宰相室専任補佐官20 翻弄②
「いえ……そのようなことは」
レオン様が一歩ずつこちらに踏み込んでくる。そのたびに私は後退する。
いつの間にか壁際まで追い詰められ、壁に両手をついたレオン様に囲まれる形となり、逃げ道がない。
「──何か、君を怒らせるようなことをしただろうか?」
「いえ、なにもございません」
私自身にされたことなんて何一つない。
あなたは私に気を持たせたのかもしれないけど。
この程度の行為、慣れていて当然のことだったのだろう。
勝手に覗き見て、勝手に裏切られたような気になっているだけ。
それでも──この心の中のどろどろしたものが出てこないように。
押し殺そうとするだけでいっぱいいっぱいだった。
「本当に?」
「はい」
「何かしてしまったのなら謝りたいのだが」
「閣下がお気になさるようなこと、何もございませんので」
完全に拒絶の態度をとりながら口角を上げた私の顔は、ちゃんと笑顔になっているだろうか。
ほんの少し視線をずらし、その瞳は見ないようにした。
レオン様の目は……なんでもお見通しのように見えるから。
──もう、私のことなんて放っておけば良い。
抱擁だって、誰でも良いなら他の人に頼めば良い。
私は──もうごめんだ。
「……きみは一体、どれだけ私を翻弄するつもりだ」
「…………翻弄?」
「可愛い顔で抱きついてくるようになったかと思えば、いきなり完全な作り笑顔で嫌々の一瞬の抱擁。そして今は……逃げようとするし、明らかに怒っていて取り付く島もない」
はぁとため息を吐くレオン様が少し怖くて、心拍数が上がる。
「なんだ? 計算ずくか? ……いや、きみは」
この言葉に……私はプチーンと切れた。
多分、人生初だ。
彼の言葉を遮った。
「計算ずくって、なんですか……? それはそちらの方でしょう? ずっといつだって、私はあなたの手のひらの上ではないですか!? 抱擁なんて、あなたは誰でも良いのでしょ!? それならっ、私じゃなくていいじゃないですか!! もう……もうっ、私は抱擁の相手なんてっ、辞退します!」
私がそう言った瞬間、レオン様の目がギラリと光った。
壁につけられている手の囲いがさらに狭まった。
至近距離になったレオン様の顔には、いら立ちが宿っている。
そんなにアイリーン課長の代わりが必要なのか。
それなら本人にお願いすればよいではないかと、泣きそうになる気持ちを懸命に抑え込む。
負けるものかと、鋭い視線を投げかけた。
「──いつ誰が、だれでも良いと言った?」
「あ、アイリーン課長の頭……っ、な、撫でてたじゃないですか! この……女ったらし!」
初めて声を張り上げているし、声も身体もワナワナと震えてしまう。
私に責める権利なんて微塵もない上に、上司にとんでもない罵声を浴びせてしまった。
それでも、一度感情に任せて出た言葉はもう戻らない。
「……女ったらし……そんなこと初めて言われたが。あぁ……なるほど? そういうことか」
ニンマリと微笑み出したレオン様は、背後に真っ黒なオーラを出しているかのように恐ろしい……ような気がする。
なにか、言ってはいけないことを言ったような。
これからヘビに飲み込まれるカエルのような。
その初めて見る笑顔は妖艶で美しく、飲み込まれてしまいそうで。
──自分が、彼の何かのスイッチを入れてしまったことだけは、はっきりと理解できた。
◇◇
「つまりきみは……嫉妬してくれたんだな?」
「…………」
「アイリーンと私を見て、私が彼女の頭を撫でていると思って、それが嫌だったのだろ?」
「…………っ」
そう……なのだろうか?
──というよりも、それよりも。
「あっ……あの……っ! は、放して……くださいっ」
「それは出来かねる」
「……っ、ん……っ!」
なぜか抱きしめられながら、頬や額にキスをされている。
それも、レオン様は破顔とでも言うべき満面の笑みを浮かべるから、つい見惚れてしまい、頬を染める自分が情けない。
けれどこれは──明らかに『保護者として私を子ども扱い』を逸脱している。
「や、ちょ……っ、浮気はっ、っ、嫌いですっ!!」
「ん? あぁ、私も嫌いだ」
「か、閣下っ、結婚してるじゃないですか!」
「うん、している」
堂々と結婚していることを宣言しながら、妻ではない他の女(?)を抱きしめるレオン様。
やっぱり浮気者じゃないか!
