ……その優しさに胸が高鳴った。

 なんて優しいんだとまるで女神のように見え、今まで地味だと思っていた彼女が、一気に神々しく見え始めた。

 どんどん高鳴っていく胸は体中が沸騰していくように熱を持ち始め、『あ、好きだ』と素直に感じた。


 外見ではなく、その優しさで。

 よくよく考えれば、彼女は自分の能力を一切自慢げにもせず、常に控えめ。

 これ以上に理想の人はいないのではないか、と。

 そう思い、今まさに彼女に告白をしようと思った。

 その時。


「シャルロット」


 男性の声が聞こえ、振り向けばそこには宰相閣下。

 男の自分でも惚れ惚れするほど、美しくかっこよく、大人の色気を帯びたあこがれの人物。

 その時、ふと思った。

 彼はミュラー補佐官のことを「シャルロット」と呼んでいただろうか、と。


 ごみがついていたらしいミュラー補佐官の髪を彼はほどき、その髪をなでる。

 ……距離があまりに近すぎないだろうか。

 そしてそれを嫌がるでもなく受け入れているミュラー補佐官。


 そして宰相閣下は、ミュラー補佐官の眼鏡を外した。

 ……ゴミがついているからと言って、普通部下の眼鏡を上司が取るだろうか。


 その時、宰相閣下がちらりと自分を見てクスリと微笑んだ。


 ──その瞬間に、夜会での一幕が一気に思い起こされた。

 ミュラー補佐官がその直後小さな声で「レオン様」と言ったのを聞き逃さなかった……いや、聞こえてしまったのだ。


 彼はミュラー補佐官の髪をひとすくいし、そこに口付けた。

 そして……「ではな、ピエール・ガルレ」と言った。


 妖艶に、かつ射殺すようにこちらを見て微笑みながら。

 ミュラー補佐官もこちらに顔を向けながら、会釈をした。


 つい先日、見たばかりの光景。

 彼女の顔は……まさしく【ナイト・ルノワール】で出会った、あの美しきバスティーユ公爵夫人。


 ────宰相閣下の、妻。

 ミュラー補佐官が、宰相閣下の、妻。


 血の気がひき今にも倒れてしまいそうな中、ふと思い出した。

 あの日、【ナイト・ルノワール】に行こうと誘った上司が、なぜか切羽詰まっていた様子だったことを。

 絶対に自分を連れて行かねばならないという、必死の形相だったことを。


 部署のエースでもないのに、監査室に抜擢されたことを。

 宰相閣下から直々に声がかかったと聞き、自分の能力を買ってくれているのだろうと、そう思った……思っていたのだが。


 今思えば、接点などなかったのになぜ。

 宰相閣下にもミュラー補佐官にも、監査室に研修で行くより前に会話らしい会話なんて……。


 ──そのとき、ピエールは思い出した。

 初めてミュラー補佐官と会った日の会議で、自分が言った言葉を。


 もしかして、すべては自分がミュラー補佐官に暴言を吐いた時から始まっているのではないだろうかと気づき、背筋が凍った。

 自分は──今まで、彼女になんと言っただろうか。


『これだから女は……見目の悪い地味ブスが』と言ったこの口で、同一人物であるクリスティーヌ・バスティーユのあまりの美しさに一目ぼれし、その美しさを讃えた。

『たかがそれだけの能力しかないくせに』と言ったのに、能力として何一つ勝るところがなかった。


 何もかも、すべてが一つの線に繋がった気がした。



「全部……あのときから仕組まれていて……俺は」



 あまりの衝撃を受け、ふらりもよろめいた。

 ──きっと、挽回する機会は何度も与えられていた。

 けれど、自分はそれをすべて無駄にしてきた。

 さらに今……自分はミュラー補佐官に一度の謝罪すらしないまま、告白しようとしていた。



『ではな、ピエール・ガルレ』



 そう言った宰相閣下の言葉が何度も頭をよぎる。

 ピエールはその場にへたり込んだ。


 くだらないプライドから、宰相閣下から与えられたチャンスをすべて無にしてきた自分に気付いた。

 なんの能力もないのは自分だと、心底思い知らされ、愕然とした。


 口が、ひどく乾く。呼吸が浅い。視界が、また滲む。

 もう駄目だ……自分には本当に何の価値もなかったんだと気付かされたその時。

 先ほどミュラー補佐官が言った言葉が、よみがえった。


『──気付かされて、それでそのうちできるようになればいいじゃないですか。だから……気にすることないですよ』

『ピエールさんはピエールさんらしい良いところが……きっとあるのではないですか』


 ──あるだろうか。自分にも出来ることが。

 国のために働く兄をかっこいいと思い、ただ純粋に自分もそうなりたいと憧れたあの頃のような気持ちで、自分に出来ることが何か一つでも。


 顔を上げると、夕焼けの空を帰り支度を始める鳥たちが、群れを作って飛んでいた。


(……まだ、クビになったわけじゃない)


 ピエールはぐっと唇を引き結び、じっと空を見上げていた。



 ──翌日、ピエールは地方への異動願を出した。


 彼はその後山間部に出向となった。

 そこでは土砂災害の啓発に精力的に取り組むことになる。

 決して暴言を吐くことなく、何か怒って言いたげにしても、そっと口を閉じるようになったのだった。


 ピエール・ガルレ。

 彼が土砂災害予知のスペシャリストと呼ばれるようになるのは────まだずいぶん先のこと。



◆◆◆◆



 私が眼鏡を返してもらえたのは庭園を出てから。

 急いで眼鏡をかけ、髪も即座に結った。


 誰にも会わずに本当に良かったと安堵している。



「……宰相閣下、やめてください!」

「あぁ、もうしないよ。お仕置きは終わったから」

「……お仕置き?」



 なぜか機嫌よさそうにしているが、誰にお仕置きしていたのか聞いても何も答えてくれない。



「私? 私にお仕置きしていたのですか? 私、何かしましたか?」

「きみにじゃないけど。お仕置き、されたかったのかな?」


 フッと笑ったレオン様。

 補佐室前の廊下だというのに、ボッと顔から火が吹き出そうになった。

 違います! と言いつつも、その後もしつこく尋ねる私に、レオン様は身体を少しかがめた。

 私の耳元に口を寄せ「夫の秘密をなんでも暴くものではないよ」と囁く。

 ひどく誘惑的な低い声。またしても一瞬で頬が赤くなる。


 ちょうどそのとき補佐室の扉が開き──ステファン室長の顔が見えた気がした。

 けれど、その扉はすぐに閉められ、人が出てくることはなかった。



「……み、見られたのではないですか!?」


 上司と部下にしては明らかに近すぎの距離に、勘違いされてもおかしくはない。

 私とレオン様が夫婦だということを皆は知らないわけだし、浮気者だと思われてしまう。


「大丈夫、問題ない」

「……っ!? 問題だらけですよ!?」



 足早に宰相室へ向かいながらそんなやり取りをしていたが、なぜか終始ご機嫌なレオン様だった。



【完】

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契約婚した相手が鬼宰相でしたが、この度宰相室専任補佐官に任命された地味文官(変装中)は私です。(カクヨム版) 月白セブン @Tsukishiro_Seven

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