宰相室専任補佐官19 翻弄①
その日私は不備書類を届け、宰相室に戻ろうとしていた。
扉が少し開いている。
そういえば今日はアイリーン課長と午後に打ち合わせをすると言っていた。
最近、長官たち以外にも課長とのやりとりがかなり多い。
ひょこっと覗いてみれば。
──アイリーン課長の頭をポンとした手を離したばかりの……レオン様が。
レオン様は少し困ったように笑みを浮かべ、課長は照れたように笑っていた。
一瞬自分が目にしたものが信じられず、その場に立ち尽くしていたらカタリと扉に触ってしまい、二人はこちらを振り向いた。
「……あっ、シャル、おかえりー」
「ミュラー、ファイルは借りられたか?」
「──戻りました。はい、借りてきました」
書類を自分の机に置き整理を始める。
レオン様とアイリーン課長は、ずいぶん至近距離でヒソヒソと打ち合わせをしている。
今、課長の頭──撫でてたんですよ、ね?
レオン様は……。
女性なら誰でも──頭、撫でるんですね。
二人が一気に遠くに感じられた。
頭を撫でるのも。
抱擁するのも。
異性として見られてなくても。
子供扱いだとしても。
せめてそれは──私だけだと、信じていたかった。
いや、信じていた。
今、この瞬間まで。
「えぇ、そうね……では一週間後で調整を入れるわ」
「あぁ、頼んだ」
「任せといて。ずっとこのためにやってきたんだから」
アイリーン課長は私に「じゃあねー」と笑顔で手を振り、宰相室を出て行った。
──私はその後、顔を上げずに黙々と書類と向き合い続ける。
子供扱いでも……せめて特別枠だと思っていた。
でも──ただの思い込みだった。
独占欲のようなものが図々しくも出ていたのだ。
子供でもあるまいし、なんと浅はかな。
キスだって「この程度」と思う人もいると、ターニャが言っていた。
これくらいの行為──世の中でも、レオン様にとっても、何一つ特別なことではなかったというのに。
私は──あの笑顔に、甘い声に、ぬくもりに。いつの間にか期待してしまっていたんだ。
今まで積み上げてきたものがすべて崩壊していく感覚に支配されている。
──一人で勝手に期待していただけなのに。
そもそも、積み上げてきたもの自体、何もなかったのに。
勝手に裏切られた気分になっているなんて、傲慢にも程がある。
あまりの自分の愚かさに、つい失笑してしまう。
それに……レオン様とアイリーン課長の二人は、あまりにもお似合いだった。
大人の二人。
アイリーン課長なんて、女性文官のあこがれの的だ。
男性だって憧れている人が多い。
そういえば、先日私に抱きつこうとしたアイリーン課長をレオン様が遮った。
アイリーン課長はその時「嫉妬は醜いわよ」と言った。
…………そうか。
レオン様は……アイリーン課長が誰かに抱きつくのが嫌だったんだ。
アイリーン課長は仕事が出来て、企画力もすごくて、美人で、大人っぽくて、誰とも対等に話して議論して。ああなれたら、と誰もが憧れる存在。
反面私は、知識を溜めてこれとこれを組み合わせることだけは出来ても、新たな企画を想像することなんてできない、補佐力だけの人間。
そんな私が、重要視されるはずもなかった。
──特別になれるはずなんて……なかった。
◇
──考えないよう仕事に集中しているうちに、午後の会議の予定が差し迫ってきた。
「そろそろ時間です。少し急ぎましょう」
「あぁ、少し遅れ気味か。シャルロット、はい」
急いでいるというのに、またしても抱擁しろと腕を広げる。
──どうせ……誰でもいいくせに。
私じゃなくても、いいくせに。
私は無理矢理微笑みを作り、その胸にギュッとしがみつき、一瞬でパッと離した。ちゃんと笑えていたかは分からないけど。
「時間がありません。少し走りましょう」
「……え、あぁ」
小走りになり……いや、走っているのは私だけで、レオン様はその長い足を大股にして歩いているだけだけど。
──会議を終えれば、もう外は夕闇。
帰りの早い部署はすでに仕事を終え、帰路につき始めていた。
先程の会議では、淡々と仕事をこなした。
レオン様に呼ばれて近くに行くことがあっても、ちゃんと微笑んで返事をすることができたし、意見だって述べた。
仕事に支障をきたしてはいないはず。
それでも……私の態度の違和感に気付いたのか、レオン様は何度か私を見て何か言いたげにしたけれど、私はずっとスルーして微笑んでいた。
いつも通り円滑に進むよう、最善の結果が出るよう、フォローする。
それが──私の仕事。
胸の中はムカムカして、ささくれだったまま。
それでもその感情は私の心の中の問題で、そもそも仕事にはなんの関係もない。
そんなことは百も承知だ。
だから表に出さないよう……笑顔という名の防壁を張る。
それがたとえ、ぎこちなかったとしても。
────笑え。ちゃんと、笑え。
◇
残って話し合いがあるレオン様を置いて宰相室に先に戻り、ちっとも解消しないこの胸の苛立ちを解消すべく、コーヒーを一気飲みした。
もう少しでレオン様が戻ってくるかもしれない。
彼には部下として以外のなんの意図もなかっただろうに。
勝手に好意を持ち、一人で期待した結果……今、真っ黒に蠢くような感情が胸の中に渦巻いている。
合わせる顔がない。
なにか外に行く用事はないだろうかと無理矢理探し出したのが、第二王子アルノー殿下への書類。
明日補佐室経由でお願いしようと思っていたが、直接持っていくことにした。
慌てて扉から出ようとしたその時に──。
レオン様がちょうど扉を開けたところだった。
「あ……おかえりなさい。私ちょっと出てきますね」
大丈夫。
『一抱擁』のルールは、「二人が同じ部屋にいる時」だ。
二人とも外に出たら問題ない……と思ったのに、通り過ぎようとしたらグイッと腕を引っ張られ、部屋の中に戻されてしまった。
「慌ててどこに行くつもりだ?」
「あ、アルノー殿下のところへ……書類の不備がありまして」
なんとか作り笑いをする私は彼と視線を合わせることが出来ず、微妙なところに視線が漂っている。
レオン様は私が持っていた書類をヒョイと取り上げ、パラパラとめくった。
沈黙の時間が辛くて、ごくりと喉が鳴った。
「──これ、急ぎではないな? 補佐室経由で問題ないことだな?」
「…………」
「私に……会いたくなくて、か?」
レオン様が──ぽそりと呟いた。
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