「可愛い妻がいるんだ。賢くて頑張り屋で自分の頭でしっかり考えることができる、意志の強い美しい子なんだ」
優しく目を細め、それはそれは愛しそうな顔をしながら言うから、一瞬絆されそうになったが。
三年以上会話を交わしたこともない契約婚の妻の、一体何を知っているというのか。
そして、妻への誉め言葉を吐きながら、他の女(?)にキスをするとは何事か。
さすがにこれは『浮気ではない』という限度をとっくに超えている。
これが浮気じゃないなんて、あり得ない!
「じゃあっ、浮気じゃないですかっ!」
「いいや違う。これは浮気じゃない」
──浮気じゃない…………だとっ!?
ここまでしてもまだ浮気ではないと!?
ならば一体どこからが浮気なのか。
あれか? 服を脱いだらか?
それとも最後までいたそうとも、気持ちがなければ大丈夫、というやつか?
財政省の時にそんなことを小耳に挟んだことはあり『何言ってるんだこいつ』と冷めた目をした覚えがある。
呆然として目を丸くする私の頬をするりと撫でて、少し乱れた私の髪をわざわざ耳にかけた。
「先に言っておく。あの時はアイリーンの頭にほこりが大量についていたから払っただけだ。ペンを落として机の下に潜ったらしいぞ。だから──断じて撫でたわけではない」
「……そう、なのですか」
「きみ以外に撫でたり抱きしめたり……誓ってしていない」
「…………」
そうなんだ、と納得したところもある。
アイリーン課長とは何もなかったと言うことだ。
だが。
「…………離してください」
「シャルロット」
「これ以上は、軽蔑します」
私は一気に無の表情となり、冷めた視線を彼に投げかけた。
人によってどこからが浮気なのかの価値観は違うのだろう。
それでも彼が「裏切ったり浮気はしない」と言うから、そういうことを一切他人にしないと思っていたのだ。
抱擁くらいは、子供扱いならばあり得るのだろうと思った。
が、これは私の中では完全に許容外。
「浮気」の範囲について詳細を確認しなかった自分にも多少の非があるかもしれないが。
これはアウトだと自分で判断した以上……。
──流されたりなんて、絶対しない。
「私、そういうことは伴侶とだけするものだと思ってます。それ以外の方とする方を、心底軽蔑しています」
「──うん」
価値観や性格が合わないのならば別れるのも仕方のないこと。
暴力を振るう人なんて、さっさと逃げるべきだ。
ただ、他に好きな人が出来たから、という理由で気軽に結婚相手をさっさと捨て乗り換えてしまったり、浮気をすることに嫌悪してしまうのが私。
『恋愛至上主義』がはびこるこの時代、自分の考えの方が特殊で潔癖なことくらい分かっているから、どれだけ不快に思おうとも、私自身が当事者でないならば、他人に声をあげてそれを望んだりなんてしない。ちゃんと心の中に留めている。
どの考えが良い、悪いではなく、私が嫌だからしない。それだけだ。
アイリーン課長は関係なかったにしろ、レオン様にクリスティーヌという妻がいる以上、シャルロットは浮気相手ということになる。
私は……私の嫌悪する人間になりたくなどない。
確固たる意志を持って私が睨みつけながら言っているのに、レオン様は私の言葉に目を見開いた後……。
──またしても彼は嬉しそうに笑った。
意味がわからない。
「宰相閣下はご結婚されているでしょう? 私にも夫がいますっ!」
「うん、そうだね?」
「そうですっ! …………え?」
──え?
…………私に、シャルロットに、夫がいることを知ってる?
それはつまり、もしかして……。
その相手も知っているということ……だったりするだろうか?
──その時、コンコンコンと部屋をノックする音がした。
ドクンッ! と心臓が1メートルくらい飛び跳ねた……気がする。
部屋に鍵などかけていないし、抱きしめられたこの状態を見られたらとんでもない事態になるのは目に見えている。
私は慌ててレオン様を押し除けた。
パタパタと身支度を整え返事をすれば、レオン様への用事だったようで。
中へ入ってもらうと同時に、自分は先程のアルノー殿下への書類を持ち「書類届けてきます!」と足早に部屋を出たのだった。
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